高橋理子
時は遡り、7月8日午前7時。
私は息を切らしながら自分の家から1kmはある市役所にダッシュで向かっていた。理由は従兄弟の立華隼人が生きていた、否、生き返ったからだ。信じられない事ではあるが、私は見た。彼が柩から身体を起こして周りを見渡していた姿を……生きている姿を……。
その時、目頭が熱くなり目から何かがこぼれそうになった私は一旦足を止める事になる。
「あれ? おかしいな? 昨日あんなに泣いたのに、まだ涙が……」
私は頬を伝ってきた一粒の涙を手の甲でぬぐい去り、泣き止むよう気を強く持つよう自分に言い聞かせる。
――ヤト君には笑顔で接しなくちゃ。生き返った事はこの上なく嬉しい事なのだから笑うんだ、私。神様が起こしてくれたこの奇跡に泣き顔は似合わない
「……よし! もう大丈夫! 早く行かないとヤト君が登校してっちゃうよ」
私は昔からこうして一瞬で気持ちのスイッチを切り替える事が得意だった。どんなに悲しい事があっても泣いちゃいけないと私自身が思えばその涙や悲しみの感情はものの数秒でどこかに消えるのである。
いや、消えるというよりは心のより深い所になりを潜めると言った方が正確だろう。
出会った人の中には私のこの不気味な特技を気色悪いと蔑んだ人も少なくは無かった。だが、私自身はこの特技を気に入っている。今のような時にはかなり重宝する。隼人には私の泣き顔は見せたくない、もちろんその痕跡さえも。
彼は私のこの不気味な特技を羨ましいと言ってくれたから……。
「……と! あった、市役所! 私の足にかかれば1kmなんてあっという間だね」
考え事をしている間に市役所に辿り着いた。時間は現在7時11分。途中立ち止まった時間や信号等を差し引きすれば五分程度で1kmを走りきった計算だ。
(うん、意外と私は足が速いんじゃないだろうか、このタイムを見るに……。)
などと自分の足の速さを自画自賛しつつ市役所の入口に近づいた所で私は電気がまだ1つも点いていない市役所の姿に呆然と立ち尽くす羽目になるのであった。
「あー……これは失敗しちゃったな〜」
迂闊だった。いつもならこんな事すぐに気付くのに。と私はトボトボと走ってきた道をゆっくりと歩いて引き返す。仕方がないので市役所には母親に行ってもらう事にした。
本当に私はヤト君の事となるとダメだなぁ。何故か心を制御できなくなる。この悪い癖直さないと――
「あの、通して頂けませんか! 何なんですか、貴方たちは!」
自分の中で反省会を開いている最中、急に大声が響いたので私は驚いて辺りを見回す。すると、50m先にある路地裏の入口辺りで2人の男が1人の女の子に絡んでいる姿が見えた。
男の方は茶髪にグラサンの若干筋肉質な青年と、もう1人は金髪、ロン毛、ピアスと典型的なチャラ男スタイルの青年でこちらは隣のグラサンに比べ少し小柄で体も細い。
一方、絡まれている女の子は綺麗な茶髪が目立つ清楚系の女の子だ。うちの学校の制服を着ているが、あれ程の美少女に見覚えがない点からおそらく新入生ではないだろうか。
彼女は怒りのこもった目で彼らを睨みつけている。さっきの凛とした声は間違いなくこの少女のものだろう。
しかし、2対1の状況であそこまではっきりと相手を拒絶するとは女子にしては中々肝が座っているが彼女の華奢な身体ではいくら威勢がよかろうとあの2人組からは逃げられないだろう。
やれやれ、最近の不良の朝は随分と早いのね。などと思いつつ私は走っていって彼女と男達との間に割って入る。
「一体、何をしているんです? こんな早朝から」
私が間に入るとチャラ男が「あぁ?」と威圧的な声を漏らすが、私の姿を舐め回すように見た後、隣のグラサンとニヤリと笑い合う。
「よぅ、ねぇちゃん。俺達はただそこの子が可愛いかったから声をかけて仲良くお話しをしてただけだぜ? 何にもしてねぇよ」
おそらく割って入ってきたのが誰かと思えばまた同じような華奢な少女だったから恐るるに足らず、と言った所だろう。
しかし、私は強く2人を睨みつけてから
「ただ楽しくお喋りしていて彼女が声を荒げるなんて有り得る訳無いでしょう」
と言いつつ、後ろの少女の手を掴み路地裏を抜ける……が
「おいおーい、逃すと思ってんの?」
とチャラ男が私の手首をガッシリと掴んでくる。そこまで力は強く感じないので問題なく振り払えるだろうがそのつもりは無い。むしろ私たちが表路地に出ていて彼らが狭い路地裏にいるこの状況がベストなのだから。
