海の呼ぶ声
夏のホラー2025用に書きあげました。楽しんでいただければ幸いです。
2025年7月3日、私は船の上で目的地について思いを馳せていた。
太平洋の孤島にある民間海洋研究所、『ダールポイント観測所』。
そこで私の力を貸してほしいという。
無粋ではあるが、提示された報酬はかなりの額。断る理由は私にはなかった。
――それが、あのようなことになるとは、誰もわからなかっただろう。
船が近づくにつれ、島影が霧の中からゆっくりと現れる。
白波が砕ける岩礁の向こう、くすんだ灰色の断崖が壁のように聳え、その上に無機質なコンクリートの建造物が見えた。
あれが、ダールポイント。
かつて旧軍の監視所だった場所を民間企業が買い取り、深海観測の前線基地としたのが始まりだと聞く。
私は何度も図面を見ていたが、実物の孤島は想像以上に寂れて見えた。
潮風に晒されて錆びた鉄骨、歪んだアンテナ、風に軋む監視塔。
海の青と空の白のあいだに浮かぶその場所は、まるで地図から切り取られた異物のようだった。
「……着いたぞ」
船長の声に振り返ると、無精髭の男が甲板越しにこちらを見ていた。
寡黙だが、最初に名乗った時にだけ「この島はな、あまり長居するもんじゃない」と言ったのを思い出す。
ジョークなのか、警告なのか、今となってはわからない。
荷物を背負い、桟橋に足を下ろすと、そこには一人の女性が待っていた。
無地の作業服に、無機質な表情。胸元のネームタグには「リサ・ナガセ」と記されていた。
「葛原碧博士ですね。ようこそ、ダールポイントへ」
彼女の声は冷たくも丁寧だった。
けれども、その目だけが、どこか“深いもの”を見ていた。
私はその時、微かに風に紛れて聞こえた気がした。
誰かが、水面の下から名前を呼んだような……そんな錯覚を。
だが振り返っても、そこにはただ、無人の海が広がっていた。
「案内するわ。ついてきて」
彼女はそう言って、無表情のまま歩き出した。
私が荷物を引きずってその背を追う。建物の内部は、外観から想像したものとはまるで違っていた。
無骨ではあるが、整理された廊下。機器類は新しく、清潔に保たれている。
潮風が吹き荒れる孤島という立地を考えれば、驚くほど保守されていた。
「所長、葛原博士をお連れしました」
彼女がドアを開けると、その奥で待っていたのは五十歳前後の男だった。
鋭い目をしているが、口元には柔らかい笑みが浮かんでいる。
「ようこそ。葛原博士。私が所長の岩船だ。よろしく頼む」
差し出された手は硬く、掌には長年の現場仕事でついた傷跡があった。
その握手には、歓迎と同時に、何か重たい意味が込められているように感じた。
「早速皆に紹介するとしよう。皆、集まってくれ」
所長の声に応じて、一人のスタッフがやってくる。
少し幼さの残る青年。白衣の袖を捲り、どこか人懐っこい雰囲気があった。
「俺は三輪陽介。所長の助手をやってます。よろしくお願いします!」
元気のよい挨拶に、思わず口元が緩んだ。
「私はリサ。リサ・ナガセよ。技師をやってるわ。よろしく」
ナガセは簡潔にそう言うと、さっさと視線を逸らした。
最初に出会ったときと同じ、感情の読めない表情だった。
「改めて、所長の岩船徹だ。君のことは聞いている。期待しているよ」
岩船は静かに言った。
その“期待”という言葉が、なぜか胸の奥で引っかかった。
曖昧な違和感。それが何に由来するのか、このときの私はまだ知らなかった。
「今日は長旅だったろう。今夜は部屋でゆっくり休んでくれ。明日から本格的に始めよう」
所長の言葉に頷き、私は渡された居室の鍵を手に取った。
廊下の奥、研究所棟の一角にある一室。
シンプルなベッド、書き込み式の端末、窓のない壁。
最低限の設備だが、きちんと整えられていた。機能性を優先した空間――それ以上の感想は浮かばない。
ドアを閉めたとたん、耳の奥で微かな水音がした。
気のせいかと思った。だが、それは“泡が弾けるような”連続音で、まるで誰かが水中からこちらを覗いているような、そんな感覚を伴っていた。
