第10話 契約
光が収まったとき、泉のほとりには静寂が広がっていた。
風は止み、鳥の囀りすら遠のいたかのようだった。
アイリスは、泉の縁に膝をついたまま、地面に手をついた。
心に空白がある。何かが欠けているとわかるのに、それが何だったのかが思い出せない。
「……なんで、私、こんなに泣いてるの……?」
頬を伝う涙に、彼女は指先を当てる。
理由は分からない。ただ、心の奥がぽっかりと穴が開いたように感じる。
そのときだった。
「……あ……ね……」
かすれた声が聞こえた。
驚いて振り返ると、そこには一人の少年が、泉のほとりに倒れていた。
銀白の髪、透き通るような肌。まだ幼さを残すその顔立ちは、どこか懐かしさを呼び起こす。
「あなた……誰……?」
問う声に、少年はゆっくりと目を開けた。
蒼い瞳が揺らぎ、やがて焦点を結ぶ。
「……アイリス、ねえちゃん……?」
胸の奥で何かが弾けた。
その言葉が、自分に向けられたものだとわからない。けれど――涙が止まらない。
自分でも理由がわからないのに、その名前を呼ばれるたび、心があたたかく、そして切なくなる。
「ルーク……ルークって……あなたの名前?」
問いかけに、少年はこくりと小さく頷いた。
そして震える手で、彼女の手を取る。
その感触が、どこか懐かしかった。
涙が、次から次へと溢れ出る。
「アイリス……僕、君を、ずっと……探してた」
「でも……私、何も思い出せない。ごめんね……ごめん……!」
抱きしめた。
名前のわからないぬくもりが、どうしようもなく愛しくて、離したくなかった。
心が記憶を失っても、魂が――何かを覚えているように。
そんなふたりの前に、突然、水面が波紋を描く。
泉の中心から、透明な人影のようなものが立ち昇った。
それは風に揺れる光の衣をまとった女性の姿をしていた。
『願いは聞き届けられました。あなたの“想い”は、確かに形となりました』
「あなたは……精霊?」
アイリスが問うと、その姿はふわりと微笑む。
『けれど、代償は“記憶”だけではありません』
「え……?」
『あなたの魂は、その子を守るために結ばれました。これからの旅路、彼を導く者として――あなたは“契約”を果たさなければなりません』
「……それは、どういう……」
『彼を守るすべての力は、あなたに宿されます。代わりに、あなたの運命は彼と共にあります』
その言葉の意味を、アイリスはすぐには理解できなかった。
けれど、次の瞬間、彼女の体が輝きに包まれ、背に淡い光の紋が浮かび上がる。
「っ……!」
それは祝福であり、呪いでもある。
その契約により、彼女はもう二度と“ただの人間”ではいられなくなった。
『あなたがその手を離さない限り、彼は道を見失わないでしょう。……さあ、旅を続けなさい。追手は、もうすぐそこまで来ています』
精霊の姿は、言葉と共に霧のように溶け、泉の中へと消えていった。
アイリスはそっとルークの手を握った。
彼の手は、もう“竜の爪”ではなく、あたたかな人の手だった。
「行こう、ルーク。どこまでも、あなたと一緒に」
木々の間から差し込む陽光の中、ふたりは再び歩き出した。
運命を背負いながら――けれど、たしかに、寄り添いながら。




