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「なるほどね、筆談か」
娯楽街の地区面積のうち15パーセントを占める、都市内最大のショッピングモールのなかをいくつか回ったあと、二人はモール内のフードコートでランチを楽しんでいた。数刻前よりセラはフードコート内の料理すべてが珍しいとでもいうようにきらきらと目を輝かせ、どれも捨てがたかったのか、なかなか注文が定まらなかった。結局彼女は、レイの提案で彼と同じものを注文した。
二人が注文したのは、白身魚のフライを挟んだビッグバーガーのセットだった。ポテトとチキンとサラダ、それからドリンクが添えられていて、ボリュームはかなりあった。レイがこれをセラに提案したのは、セラがスプーンやフォークなどの類を上手く扱えない場合を考えてのことだった。とはいえ、自分の顔ほどもあるバーガーが出てきたときのセラのはしゃいでいる顏を見たときには、自分がした配慮など関係なく、バーガーにしておいてよかったなとレイは改めて思った。
二人が座る丸テーブルの席を、バーガーとチキンの香ばしい香りが包む。セラは夢中でバーガーを頬張っていて、口の周りに落書きみたいにソースがついてしまっていた。レイはテーブルに備え付けてあった紙ナプキンを一枚手に取り、彼女の口の周りをそっと拭いてやる。
「筆談なら誰とでも会話はできるわけだ、一応」
レイがそう言いながら自分のチキンを口に運んだとき、セラは食べる手を止めて話した。
――誰とでも、というわけでもないの。
「ん、どうして? 紙とペンさえあれば……」
――なかには、それらを与えてさえくれない人もいるから。紙に書いた文字を気にも留めない人だっている。そういった人たちはみんな一方的なの。私の気持ちはまったく理解してくれない。
レイは自分の手が食事をやめていることに気づいた。しかし、セラが自ら自分のことを話してくれているのだ。レイはこのチャンスを逃すまいと、セラに向き直って問うた。
「それは、君がいた場所でのこと?」
――そう。あそこの研究員の人たちは、一人を除いてみんなそうだった。誰もかれも自分たちの実験に夢中で、その度に私の反応を見ては嬉しそうに喜んだり、イライラと怒ったりしてた。一番嫌いだったのは痛覚テスト。私の全身に何百通りもの刺激パターンを与えて、私の痛覚が普通の人間のそれと同等に機能しているかを確かめるの。すごく嫌だった。皮膚にだけ痛みを与えるときもあれば、内臓に負荷をかけるときもあった。私は必死にやめてって叫んだけれど、最後まで聞き入れてはもらえなかった。あんまり叫びすぎて、気づいたら叫び方を忘れちゃった。たぶん、喉の奥が擦り切れてるんだと思う。きっともう治らない。
「一人を除いて?」
――うん。私と会話をしてくれたのは、あの場所ではダニエルさんだけだった。
『ダニエル』という言葉に、レイはすかさず反応した。
「それは、ダニエル=カーターのこと?」
――そう。ダニエルさんはいつも私に優しくしてくれたの。彼の実験はいつも簡単な心理テストと学問や言語の授業だけで、痛くはなかった。話もよく聞いてくれるし、私、彼のことだけは嫌いじゃなかった。いまの私が持つ知識はすべて、彼から教えてもらったものなの。
つまり、ダニエルも都市が抱える研究員だった、ということだろうか。レイは頭のなかで推論を組み上げていく。
都市が秘密裏にバイオロイドを生成していたであろう可能性は、都市がバイオロイドの成功例の発見に関して完全な報道管制を敷いたうえ、ダニエルのバイオロイド保有という都市法違反に対する処罰が保留となっていること、加えてダニエルの私財だけではバイオロイド生成は不可能であることから大いにあり得ると言える。彼の自宅の地下にセラが管理されていたのは、彼が実はバイオロイド技術に関わる研究者であり、バイオロイドを安置する寝台装置を有していたから、だろうか。では、どうして彼は地下にそんな装置を持っていたのか? 実は研究員たちのなかでも上層の立場にいた? では、セラが体験した壮絶な実験の数々はあの地下施設で行われていたのか?