不意に背中が粟立ち、振り返る。
だが、部屋には誰もいない。音は止み、ただ無音だけが残っていた。
私はベッドに横たわった。旅の疲れもあり、まぶたはすぐに重くなる。
だが――その夜、私は声を聞いた。
静かで、確かに、誰かが水底から囁いていた。
「碧……帰ってこい……」
誰だ。
誰の声だ。
兄の……声に似ていた。
夢を見ていた。
見たこともない建物。崩れかけた石のアーチ、黒い柱、奇妙な文様。
その空間は青く、暗く、どこまでも静かだった。
空を見上げると、そこを魚が泳いでいた。
まるで水中にいるようだ、と思った――いや、最初から水中だったのかもしれない。
私の隣には兄がいた。
いつのまにか、私たちは談笑していた。
懐かしい声。懐かしい笑顔。
内容は思い出せないが、たしかに笑っていた。
だが突然、息ができなくなる。
肺がひりつくように苦しくなり、視界が歪む。
ああ、そうだ。ここは水の中だ。
私はなぜ、忘れていたのだろう。
水が肺に入り、のどが焼ける。
涙が、浮かんで、溶けて、泡になって、消えた。
意識が遠のく。
兄の姿も、魚も、柱も、泡の向こうにぼやけていく。
そのとき――
私は、目を覚ました。
酷い汗だ。
全身がじっとりと湿っていて、Tシャツが肌に貼りついて気分が悪い。
私はのろのろと体を起こし、部屋の一角にある洗面台へと向かった。
鏡を見る。
ひどい顔だ。目の下にはくっきりと隈ができ、髪も汗で張りついている。
思い出すのは、あの夢。
あの異様な建物。魚の泳ぐ空。
そして、兄の笑顔。
笑っていたのに――急に、息ができなくなった。
水の中で肺が焼けるように苦しくなって、
私はもがいた。
夢だと気づいたのは、息が詰まったあとだった。
それでも、その感覚は消えない。
今も、喉の奥がひりつくような気がする。
額の汗をぬぐおうとして、ふと手のひらを見た。
汗か水か、掌には何かが滴っていた。
なぜか――それが海水のような匂いをして、私は思わず顔をしかめた。
「ひどい顔をしているね、大丈夫かい?」
廊下で声をかけてきたのは、所長の岩船だった。
コーヒーの紙カップを片手に、心配そうにこちらを見ている。
「ええ、大丈夫です。ちょっと夢見が悪くて……」
そう返すと、所長はうなずき、少しだけ口元を緩めた。
「そうか。ここは孤島だからね。
環境ゆえか、皆一度は“水に関わる悪夢”を見る。なに、すぐ慣れるさ」
その言葉に、私は一瞬、言葉を失った。
“皆”も――同じような夢を?
私が見た夢は、ただの精神的ストレスなどではないのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎる。
だが岩船は、それ以上語らなかった。
まるで、それが日常の一部であるかのように。
「さて、そろそろ朝ミーティングだ。例の観測データも、君に見てもらいたいと思ってね」
そう言って、岩船は歩き出した。
私はしばらく、その背を黙って見送っていた。
観測室は、研究所の中でもひときわ冷たい空気が漂う場所だった。
金属製の壁面と床、無数の端末モニター、低く唸る冷却ファン。
それらの音が妙に耳に残る。孤島の無音と機械の微音が、静かにぶつかり合っていた。
「この端末でログの確認ができる。昨夜2時34分、異常なパターンが記録されていた」
そう言って所長が差し出したデータファイルを開くと、そこには音響波形が並んでいた。
一見、ただの深海ノイズに見える。
だが、周波数帯域を絞り込み、ノイズ除去フィルタをかけていくうちに――
「……おかしいですね」
「何がだ?」
「通常、プレート境界の地鳴りはこんなに反復性がありません。
これは……周期性を持ってます。しかも、人為的な……いや、人工的なリズムです」
画面上に並ぶ波形は、まるで何かを叩いているようなパターンを刻んでいた。
一定の間隔。微かな“間”。そして、再び。
まるで、何かが扉を叩いているような。
「再生してみますか?」
「……頼む」
再生ボタンを押すと、スピーカーから音が流れた。
最初は低い、遠雷のようなゴロゴロとした重低音。
