4-1
4
覚醒しきれていない微睡みのなか、レイは歌を聴いた。
――――――、――――、―――――――……
心地よい歌声がレイのなかに浸透する。歌詞こそないものの、そのメロディは聴く人の心を落ち着かせるような優しさがあった。このまま、もう一度深い眠りに入ってしまおうか。レイがそう思った、ちょうどそのときだった。
レイの体に、ぼふ、となにかが倒れ込んできた。彼はそこで目を開いた。
最初に目に入ってきたのは、天井の明かりだった。思考が冴えないまま、なんとなく辺りを見渡す。広い間取りのなかに、大画面の液晶モニター、ガラス製の透き通ったテーブルと、それを囲むように設置されたソファ。これだけだといかにもくつろぎの場のようにも思えるが、室内の壁には一面に数々のモニターが設置されており、それらがこの部屋の安息感に違和感を与えていた。そのまま視線を自分の体に移していくとそこには、輝くような銀髪と、こちらを見つめるあどけなくも美しい顔があった。
――おはよう、レイ。
「あぁ、おはよ……」
感覚野に響く彼女の言葉に、レイは寝ぼけたような声で返した。
セラが目を覚まし、レイと初めて会話した日から、数日が経過していた。あれ以来セラはレイとしか会話しない状態が続いており、レイが病院にいなければ聴取が行えない状況になっていた。レイにも部隊としての様々な業務があるため常に病院に通い詰めることは難しく、バイオロイドに絡む今回の事件の捜査の進展が芳しくないこともあってか、昨日、本部に呼び出されたレイはオージッドから異例の命令を受けたのだった。
『――はぁ? 捜査から外れてセラのお守りだって? 冗談だろオージッド』
『いたって真面目だ。現状、あのバイオロイドの心意を理解できるのはお前しかいない。彼女に付き切りで行動し、隙を見て事件に関する内容を聞き出せ』
『みんなが事件解決に向かって動いてるなか、俺だけ女の子と遊んでろってか。ただでさえ人手が足りないのに?』
『命令には対象の護衛任務も含めている。もし彼女の身に危険が及ぶ場合、未然に対処できるのは読心を持つお前しかいないと判断した結果だ』
『でも、俺が抜けた穴は誰が埋めるん……』
『俺が埋める』
『つったって、あんただってただでさえ忙しいだろ。平気なのか?』
『お前はなにも心配しなくていい。これは上官命令だ』
随分と楽な役回りだった。日々の捜査の代わりが一人の少女との共同生活……レイにとってはもはや、休暇に等しかった。それに、心の傷がそこまで癒えていない今のセラの心理状態では、彼女の身に起こったことを訊き出すにはまだ危ういとレイは感じていた。そうなると、レイにできるのはセラの心が回復するまでともに過ごし続けること以外にはない。仲間たちがずっと奔走していたなかでのこの状況は、レイにとっては気が退ける思いでいっぱいだった。
微睡みながら部屋の内装をもう一度見渡してみて、レイはふとした懐かしさを感じていた。ここはA.L.I.V.E.が保有する第2本部であり、娯楽街の一角にあるバーの地下に位置している。任務によっては対象を人目から離れた場所で匿わなくてはならないこともあるため、場所柄、普段よりも注意力が比較的低下しているであろう人たちでごった返している娯楽街に、あえてこのような施設を設置したのだった。この場所は単に身を隠すためだけでなく、出動前のブリーフィングや、肉体を鍛えるためのトレーニングなども行うことを想定しているためにそれなりの設備が備わっているのだが、これらよりももっと上等なものがクレイドアタワー地下の部隊総本部には備わっているため、この場所はどうしても隠れ家的に使うことのほうが多く、部隊ではまさしくハイドアウトと呼ばれていた。
とはいえ、部隊が請け負う任務のすべてが対象護衛任務であるわけもない。そしてこの施設の真上にあるのはバーである。部隊にとってのこの施設の用途といえばもっぱら、仕事に疲れた隊員たちが上のバーで飲んでは、帰るのも面倒になって地下で寝泊まりする、といったようなことがほとんどで、今回のように護衛的に使うことは本当に久しぶりのことだった。
レイはのろのろと体を起こしながら、大きく欠伸をかいた。
――まだ眠そう。疲れてるの?
レイの顔を覗き込むようにしているセラから言葉を受け取った。この少女は、会話する際には必ず相手の目を見て話した。レイは間近にセラの顔を見ながら、いまいち張りのない声で返した。
「いつ出動命令が下るかわからない状況なうえ、毎朝の出勤が早いんだ、普段は。酷いときは午前3時に出動して戦闘してから、7時に出勤したりすることもある。安定しないんだよ、生活リズムが。おかげで久しぶりにゆっくり寝ると寝覚めが悪い……」
ふあぁ、ともう一度欠伸が出てくる。レイはソファから立ち上がり、洗面台へと向かった。
買い置きの洗顔剤と歯ブラシを取り出して寝ぼけ眼のまま歯を磨いたレイは、続けて洗顔に取りかかった。冷水を顔に当てて目を覚ましながら洗顔剤で顔を洗っていき、最後に顔を覆う泡をすすぎ落としたときに、気づいた。
セラが、じーっとこちらを見ていた。水に濡れた顔をタオルで拭きながら、鏡越しにそれをレイは見留めた。彼女の眼差しからは好奇心が窺えて、レイは思わずやりづらさを覚えた。
「あの……なに?」
――えと、なにしてるのかな、って。
「なにって、歯を磨いて顔を洗ったんだけど」
――それって、いつもすることなの?