そこまで考えてレイは、自分の思考がエスカレートしすぎていることに気付いて自制した。ダニエルには、自分の命よりも家庭を大事にしている節があった。まだ6歳の娘がいる家のなかで、そんな非人道的な行動に出るだろうか。
それに、まだまだ疑問は残っている。ダニエルの地下施設に現れた、セラと瓜二つである黒髪の少女の存在だ。彼女はセラの生成のために遺伝子提供をしたというが、彼女は一体、何者なのだろうか。讃美歌という組織もそうだ。彼らはなんの目的でダニエルを狙った? 都市が都市法を犯して生成したバイオロイドを始末するため? それとも、讃美歌もバイオロイドを必要としてしていた?
「……ふーーーーっ。だめだ、情報が足りなすぎる」
――情報?
「あぁ。……一応聞くけど、君は自分が捕えられていた場所がどこだか把握してたか?」
――施設だよ?
「いや、そうじゃなくて。その施設が誰のものでどこにあったか、ってことさ」
――ごめんなさい、あまり詳細にはわからないの。でも、誰のものであったかはわかる。
「なっ、本当か!? それはいったい……」
思わぬセラの答えに、レイは無意識に身を乗り出していた。施設の最高責任者だけでもわかれば、あるいは真相まで辿り着けるかもしれない。
――エリック。責任者はエリックって人だった。
「エリック? セカンドネームは?」
――わからない。私が知っているのは、エリックって人が私に行われる実験の最高責任者だった、ってことだけ。彼は私のことを、人類を救う鍵となる存在だって言ってた。
「人類を救う、鍵……?」
――ええ。私にはどういう意味かわからなかったし、正直、どれだけ理由を並べられたって実験をされることは嫌だったから、あんまり興味もなかった。
「まぁ、そうだよな……。もういい、この話はまた今度にしよう。今日はこんな話をしたくて君を外に連れ出したんじゃない。これを食べ終わったら、もう一度モールのなかを回ろうか」
レイの言葉に、セラは自分がまだ食事中だったことをいま思い出したかのように食べかけのバーガーを見つめた。セラは再びそれを口に頬張ると、嬉しそうに頬を緩めた。
――こんなに美味しいものがあるなんて、私、知らなかった。施設じゃ毎日同じ食べ物しか出されなかったから。
「バーガーが嫌いな人はなかなかいないから。きっと君も気に入ると思ったんだ」
――うん、好き。
セラの笑顔から、純粋な喜びが見受けられる。口の周りはもうソースでべたべただ。
バーガーを食べるという、都市ではいたって普通の行動にここまで感情が表れる彼女を見て。
レイは、この少女の背景に潜む凄惨な過去を再認識していた。
午後は、モール内のゲームアーケードで長い時間を過ごした。数々のゲームを二人で回っていたが、セラは目につくゲームすべてに飛びついて、どれも必ず1プレイはしていった。アーケード内のゲームをすべてやりきった頃には、時間はもう夕方時になっていた。
「どう、満足した?」
レイがそう訊くと、セラは興奮した様子で頷いた。相当楽しかったようだ。
再びモール内を回りだしたとき、レイのPADにメッセージが受信された。内容を確認してみると、ナタリーからだった。
『ライトブラウンのヘアカラーリング材を買っておいて』
セラの髪を染めるのに使ったときに、カラーリング材をほとんど使い切っていたことをレイは思い出した。おそらくナタリーは自分の給料でカラーリング材を買っているはずで、それをわざわざ非番のなか呼び出し、セラを外出させるために使ってもらったのだ。同じものを買って返すのは道理だと言えた。
「セラ、ドラッグストアに寄ってもいい? 買わなきゃいけないものができたんだ」
――あなたと行けるならどこだっていい。
「ありがとう、悪いな」
幸いにもモール内にドラッグストアはあったので、そこへ向かう。セラはレイの手を放すまいと繋ぎながら、隣をついてきた。
目的のストアに着き、入店する。そして、カウンターのほうで白衣を着た男性が来店を歓迎する挨拶をしたとき、それは起こった。
セラの、レイの手を握る力が途端に強張った。レイはどうしたのかとセラに目を遣った。セラは白衣の男性を目を剥いて見つめたまま震えていた。
「……セラ?」
――だ、大丈夫。買い物を続けて。
そう言ってはいるが、レイには大丈夫そうにはまったく見えなかった。