その中に混じって、何かが“こすれる”ような音、そして“泡が割れる”ような破裂音が聞こえる。
そのとき――
「……あ……お……」
私には、そう聞こえた。
ノイズの向こうに、確かに声があった。
くぐもった水中の声。言葉にならない、息のような音。
誰かが、深海の底から、こちらを呼んでいるような。
「碧君?」
岩船の声で、我に返る。
「……いえ。なんでもありません」
私は震える手で再生を止めた。だが、音はもう耳から離れてくれなかった。
波形はまだ画面の中でうごめいている。
あの声は、幻聴だったのか。それとも……
私は、端末の横にふと置かれた古びたログファイルに目を留めた。
そこには、十年前の観測データと書かれている。
日付は――私の兄が、この観測所で“行方不明になった日”だった。
私はログファイルを取り出した。
封筒に入っていたのは、観測データの出力紙と、手書きのメモが挟まれた紙束だった。
記録された日時は――十年前の今日。
兄がこの観測所で消息を絶った、まさにその日だった。
紙に印字された波形を、私はまじまじと見つめた。
さっき再生した音と、酷似している。
一定の周期で打ちつけるような衝撃音。
泡が割れるような、破裂音。
そして、重なって現れる――声なき“呼びかけ”。
“おいで”
そんな言葉が、どこにも書かれていないはずの紙面から聞こえてくるような錯覚に襲われた。
脳が勝手に補完しているのか、それとも……本当に、そこに何かの意図があるのか。
手のひらが汗でじっとりと濡れているのに気づき、私はゆっくりと拳を握りしめた。
ふと、挟まれていた手書きメモに目が留まる。
褪せたインクで、こう記されていた。
「……この音を聴くと、夢を見る。水の中の夢だ。
誰かがいる。いや、誰か“いた”気がする。
もし、またこの音が聞こえたら、すぐに記録を――」
そこまでで、文字は途切れていた。
最後の行は破り取られている。
紙の端が、濡れたように歪んでいた。
私は、そのメモを手に持ったまま、しばらく動けなかった。
自分の胸の奥で、“なにかが始まってしまった”という確信が、静かに芽吹いていた。
「所長、先ほどのデータと、十年前のログの内容が一致しました。
何か……ご存じのことはありませんか?」
私の問いかけに、岩船は一瞬だけ表情を止めた。
だがすぐにいつもの落ち着いた口調に戻る。
「十年前……すまないが、特に覚えていることはない。
観測データは数が多いからね。君には、このまま調査を続けてほしい」
「……わかりました」
私はそう答え、軽く会釈して所長室を後にしようとする。
ドアノブに手をかけたとき、ふと気配を感じて振り返った。
所長はすでに視線を端末に戻していたが――その机の端、書類の影に、見覚えのあるものが覗いていた。
小さな紙片。
角が破られ、インクが滲んだ――まるで、あのログに挟まれていた手書きメモの“切れ端”のように見えた。
私は、声をかけかけて、やめた。
代わりに、「失礼します」とだけ告げ、静かにドアを閉める。
廊下に出たとたん、冷たい汗が背筋を伝うのを感じた。
何かが、確実に、動いている。
所長は何かを知っている。
少なくとも、「知らない」は嘘だった――そんな確信が、胸の奥に静かに根を張っていた。
深夜。
喉が渇いて目が覚めた私は、水を求めて食堂へと向かっていた。
研究所の廊下は、日中のざわめきが嘘のように静まり返っている。
薄い非常灯が床を照らし、足音がやけに大きく響く。
そんな中、前方から誰かが歩いてくるのが見えた。
白衣姿――三輪くんだった。
「三輪くん? こんな時間にどうしたんだい? 君も喉が渇いたのかい?」
……返事がない。
すれ違いざま、私は彼の顔を覗き込んで息を呑んだ。
その目は虚ろで、焦点が合っていない。まるで――見えていない。
彼の口が、何かを繰り返しつぶやいている。
「……あお……くる……かえる……わたしたちは……」
かすれていて、意味がはっきりしない。
けれど、どこかで聞いたような響きだった。
「三輪くん? どうした?」
