第16話 名前を呼ぶ声
精霊の泉で交わされた契約により、ルークは竜の姿から人の子としての身体を取り戻した。
だがその姿は、アイリスの記憶の中にあった幼い弟そのものではなかった。
十歳ほどの少年。雪のように白い髪。湖の水面に映るその姿は、確かに人でありながら、どこか――異質だった。
泉の縁にしゃがみ込んだルークは、自分の手をじっと見つめていた。細く、震えている。
指を一本一本動かしながら、声にならない声で、何かを探しているようだった。
「……ルーク?」
アイリスがおそるおそる呼ぶと、少年の身体がぴくりと揺れた。
彼はゆっくりと顔を上げる。
その瞳――銀に光るその瞳が、アイリスをまっすぐに見つめた。
「……あね、さま……?」
その声は、震えていた。言葉の形がまだ不確かで、まるで夢の中で誰かを呼ぶような響きだった。
アイリスは胸が詰まり、思わずその小さな体を抱きしめた。
「ルーク……! ルーク、あなた、本当に……!」
その瞬間、ルークの体がびくりと震えた。
戸惑いの息。記憶の波が押し寄せてくる。
凍てつく森の中、ただ風の音だけが響く夜。
アイリスのぬくもりと匂い。それは、たしかに知っているものだった。
けれど同時に、彼の中には、竜として生きた記憶も確かに存在していた。
――火を吐き、牙をむき、大地を揺るがせて戦った日々。
それは言葉を持たぬ存在としての記憶。人の感情とは遠く離れた世界の感覚。
そのふたつの記憶が、いま彼の中で交錯していた。
「……こわい」
ぽつりと、ルークが呟いた。
「なにが、怖いの?」
「わからない、ぼく……にんげん、なの……? それとも……りゅう、なの……?」
その問いに、アイリスはすぐには答えられなかった。
けれど彼女は、ルークの頬にそっと手を添えて言った。
「あなたは、私の弟よ。どんな姿でも、それは変わらない」
その言葉に、ルークは少しだけ瞳を見開いた。
そして、目元がゆっくりと緩み、涙が溢れた。
「……おねえちゃん……」
今度ははっきりと、確かな声だった。