言いようのない不安が募るなか、レイは一つ思い立って読心を展開した。まさか、あの白衣を着た男性がセラとなんらかの関係を持っているのだろうか。しかし、男性の心情はいたって普通だった。頭のなかには仕事をやっつける意識しか入っていない。
そこでレイはもう一つの可能性に行き着いた。もしいまのセラの状態が、PTSDの類の症状だとしたら。かつてセラに数々の実験を繰り返してきた人たちがみな白衣を着ていたとしたら、彼女にとって『白衣』とは、過去の凄惨な体験をフラッシュバックさせる引き鉄となり得るのではないか。
「セラ、つらいなら外で待っててもいいんだぞ? 急いで買って……」
――いや! 一人は絶対にいや……っ! 大丈夫だから、一人にしないで……
悲痛な面持ちで訴えるセラの姿を見ると、レイはこれ以上なにも言えなくなった。さっさと用事を済ませて出るのがもっとも最善なのもわかる。しかし、セラは張りつくようにレイにしがみついていて、このままではレイのほうも移動がままならない状態だった。
そのとき、横から白衣を着たアルバイトらしき若い女性がやってくるのが見えた。レイの体に顔を埋めてしまったセラには、その姿が見えていない。白衣の女性からは純粋にセラの様子を心配している感情しか把握できなかったが、セラの心理状態はもう限界に到達していた。来ないでくれ、とレイは心底願ったが、白衣の女性は真っ直ぐこちらに歩み寄っていた。
「あの、どうかなさいましたか?」
「いや、その……」
ついに声をかけてきた白衣の女性に対してレイが口ごもっていると、セラが何事かと顔を上げ、女性を振り向いた。
――直後、女性の体が突き飛ばされた。
陳列棚に女性の体が衝突する。商品は雪崩れるように次々と棚からこぼれ落ち、床に散らばっていった。女性はそのまま棚にしな垂れかかるようにして止まり、突然のことに困惑した表情をしていた。
「大丈夫か!?」
レイは突き飛ばされた女性に駆け寄る。奥から先ほどの白衣の男性もやってきて、女性になにがあったのかと確認していた。セラはそのあいだ、女性を突き飛ばしてしまった自分の両手を見つめながら呆然と立ち尽くしていた。
その後の対応は迅速だった。ドラッグストアの店員たちは総勢で突き飛ばされた女性の状態と商品の被害をチェックし、保護者のレイに被害額の請求をした。そして、もうこのようなことはないようにとセラにも柔らかく注意を促して、二人に店を出ていくようにと言い渡した。ただ一人、突き飛ばされた女性だけがどこか申し訳なさそうな顔をして、二人の去り際にセラにこっそりと謝りに来てくれた。セラは呆然とするばかりで、受け答えはしなかったが。
――あの……ごめんなさい。
帰り道のなか、セラは掠れてしまうほど小さくそう伝えた。
「いや、俺が悪かったよ。ドラッグストアなんて、考えてみればトラウマを刺激する可能性は十分だったはずなのに。ごめんな」
――でも、私のせいでお金が……
「金の心配なんてしなくていい。そんなことよりもセラのほうが心配だ。もう落ち着いた?」
優しく尋ねると、セラは力なく頷いた。どうやら先ほどの一件を相当気に病んでいるようだ。
モールの外はいまだに活気を忘れていなかった。時間はもう午後6時を過ぎていて、そろそろ居酒屋やバー、クラブやパブといった夜の店が営業を開始する頃だ。活気は深夜までどんどん膨れ上がっていくだろう。娯楽街が『娯楽街』と呼ばれる所以だ。
二人は車に乗り込み、高架道路に入った。人々の活気を乗り越え、ハイドアウトのある寂れた一角を目指す。
――――――、――――、―――――――……
ふと、隣に座るセラが心で歌を紡いだ。レイはしばらくその歌に聞き入った。それはいつもと同じ、優しい音色だった。
「……なぁ。それ、いつも歌ってるけどなんの歌なの?」
歌が終わるまで待ってから尋ねる。するとセラは、窓の外を見つめながらこう答えた。
――わからない。ずっと前から、この歌は自然と私のなかにあったから。
「どこかで聴いたことがある歌を無意識に口ずさむことならあるけど、そうではなく?」
――歌なんて、いままでに聴いたことない。今日、モールで初めて聴いたくらい。
「へぇ。じゃあ、自分の内から生まれた音色なわけだ、その歌は。作曲の才能があるのかもな」
――才能?