私は思わず彼の肩に触れた。
その瞬間、彼の体がぴくんと跳ねる。
「ん……? あれ……葛原さん……どうして俺の部屋に……?」
彼はきょとんとした顔で私を見た。
先ほどまでの虚ろな目が嘘のように、普段通りの表情に戻っている。
「ここは廊下だ。大丈夫かい? 君、さっき何かぶつぶつつぶやいていて……こっちの声にも反応がまったくなかったよ」
三輪は目を見開き、首を左右に振る。
「……え? そんな……俺、寝てたはずなんだけど……。あれ、なんで……ここに……」
彼の声は震えていた。
自分でも何が起きたのかわからない――そんな困惑が全身からにじみ出ている。
「とりあえず、食堂に行こうか。水を飲んで、少し落ち着こう」
「……はい……」
私は彼の背中を支えるようにして、薄暗い廊下を進んでいった。
その間も、彼の口元はわずかに動いていた。
“あお……かえる……”
私には、そう聞こえた。
「もう、大丈夫そうかい?」
テーブル越しに、私は静かに問いかける。
三輪はペットボトルの水を飲み干し、少しだけ顔色が戻っていた。
「はい。ありがとうございます。……もう大丈夫です」
「それで。何も覚えていないのかい? 廊下を歩いていたこと」
「それが、さっぱりで……」
三輪は眉を寄せ、しばらく思案するように沈黙した。
「夢を見ていたのは覚えてるんですけど……」
「夢? もしかして、水に関係したりするかい?」
私がそう尋ねると、彼は小さく目を見開いた。
「……よくわかりましたね。はい、水です。
夢の中で、俺……海の中を歩いていて……」
そこで、ふいに言葉が詰まる。
「……あれ? なんだっけ……」
彼はこめかみを指で押さえた。
「そこから先が、全然思い出せないんです。何か……誰かと一緒だったような……でも……」
言葉を探すように、何度も口が動く。
だが、出てくるのはため息ばかりだった。
「無理に思い出さなくていいよ。でも、何か変だと思ったら、すぐに言ってくれ。いいね?」
「……はい。すみません」
食堂の片隅で鳴った冷蔵庫の駆動音が、妙に大きく響いた。
私は目の前の三輪を見ながら、心の奥に小さな棘のような違和感が残ったままだった。
“海の中を歩く夢”――
それは、私が見た夢と同じだった。
偶然か?
それとも――何かが、私たちに“同じもの”を見せているのか。
何かが、じわじわと、内側から染みてきている気がした。
翌朝。
私は観測室にいた。
予想していた通り、いや、予感していた通り、
深夜2時34分――またしても観測データに異常が記録されていた。
完全に一致する時刻。
しかも、内容は似ているが、まったく同じではなかった。
再生を始める。
スピーカーから流れ出すのは、前と同じく――
一定の周期で打ちつけるような、重い衝撃音。
深海で、何か巨大なものが岩盤を叩いているかのような、どすん、という鈍音。
続いて、泡がはじけるような破裂音。
昨日と同じく、そこまでは……“海の底の音”だと理屈をつけられる。
だが、そのあと。
「……みわ……くん……」
私は、思わず手を止めた。
ノイズ混じりの、濁った音の奥から、確かに名前を呼ぶ声が聞こえた。
「……みわ……くん……きて……おいで……」
音声の波形に異常なピークが現れていた。
人間の声帯が発するはずのない周波数が混じっているのに、
それでもそうとしか聞こえなかった。
三輪くんを――呼んでいる。
私はスピーカーの音量を下げ、ヘッドホンを外す。
心臓が早鐘を打つ。
額には、薄い汗が浮かんでいた。
「……これは……偶然、じゃない」
十年前のデータに似ている。
そして、そのとき消えたのは兄だった。
まさか。
まさか、同じことが、今度は――
私は立ち上がり、すぐに三輪くんの部屋へと向かった。
彼はまだ無事だろうか。
……“呼ばれてしまって”はいないだろうか。
「三輪くん! 三輪くん! いるかい!」
私は勢いよくドアを叩いた。
だが、返事はない。静寂だけが部屋の中に響く。
「もしや……本当に、“呼ばれてしまった”のではないか」
冷たい汗が背筋を伝い、心臓が早鐘のように打ち鳴らす。
