3-2
「さあ、ここだ」
やっと渡辺が声を発したのは、3人が隔離病棟の一室まで辿り着いたときだった。渡辺が病室のドアを開けるとその先は多くの機材やモニターに囲まれており、そのなかで数人の看護師や研究員が作業をしていた。そして見えるのは一面の透過性のガラスで、その向こう側では確かに、あの銀髪の少女が目を覚まして起き上がっていた。
ガラス越しに見える室内は、色彩がほとんどなかった。ベッドが一つあるほかにはなにもなく、綺麗に整えられてはいるが閑散としていた。そんななか、少女の銀髪だけが輝いていて目立って見えた。彼女の肌が透き通るように白いせいか、その存在感を担っているのは髪の色だけのようにも思えた。少女のそばでは2人の看護師が少女に話しかけているらしかったが、少女は毛布とシーツに全身を隠すようにくるまり、怯えた様子で看護師たちを見ていた。
「せ、先生、まさか裸で寝かせていたんですか?」
「そりゃまさかだ。ちゃんと患者用の衣服は着せてるよ」
「私には怯え方が尋常じゃないように見えますけれども、どのような処置をしてここに安置していたんですか?」
「キ、キーラさんまで僕を疑ってるんですか? 非道なことはなにもしてないですってば! 心電モニターのためにいくつか電極を体に取り付けていただけです!」
慌てた様子で渡辺が弁解していたとき、ガラスの向こうで動きがあった。といっても、看護師2人が肩を落として少女から離れていくだけだが。その2人はまさしくとぼとぼ、といった感じでこちらの部屋までやってくると、渡辺を見つけては頭を下げて挨拶をした。
「どうも、渡辺先生」「おはようございます」
「おはよう。バイオロイドの子、どんな感じ?」
「どうもこうもないですよ。反応がまるで人食い鬼でも目の当たりにしているような感じで」
「我々が身振り手振りを交えて会話を試みると、すぐに目を瞑ってびくっ、と震えるんです。ぶたれるとでも思ったのでしょうか。そんなつもりは毛頭なかったんですけど……」
「なるほど、それは手強そうだ……ありがとう、下がっていいよ。ここからはこの子に任せるから」
渡辺はそう言いながらレイの背を軽く叩いた。看護師2人は病院関係者でもないレイにこの場を任せるという渡辺の判断に驚いたようだが、ドクターの意思には何かしらの意図があるのだろうと汲み取ったのか、すぐにその場を下がって道をあけた。
「じゃあ、頼んだよレイくん」
「はい」
レイは深呼吸ののち、意を決して少女がいる部屋に向かった。歩きながら読心を行う。会話を始める前に、少しでも少女の心理状態を把握しておきたかった。レイはゆっくりと知覚範囲を広げ、それはやがて少女の心まで到達した。感じ取れたのは、ただただ底暗い恐怖心だった。過去にどのようなことがあったのかはわからないが、やはり恐怖心が人との会話を成り立たせることの障害となってしまっているようだった。
ドアをくぐってレイが入室すると、少女はわかりやすく怯えた。レイは微笑んでみせたが少女の様子に変化は見られず、警戒を解くことはかなり難しそうだと感じた。
レイはまず、努めて明るく話しかけてみることにした。
「こんにちは。近くに座ってもいいかな?」
少女と一度目が合ったが、すぐに顔を背けられてしまった。
レイは立てかけてあったパイプ椅子を一つ広げると、少女がいるベッドと少し距離を取った位置に椅子を置いて座った。少女はこちらを見向きもしない。彼は少し考えて、とりあえず自己紹介から始めようと考えた。
「まず、俺の名前から教えておこう。ヴェルーリ都市政府法務省直属の部隊、A.L.I.V.E.に所属しているレイ=オブズフェルドだ。よろしく」
少女はとことん無言だった。レイは読心を絶やさずにいた。少女の心理が、こちらが話しかけることでどう変わるのか知りたかった。感覚野に干渉し、少女の心だけを拾い上げようと意識を集中させていく。なるべく相手を理解してあげられるようにと、今まで以上に読心に力を入れた。
把握できたのは、変わることのない警戒心だった。とにかくレイという存在を疑わしく思っているようだ。レイは、もう少し自分の話をすることにした。
「そうだな、じゃあとりあえず、俺の所属する部隊について話そうか。A.L.I.V.E.ってのは頭文字の寄せ集めでね。『Assault Line In Veruly Establishment』ってのが総称。ヴェルーリ権力機構所属急襲部隊、みたいに言うんだけど、簡単に言えば正義の味方だ。悪い人たちを退治して、この都市に平和をもたらすのが俺たちの仕事ってわけ。だから、安心してくれていい。ここに、君に酷いことをするような人はいない」
少女はちらりとこちらを見ると、またすぐに目を逸らしてしまう。レイはめげずに続けた。
「8歳からこの部隊に所属してるから、俺は内部のことをよく理解しているつもりだ。君に危害を加えるような存在はこの場にはいない。よかったら、名前だけでも教えてくれないか? 俺は、君とお話ししてみたいだけなんだ」