「あぁ。人はこの世に生を受けるとき、どこかで使命みたいなものをもらってくるんだって、随分と昔にどこかの厳しい部隊長が言ったんだ。俺はその当時、自分の『人の心を読む』っていう能力に嫌気が差しててさ。いまみたいに感覚野への干渉の制御が上手くできなかったから、他人の考えてることが常に頭のなかに入ってくるんだよ。別に知りたいわけでもないのに。おかげで、いろんな人間を見てきた。汚いことばかり考えてるやつとか、誰かに騙されてることに気づかずに自分の平穏に浸ってるやつとか、女の裸しか想像してないやつとか、上辺だけ取り繕いながら裏では腹黒いこと考えてるやつとか、ね。もう、頭おかしくなりそうでさ。なんでこんな最悪な能力が身に着いちゃったんだろうって、毎日神様を呪ってた。そんなときさ、その部隊長がやってきたのは。そいつは俺に、君のその能力は、恐らくは君にしかない才能なんだ、と言った。なに言ってんだこいつって最初は思ったけど、そいつの感情はいままでに見たことがないほど真っ直ぐでね。……だから俺は、そいつについていくことに決めた。そこでいろんな訓練と教養を受けたおかげで、いまの俺がある」
いつの間にかこちらを向いていたセラを横目に見ながら、レイは続ける。
「俺は、君という存在が、施設で実験を受けるためだけに生まれてきたとは思わないよ。数々の実験は、君が自分のなかに眠るものを輝かせるための試練だったのかもしれない。そして君は、それを生き抜いた。『歌』っていう、一つの才能を身につけて。……どう? こういうふうに考えたら面白くないか?」
笑ってみせる。セラはそんなレイを見つめて、次には膝元に視線を落とした。
――私ね、歌を歌ってるときだけは、自分を強く感じれるの。
「自分を感じる……?」
――うん。実験で体を痛めつけられてるときは、自分の体がまるで自分のものじゃないみたいに好き勝手に弄ばれて、つらかった。けど、歌を歌ってると違うの。この歌は私のなかで生まれて、私が自分の意思で歌ってるんだ、って。この体は私のものなんだって、そう思えるから。
彼女は、俯いていた顔を再び上げる。
そこには、確かな光があった。
――私、いつかこの歌を形にしたい。そうするために生まれてきたんだって思いたい。
「きっとできる。もう、君を縛るものはなにもないんだから」
セラが柔らかに笑う。レイも、自然と笑みがこぼれた。
――ねぇ。明日、もう一度あそこのドラッグストアに行ってもいい?
「え、どうして? やめたほうがいいんじゃ……」
――謝らなくちゃ。悪いことをしたのは私なんだもの。
「……そっか。じゃあ、連れてってあげる」
――ありがとう。
日が沈み、夜が深まるなかレイは、ハイドアウトへと彼女を連れて行きながら思う。
なんだか、随分と強いじゃないか、この少女は。