その時、ふと、部屋の中からかすかな声がした。
「あれ、葛原さん、どうしたんですか? 俺に何か用ですか?」
その声は確かに三輪くんのものだった。
少しぼんやりとした、普段よりどこか遠くで聞こえるような、そんな響き。
「三輪くん? そこにいるのか?」
「はい、ここにいますよ。でも、どうして部屋の外でそんなに騒いでいるんですか?」
返事を聞いてほっと胸をなでおろした。
彼はまだ“呼ばれて”はいない。けれど、声の調子がどこかいつもと違って、引っかかる。
私はその場で、静かに呼びかけた。
「何か、夢のことや、ここ数日のこと……話せることがあれば、教えてほしい」
三輪は少し間を置いてから答えた。
「夢……ですか。そうですね、最近変な夢を見るんです。海の中にいて、誰かが……僕を呼んでいるような……」
その言葉が、また私の胸に不安の影を落とした。
「……これで、全部です。俺の覚えていること。夢のことは」
三輪くんはコップを両手で包むように持ったまま、ぽつりとそう言った。
「そうか。ありがとう。昨夜のことが気になっていてね。
朝から悪いことをしてしまった。すまないね」
「いえ、大丈夫です。
気を使ってもらって、ありがとうございます」
彼は微笑んだが、その目の奥に、どこかまだ“霧”のようなものが漂っている気がした。
「それじゃあ、私は仕事に戻るよ。またね、三輪くん」
「……はい。また」
私は静かに席を立ち、振り返らずに歩き出した。
廊下に出て扉が閉まる直前、かすかに――
「……あお……」
そんな呟きが、ドア越しに聞こえたような気がした。
私は立ち止まり、振り返ろうとして……やめた。
違う。聞き間違いだ。
そう、自分に言い聞かせながら、私は観測室へと足を向けた。
観測室に戻ろうと廊下を歩いていたそのとき、背後から声をかけられた。
「碧君」
振り返ると、ナガセさんが壁にもたれるように立っていた。
その顔は、どこか険しく、疲れたようでもあった。
「あなたも――あの声を聴いたのね」
その一言に、思わず足を止める。
「……ええ。昨夜、また記録が残ってた。今度は、三輪くんの名を呼ぶ声が」
ナガセは目を閉じ、深く息を吐いた。
「悪いことは言わないわ。データを消して、すべてなかったことにした方がいい。
それが――皆のためよ」
「ナガセさん、あなた……あれが何か知ってるのかい?」
「知らないわ。でも、知りたくもない」
彼女はかぶりを振った。その横顔はひどく硬い。
「……あの声を聴いた人間はね、しばらくするといなくなるのよ。
一人や二人じゃない。“すべて”がいなくなってしまうの」
「……“全員”いなくなるってのか? どうしてそんなことを――?」
「私たちは“3組目”よ」
ナガセは静かに言った。
その言葉が、まるで氷の塊のように胸に沈んだ。
「この観測所には、私たちの前にも2組、調査チームがいた。
でも……どちらも全員いなくなった。残されたのは、奇妙なログファイルだけ」
「……奇妙なログ?」
「私は中身を見たことがない。
でも、知っている人間がひとりいるわ」
ナガセは廊下の奥――所長室のある方向を見据えた。
「岩船よ。あの人だけが、10年前、“皆がいなくなった”直後にここへ来た最初の人間。
つまり――最初から、すべてを知っているかもしれない人間なのよ」
私はすぐに所長室へと向かった。
「所長、教えてください。――“過去のログ”のことを」
私の問いかけに、所長は一瞬、動きを止めた。
だが、すぐにいつもの穏やかな声色で応じる。
「ログ? なんのことだい?」
「“第2組”が消えたときに残されていた観測ログのことです。
所長、あなたなら――御存じのはずでしょう?」
その言葉に、所長の目がかすかに揺れた。
けれど、彼は再び端末に視線を戻しながら、そっけなく言った。
「悪いが、知らない。仕事に戻りなさい」
「……所長!」
声を荒げた。自分でも驚くほど強く。
だが、所長はまったく顔色を変えなかった。
代わりに、椅子から立ち上がり、私の方へと一歩だけ近づく。
「――知らないものは、知らない」