「逃げようとしちゃって可愛いねぇ〜、ますます気に入っちゃったよ。これから4人で仲良くどっか遊びに行かない? あ、この時間ってここ人通らないから助けとかは来ないから」
はぁ、どうやら私がやるしかないようだ。ポジションは私たちが表路地で彼らが路地裏、チャラ男が私の左手首を掴んでいるため、狭い路地裏ではチャラ男、グラサンの順に手前から奥に一列に並んでいる状態となっている。つまり私の前方には実質チャラ男1人のみという事になる。
よし、と私は心を戦闘モードに切り替える。そして瞬時にチャラ男の手首を左手で同様に掴み返し、そのまま大きく手首を時計回りに回す。私は何も問題ないがチャラ男にとっては関節と逆に回しているので痛みが走り、自然と姿勢が前かがみに低くなる。本来は掴まれた手を外すための技なので相手が手を離せば私も離すのだが、今は手を離さず、むしろ上に少し持ち上げてより姿勢を崩しやすいようにする。
「いててててっ!」
私は自分の肩の高さ位までチャラ男の頭身が崩れたのを確認し、少女の手を握っていた手を離し、拳を固め、腰を落とし、彼の顔面めがけて勢いよく繰り出す。
それは中段正拳突きという空手の技としては基礎中の基礎の技である。しかし、それ故に実戦では必ず多用されるため、その技の練度の差で勝敗が決する重要な技とも言える。私はこの正拳突きを空手道場に通っていた5年間ひたすらに練習した。周りの皆が回し蹴りや飛び膝蹴りなどの難度が高く、派手な技を練習している間ずっと。何故なら物覚えも悪く単純な私にはただ前に拳を突くこの技が1番合っていると思ったから。そして、空手道場に通い始めて5年目、私はその鍛えた正拳突きで道場の同年代の男の子を皆なぎ倒し、道場内初の女子黒帯取得者となったのだ――――
「ぶっっ!」
チャラ男の顔面に私の正拳突きがクリーンヒットし、体勢を完全に崩したチャラ男は後ろにいるグラサンの方に勢いよく倒れ込む。
狭い路地裏でそれを避けられるはずもなく、チャラ男とグラサンは一緒に倒れてしまう。当然の結果だ、私はこれを狙っていたのだから。
と自分の作戦がうまくいったのを見届け、満足するとすぐに後ろの少女の手を引っ張り走り出す。
「ほら、逃げるよ! 今のうち!」
そうして私は迂回しながらその少女と共に自分の家まで走ってきた。時間は7時40分を過ぎている。 どこを見回してもチャラ男とグラサンの姿は無く、いつの間にか人通りも増えていた。
「よし、もう大丈夫だね。大丈夫だった? 怪我とかしてない?」
周りの安全が確認できたので次に少女の状態を確認する。だが、見たところ怪我などはないようだ。ほっと安心すると少女は私を見て
「助けてくれて本当にありがとうございました。ああいう方にはどれ位加減すれば良いのかわからないので困っていて」
ほう、手加減の必要がなければあの程度の不良は退けられたとでも言いたいのだろうか。面白い子だなぁと思いつつ、
「ねぇ、あなた東雲高校の生徒よね? 私は高橋理子。3年生で生徒会長をしてるわ」
と自己紹介を始める。すると、少女の方も私の方を見て
「私は穂神湊といいます。今年入学したばかりの1年生です」
と満面の笑顔で自己紹介をしてくれた。
私は「ちょっと待ってて」と言い残し、一旦家に入り、隼人が既に登校した事を確認すると、母親に市役所の件について頼んで手提げカバンを持って急いで外に出た。
「ねぇ、もしかしたらまだあの2人組近くにいるかもしれないし今日はこのまま一緒に登校しない?」
そう私は穂神に提案すると、彼女は笑ってその提案を快く受けてくれた。
道中は主に学校についての話しをしながら登校した。もちろん、周りには十分注意を払いながらだが。
しかし、幸いあの2人組はどこにも見当たらないまま私と穂神は校門まで来る事ができた。
「特に何もなかったわね、穂神ちゃん」
「はい、今朝の出来事が嘘のような和やかな登校でしたね、高橋先輩」
そうして2人で笑いながら玄関に入り、それぞれの教室へと別れる間際、
「先輩、そういえば今朝のパンチ見てましたけど、何か武道でもやっていたんですか?」
と興味深々で聞いてくる。
「いやぁ、一応3年前までは空手やってたんだけどね。やっぱりなまっちゃってたわね。すごいヘロヘロなパンチになっちゃってたわ」
と全盛期の自分と比べた感想を私は恥ずかし気に穂神に語るのであった。
☆