「いやいや、まさか君はいつもしないの?」
――うん。したことない。
驚愕がレイを襲った。レイはセラに近寄り、その肌を入念に触っていった。セラの肌は相変わらず透き通るように白くて、垢にまみれている様子はない。顔を見てみればそちらも綺麗な肌をしていて、洗顔をしたことがないような肌には見えなかった。続いて唇に触れて口内を見る。歯も綺麗だった。
レイはふと思い立ち、設置されていた情報端末で都市警察の鑑識課データベースにアクセスした。素早くA.L.I.V.E.の隊員番号を打ち込み、カーター宅立て籠もり事件で鑑識に回されたものをチェックしていく。そのなかに、バイオロイドを安置するための寝台装置があった。
見てみて、納得した。どうやらあの寝台装置には、マイクロマシンによる衛生管理機能が備わっていたようだった。そしていまやどの医療機関でも、マイクロマシンを利用した衛生管理システムは当たり前のように組み込まれている。病院でもカーター宅に安置されてたときと同様に、マイクロマシンによって身の清潔を保っていたのだろう。
しかし、このハイドアウトにはそんな設備は存在しない。
「なぁ、セラ」
レイは自分のすぐそばを離れずにいるセラに向き直る。
「昨日、なにか食べたりした?」
――ううん。
「なら、お腹空いてるだろ。なにか食べたほうがいい。歯磨きはそのあとで教えてあげる」
思っていたよりも苦労しそうな仕事かもな。そんなことをレイは、つい思ってしまった。
簡単な朝食を済ませ、歯磨きのレッスンも終えたあとで、レイはソファに座りながらPADで本部にアクセスし、自分の本日のワークスケジュールを確認してみた。タイムテーブルすべてに『重要参考人聴取』と記載されてある。どうやら、本当に給料はつくらしかった。
ほかの隊員たちの本日のスケジュールも見てみた。オージッドは法務省公安局本部にて会議ののち、バイオロイドについての捜査が予定されていた。鑑識を当たるようだ。ニクソン、ディソルは報告書作成などの事務的な業務のあと、ダニエル氏の妻、メグミに対して聴取を行うことになっていた。コトミは事件現場であるカーター宅周辺の聞き込みに一日宛がわれ、ナタリーは今日は非番となっていた。見てみれば、ナタリーは昨日までで実に20日以上連続勤務していた。事件捜査が行き詰っているとはいえ、さすがに休みを与えなければとオージッドも感じたのだろう。
――ねぇ、これでいいの?
セラの声を感じ、奥の通路へと繋がる出入り口に目を遣った。
そこでは、白地のAラインワンピースに身を包んだセラが立っていた。
「いいじゃん、すごく。似合ってると思うよ」
――いつもこういう服が置いてあるの?
「ここを急に使うことはたまにあるんだ。だからみんな服は一通り買い置きしてある。たぶん、それを買ってきたのはキーラだな。いかにもあいつが好みそうな色だ」
――なんだか、スースーする。
「そりゃワンピースだし。なかにシャツかなにか着てきたら? タイツもたぶん置いてある」
――そうする。
再びセラはリビングをあとにし、また戻ってきた。ワンピースの袖からシャツの長袖が出ていたが、むしろそれはよく合っているように見えた。タイツも身に着けてきたようで、レイはなんだか、セラが数分前よりもぐっと大人っぽく見えるようになった気がした。
「さて、どうしようか」
セラが讃美歌、都市の両方にとって重要な存在であったことを考えると、ハイドアウトから出ずに、大人しくここで過ごすのが最も安全で賢い選択だと言える。しかし、セラの心を少しでも晴れやかにしてやらないことには、聴取が進まないことも事実だった。レイは悩んだが、最後にはセラを外に連れ出してやることに決めた。
「なぁ、一日ここに居ても気が滅入ってこないか?」
隣で壁一面のモニターを興味深げに眺めていたセラに尋ねる。セラはレイを見ると首をかしげた。
――気が滅入る? なぜ?
「なぜって、じっとしてるとストレス溜まってこない?」
――ううん、そんなことない。ここにはいままでに見たこともないお部屋がいっぱいだし、話を聞いてくれる人だっているから。前までいたところは実験ばっかりで、本当に嫌だった。どんなに言葉を並べたって誰も私の話は聴いてくれなかったし。それに比べたらこの場所はとても素敵。
表情を変化させることなくそんなことを言ってしまうセラを見ながら、レイはどうしていいかわからずに頭を掻いた。そうするほかに、セラの言葉を受け止める術を咄嗟に見つけられなかった。この少女は、自分が味わってきた凄惨な体験がさも日常であるかのような話し方をする。レイはそれを聞いて素直に可哀そうに思ったし、そんな過去は払拭してやりたいとも思った。
不思議と、いまの会話だけで、オージッドに与えられたこの任務に対するやりがいがレイのなかに生まれていた。レイは座っていたソファから立ち上がった。
「いままで、施設でしか過ごしてこなかったのか?」
――うん。それ以外の記憶はほとんどないかも。
「そう。なら、とりあえず行こうか」
明るく言ったレイに、セラは行くってどこに? とでも言いたそうに首をかしげた。レイは声の調子を崩さずに続けた。
「外だよ、外。今日はまず遊ぼう。待ってて、いま大人のお姉さんを呼びつけるから」