その声は、低く、ぴたりと冷えていた。
「それ以上、私から聞けることは何もないよ。……さあ、戻りなさい」
それだけを言い残すと、所長は再び背を向け、何事もなかったかのように端末を操作し始めた。
私はその背中をしばらく見つめていたが――
やがて、無言でドアを開けて部屋を出た。
……所長は、確実に“知っている”。
だが、それを口にできない、あるいは口にしたくない理由がある。
その“理由”こそが――この観測所の最大の“穴”なのではないか。
私はそっと拳を握りしめた。
夜。
“過去のログ”を探して観測室のアーカイブを漁っていた私は、時計を見て軽く驚いた。
すでに深夜2時を回っている。
次第に、モニターの明かりの外――闇の奥から、不意に音がした。
ピタ……ピタ……
足音。
水気を含んだ、裸足の足が床を打つような――ぬるりとした音だった。
私は椅子から身を起こし、耳を澄ます。
「……誰かいるのか?」
返事はない。だが足音は止まらない。
ピタ……ピタ……ピタ……
音は、観測室の外へ。
廊下を伝い、建物の出口の方角へと向かっているようだった。
私は反射的に立ち上がった。
静かにドアを開け、足音のする方へ歩を進める。
非常灯だけがついた夜の通路。
静まり返った空間の中で、足音だけが異様に鮮明だった。
誰が歩いている?
何が――歩いている?
やがて、出口の扉がわずかに開いているのが見えた。
海風が微かに吹き込んでいる。
私は胸の奥に生温い不安を感じながら、扉に近づいた。
外は、濃い霧に包まれていた。
足音は、もう聞こえない。
だが、確かに“何か”がこの扉を抜けていった――そんな気配が、霧の中に残っていた。
私は躊躇いながら、霧の中へと一歩、足を踏み出した。
そのとき――
ザッ……
すぐ右手。建物の外壁の影で、何かが動いた気がした。
私は足を止め、ゆっくりとそちらに顔を向ける。
そこには――
……濡れた足跡が、地面にいくつも残っていた。
裸足の足跡。それも、一対ではなく――複数。
背筋を冷たいものが這い登っていく。
ここには……“誰か”ではなく、“何人か”がいた――
それも、私の知らない何者かが。
私は先日の観測データを思い出していた。
「……みわ……くん……きて……おいで……」
あの、濁ったノイズの中で確かに聞こえた、声。
三輪くんの名を呼ぶ、あの声が。
背筋が粟立つ。手のひらに、冷たい汗がにじんでいた。
「三輪くん……無事でいてくれよ……」
私は自分に言い聞かせるように呟きながら、彼の部屋の前に立った。
床の上、ドアの下から水がにじんでいた。
明らかに不自然だった。
「三輪くん、いるかい?」
ノックする。二度、三度。
返事はない。
寝ているのか、それとも――
胸の奥を不安が締めつけた。
私はゆっくりとドアノブに手をかける。
鍵は――開いていた。
ゆっくりと扉を押し開ける。
軋む音が妙に大きく響いた。
中は暗い。非常灯の明かりだけが薄く差し込んでいる。
ベッド。
枕。
乱れたシーツ。
……だが、三輪の姿は、どこにもなかった。
床には、水が――まるで誰かがずぶ濡れで歩いたかのように、滴っていた。
点々と、足跡のような跡がベッドからドアへと続き、そして――消えていた。
「……三輪くん……」
返事はない。
代わりに、壁の端から、ぽたり……ぽたり……と水の音が響いていた。
私は迷いなく非常ベルのボタンを叩いた。
ジリリリリ――研究所全体に、鋭い警報音が響き渡る。
数秒後、廊下の奥から二人の足音が近づいてきた。
所長とナガセさんだった。
「いったい何ごとだい?」
所長の声はいつもと同じ、冷静さを保っていたが、その眉間にはかすかな皺が寄っていた。
「三輪くんが……いません」
私はそう言い、部屋の扉を開けた。
「これを、見てください」
三輪の部屋。
空っぽのベッド。
その周囲には――濡れた床と、点々と続く足跡。
所長は黙って見つめ、ナガセはすぐに顔を歪めた。
「……とうとう、起こってしまったのね」
ナガセの声は低く、諦めを含んでいた。