今日の帰りのHRの終わりを示すチャイムが3‐1教室内に鳴り響く。
ようやく今日も授業が終わったのだ。しかし、私にはさらにこれから放課後に生徒会長の業務がある。
「ふぅぅぅぅぅ~」
と長いため息をついて机の上に突っ伏していると、急に背中の筋がなぞられ、私はその感覚に耐えかねてひゃっと変な声を出しながら飛び起きてしまう。
「あの、大丈夫? 朝から疲れてたみたいだけど、理子ちゃん」
と心配そうな声で私に話しかけてくるのは同じクラスで生徒会書記を務める河瀬唯歌だ。私を起こすために声をかけずに背中の筋をなぞるという謎の行動っぷりには毎度毎度驚かされる。
「うん、朝ちょっと不良に絡まれてね。でも、大丈夫よ!」
それを聞いた途端、唯歌の顔はみるみる青ざめていく。
「りっ理子ちゃん! 大丈夫だった? 怪我してない? 小指詰めてないよね? 抗争とかに巻き込まれてないよね!?」
「あんたは不良をどんだけ恐ろしい奴らだと思ってるのよ!? それヤクザとかマフィアとかの話だから!」
彼女の天然な発言にツッコミを入れながら会話しているうちになんだか少し元気になってきた気がする。本当に謎で天然で不思議な娘だなぁ、唯歌は。
元気が湧いてきた所で私は時計を見てあまりお喋りをしている時間が無い事に気付き、唯歌と2人で生徒会室へ小走りで向かっていくのだった。
放課後、時刻は19時を回った頃。
ようやく生徒会の仕事も片付き、私は帰宅することにした。外ではまだ部活生がせわしなく動いている。
私は玄関に着いた所で隼人がもう帰ってしまったか気になった。おそらく部活に入ってない彼は既に帰ってしまっているだろうが……。
(確かヤト君の靴箱は121番……あった!)
靴箱を開くとそこには彼のいつも履いているスニーカーがまだ入っていた。
「まだヤト君学校残ってるんだ? 探して一緒に帰ろうかな」
というわけで私はヤト君を探すべく学校のあらゆる場所を巡るのだが、中々隼人は見つからない。仕方ないので続々と片付けに入っている部活生達から情報を集める事にした。
すると、20分は探し続けていた頃に1人の部活生がそれらしき姿を見た事を教えてくれた。
「ああ、立華ならついさっき階段のとこで見かけましたよ。俺同じクラスなんで間違いないです」
「ヤトく……立華君がどこに行ったか知らない?」
「確か、屋上に向かっていったと思います」
「わかったわ。ありがとう、部活お疲れ様!」
「お疲れ様でーす!」
軽くその部活生と挨拶を交わし、私は屋上に小走りで向かった。ここは1階なので屋上までは結構な距離があるが構わず私は階段を2段飛ばしで駆け抜けていった。
はぁ、はぁと息を切らしながら3階から屋上の階段に差し掛かった所で私はそこで這いつくばっている生徒にぶつかりそうになり急ブレーキを掛ける。
相手も私に気づいたらしく「うわっ」と声を上げて後ろに飛び退く。その時に目に入ってきた栗色の長髪に私は見覚えがあった。
「あれ? 穂神ちゃん……?」
そう、朝に不良からの逃走劇を共に成し遂げた穂神湊の姿がそこにはあった。手には雑巾を持っており、横には水の入ったバケツが置いてあり、水は赤く濁っている。
「あ……先輩……?」
穂神は驚いた顔で私を見上げる。
「穂神ちゃん、こんな所で何してるの?」
私は穂神に率直な疑問をぶつける。部活動も終わりを迎えているこの時間に彼女は屋上へ向かう階段で何故掃除をしているのか?
穂神は一瞬口をつぐんだが、すぐにその口をゆっくりと開き、事情を説明し始めた。
「あの……恥ずかしい話、私絵画が趣味でここの屋上から見える夕焼けを描いていたのですけれど、さっきキャンパスを片付ける途中に赤絵の具を盛大にこぼしてしまって……」
それで一旦キャンパスや他の画材道具を片付けた後、掃除をしていたと言うのだった。
成程、それでバケツの中があんなに赤く染まっているのか。私はあまり絵画などは描かないからよくわからないがきっと大量の赤絵の具を使っていたのだろう。
「あの? 先輩は何故こんな所に?」
穂神にそう尋ねられ私は本来の目的を思い出す。
「あっ、そうだった! ねえ、穂神ちゃん! 屋上に他にもう1人いなかった? 男子で穂神ちゃんと同じ1年生なんだけど、立華隼人っていう人!」
穂神はそれを聞いた瞬間、一瞬目つきが鋭くなった様に見えたが、すぐに元に戻りこう答えるのだった。
「いいえ? ここには誰も来なかったと思います」