言い切ると、レイは少女が反応してくれることを待った。ここまで警戒されていては、無理矢理に会話を進めることはおそらく逆効果だと思った。下手に印象を悪くしてしまっては今後の聴取の進行に関わる。ここは、ゆっくりと前進していくしかない。
少女はそっとレイのほうを向くと、言葉を口ずさむように小さく口を動かしてみせた。そしてレイの反応を待っているのか、じっとレイの目を見つめてくる。少女が見せた思わぬ反応に驚きながらも、レイは少女が意図していることを見極めようと必死に思考を回転させた。少女の気持ちのすべてをわかってあげられるよう、読心を研ぎ澄ませていく。
そこにはほんのわずかな期待と、今にも飲み込まれそうなほどの深い諦念があった。まるで、最初からなにかを諦めているような表情。レイは少女に関して少しでもヒントになるようなことはないかと、ここ最近の記憶を洗いざらい辿ってみた。
そして、ふと思い出す。讃美歌の立て籠もり事件の際に、ダニエルが口にしていた言葉を。彼は確か、こう言っていたはずだ。『私には、『天使』がどのようなことを思っているのかはわからない。彼女は、声を失っているから』と。
もしかして……
「……君、声が出せないのか?」
レイが問うと、少女は小さく頷いた。
「なら、無理に声を出そうとしなくてもいい。心の中で俺に話しかけるよう意識しながら、もう一度君の名前を教えて」
レイがそう言うと少女は戸惑ったように眉をひそめたが、やがて、彼女の内なる声をレイは聴くことができた。
――セラ……セラ=ルイス。
聞こえた、彼女の言葉が。
レイは確かな手応えを感じた。
「セラ、ね。なら、これからは君をそう呼ぶことにする。いい?」
少女の目が驚愕に見開かれた。レイはそんな彼女の眼差しをしっかりと受け止め、頷きを返した。俺は君の訴えを理解できると、まず彼女自身に理解してもらえるように。
――……わかるの? 私の言葉。
「わかるよ。一字一句余さずに、全部」
見開かれていた少女の目がもとに戻っていく。その瞳はただただレイを見つめていて、そしてなぜか、だんだんと涙に濡れていった。彼女は水っぽく歪んだ視界を晴らそうとしたのか、ゆっくりと瞼をしばたたかせる。涙がこぼれてしまうことなど、厭いもせずに。そうして雫が頬を伝っていくのを見て、レイは彼女の冷めていた心に温度が灯ったのを感じた。強く行っていた読心を緩め、彼女が心を開いてくれるのを待った。
少女の涙がシーツに落ちる。レイはポケットからハンカチを取り出すと、少女に近寄って手渡そうとした。しかし、それは成されなかった。
少女が、レイの胸にすがりついたからだ。
――本当にわかるの? 全部、全部聞こえてる?
「あぁ、わかる。全部、聞こえてる」
――私が『やめて』って願ったらやめてくれる? 面白がって、もっと苦しいことをしてきたりしない? 変な物飲ませたり、したくないことをさせたりしない?
少女が告げた言葉の一つ一つに、レイは気の毒さを覚えずにはいられなかった。少女が経験してきた闇が垣間見えたような気がして、その残酷さに心が痛む思いだった。だからレイは、できるだけ優しい声で、笑顔を向けながら言った。
「しないよ、絶対に。ここに君を苦しめるような人たちはいない。さっきの看護師さん二人も、君になにかしようとしたわけじゃないんだ。いきなりすぎてびっくりさせちゃったとは思うけど、あの二人だって、君と会話したかっただけなんだよ」
少女の瞳には、見る見るうちに涙が浮かんでは流れていく。彼女のレイにしがみつく力は強く、こぼれる涙は彼の衣服に染み込んでいった。レイは少女の頭に手を置いてやる。
――ねぇ、聞こえる? まだ、聞こえてる……? 誰にも聞いてもらえなかったことがいっぱいあるの。言葉が届かなくなっちゃう前に、たくさん、たくさん聞いてほしい。
「焦らなくてもいいよ。この力は一過性のものじゃないんだ。明日になったらもう君の言葉が聞こえなくなる、なんてことは起こらない」
――でも、だって、いままで誰も聞いてくれなかった。夢みたいなの。なくなったらいやだ。だから……
「セラ、少し落ち着いて」
頭をぽんぽんと撫でるようにしながら諭す。つい先ほど、キーラにしてもらったように。そうするだけでなぜか心が安らいでいくことは、レイ自身が身を持って体験していた。さらさらと流れる綺麗な銀髪を撫で続けながら、まるで絹に淡く優しい色を染み込ませていくように穏やかな声で言い聞かせた。
「安心してほしい。いつだって、君の言葉は聞いてあげられるから」
少女の肩が、嗚咽とともに震えた。耳に入るのは掠れた吐息だけだったが、それは声の代わりに、叫びをあげているようだった。
それからしばらくは少女の涙が止まることはなかった。レイは頭を撫でる手を休めることはせず、もう一方の手で親指を立てて腕を掲げて、ガラスの向こうで見ているであろう一同にもう大丈夫であることを伝えた。しがみつく少女はまるで幼い子供のように顔を胸に押し付けたまま、ずっと泣きじゃくっていた。レイはそんな少女の背中に、そっと手を回してやった。
そうして、やがて少女が泣き疲れて眠ってしまうまで、レイはずっと少女の傍についていた。