それは“予測していた事態”に対する、静かな絶望のようだった。
私は一歩、所長に踏み出す。
「所長。これは明らかに“異常”です。
そして、あなたは……この事態を知っていたはずだ。――本当のことを教えてください」
沈黙が流れた。
所長は視線を外し、ゆっくりと眼鏡を外して胸ポケットに収めた。
その仕草に、日常の仮面がひとつ剥がれ落ちるような気がした。
「……碧君。
君はもう、戻れないところまで来てしまったようだね」
その言葉に、私は背筋を伸ばした。
ナガセは眉をひそめ、低くつぶやいた。
「話して。もう……隠せる段階じゃないわ」
所長はしばし無言で部屋の中を見つめ、やがてぽつりと言った。
「十年前の“第2組”。
その全員がいなくなった日――ログに残されていたものを、君たちに見せよう」
所長は何も言わず、静かに観測所中枢の管理室へと歩き出した。
私とナガセも、無言のままその後を追う。
夜の廊下を抜け、金属扉の奥へと進むと、そこには厳重なアクセスロックのついた操作端末があった。
所長はIDカードを読み取らせ、指紋認証を通し、最後に暗証キーを手入力する。
――カチリ。
扉が解錠された。
「入ってくれ」
部屋の中は無機質で、壁一面がモニターになっていた。
中央には一台の古い端末が置かれており、まるで“それ”だけがこの部屋の主人であるかのように鎮座している。
所長はその端末の前に座ると、無言で操作を開始した。
「ログファイル名は“Echo13”。
この施設で記録された“10年前の観測データ”だ」
ナガセが肩を震わせるのが、背後からでもわかった。
所長は最後の確認ウィンドウにカーソルを合わせた。
ENTERキーを押すその手が、ほんのわずかに震えていた。
――ログ再生開始
画面に、10年前の観測室の映像が映し出された。
静まり返った深夜の室内。
モニターが淡い光を放つ中、一人のスタッフがデータを確認している。
その背後に、もう一人がふらりと現れる。
目がうつろで、裸足。服の裾が濡れている。
スタッフが声をかける。
『……おい、どうした? こんな時間に……』
返事はない。
うつろな目のまま、後ろの人物がじわりと手を伸ばし――
……映像が一瞬ノイズにまみれる。
切り替わった画面では、観測所の外――霧に包まれた桟橋が映る。
映っているのは五人。
全員が裸足で、目に光がない。
まるで何かに導かれるように、ただ静かに、海の先へと歩いていく。
霧の奥から、“何か”が、彼らを迎えに来る。
モニターから、音が鳴る。
ゴポ……ゴポポ……パチ……パチチ……
泡が弾けるような、圧縮されたノイズのような音。
その中に、かすかな“声”が混じる。
「……あおい……おいで……かえろう……」
私は息を呑んだ。
その声は、紛れもなく――兄の声だった。
再びノイズ。
そして映像は、ぷつりと暗転した。
「――これが、“第2組”の最後の記録だ」
所長が口を開いた。
その顔には、言葉にできない疲労と悔恨がにじんでいた。
「彼らは……そのまま、誰一人戻らなかった。
遺体も、痕跡も、何も残らなかったよ」
ナガセは黙ったまま、画面を見つめていた。
私は自分の指が冷たく震えているのを感じながら、問いを発した。
「この“声”……“兄”の声に、あまりにも似ている。
一体どういうことなんだ……?」
所長は、目を閉じた。
そのまま、ゆっくりと頭を振った。
「……わからない。だが、“あれ”は、人間の記憶にアクセスしているように思える。
だから、呼び声は“本人にとって最も帰りたくなる声”になる。
……君にとっては、兄だったのだろう」
そのとき、モニターの端末がノイズを発した。
――ジッ……ジ、ジ……ゴポ……
また、あの泡の音。そして――
「……あおい……また……あえる……すぐに……」
今度は、兄の声が、こちらに語りかけているように聞こえた。
「続きは、明日にしよう。もう寝たまえ。明日、対策を考えよう」
所長の言葉に促され、私はナガセと共に部屋を後にした。
だが、眠りに落ちたあとも、三輪くんの部屋の光景が脳裏を離れなかった。
濡れた床、空のベッド、返らない声。
彼は……海に“呼ばれて”しまったのだ。
そして――次は、私たちなのかもしれない。
夢の中。私はまた、海の中を歩いていた。
以前に感じた、あの息苦しさはなかった。
むしろ、水の中にあることが自然で、心地よいとさえ思えた。
私の手足は抵抗もなく水を掻き、ゆるやかに進んでいく。
そして、見えてきた。
見慣れない建物。
崩れかけた石のアーチ。
海藻のようにうねる黒い柱。
表面には、私の知るどの文明のものとも異なる、奇怪な螺旋と線対称の文様が刻まれている。
その建造物は、あたかも何百年も前からそこに“沈んでいた”かのようだった。
音はなく、光も差さない。
ただ、青と闇だけが支配する空間。
にもかかわらず――
私は、奇妙な安心感を覚えていた。
まるで、ここが……“帰るべき場所”のようにさえ思えた。
そのとき、足元から泡が一つ、ふわりと浮かび上がった。
続けてもう一つ。さらに、もう一つ。
やがて、私の背後から“誰かの気配”が近づいてくる。
振り返ろうとした、そのとき。
――耳元で声がした。
「……あおい……まってた……」
私は目を開けた。
私は薄い頭痛を抱えながら目を覚ました。
昨夜の夢の余韻がまだ肌に残っている。重いまぶたをこじ開け、カーテンをめくった瞬間、胸がざわついた。
窓の外は――白い。
ただの霧ではない。
漂うというより、壁のように観測所を包み込み、外界を完全に閉ざしていた。
「外が、見えない」
霧は濃く、数メートル先も見えない。空気が、重く感じる。潮の匂いも感じられず、冷たい“水底の匂い”が鼻を刺す。
波の音も、聞こえない。代わりに、霧の奥から低い唸り声のような振動が微かに伝わってくる。
私は観測室へと駆け込んだ。そこには、警告色で点滅しているモニターがあった。
・衛星回線……リンク切断
・無線……反応なし
・海底ケーブル……パケットロスト
・内線……使用可能
私は所長たちを呼ぶ。彼らも、この異常事態を認識しているようだった。
「嵐でもないのに……“何か”が電波を吸っているみたいだ」
所長はそうつぶやく。
床が湿っているように感じる。外の霧が部屋に滲み込んでいるようだ。
胸骨の奥で低く脈打つ圧力を感じる。深く海に潜ったときの、あの鼓膜を押し返す重さに似ている。
モニターのスピーカーから、時折ゴポ……と泡の破裂するような音が聞こえる。機器は鳴っていないはずなのに。
「状況は想定外だが、外に出て確認するしかない」
所長はそう言いながらも、目の奥に怯えを隠せていなかった。
しかし――
観測所の外扉は、開かなかった。
電磁錠は解錠状態なのに、扉が“外側から”押さえつけられているようにびくとも動かない。
叩くと、向こう側から水を打つような音が返ってきた。
「霧じゃない――海そのものが、島を吞み込みに来てる」
彼女の呟きは、冗談ではなく事実の宣告に聞こえた。
「通信が断たれた以上、原因は物理的な何かに違いない」
所長の言葉に、私とナガセは頷いた。
海底モジュールへ向かう通路は、いつもより冷たく湿っていた。
壁には海水が染み出しているような跡がつづき、冷気が肌を刺す。
「これが……あの“霧”の本体、なのかもしれない」
ナガセの声は緊張に満ちていた。
我々がたどり着いたのは、海底に埋設された観測機器群の制御室。
通常は安定した圧力環境のはずだが、扉を開けると、空気がどこか重く、振動を帯びているのが分かった。
「圧力センサーが異常値を示している」
所長が端末を操作しながら言う。
「これは……何かが、内部から押し上げているようだ」
画面に表示されたグラフは、ゆるやかな波状を描きつつ、全体的に上昇を続けている。
「まるで、このモジュール自体が、海に飲み込まれているかのようだ」
私は背後の壁を見やった。
そこには奇妙な文様が浮かび上がっていた。
薄暗い照明に照らされると、その模様はまるで、生物の細胞膜のように脈動しているかのようだった。
「この文様……まさか、あの夢の建物の……?」
そのとき、不意に空気が震え、モジュールの壁から“ぽたり”と、水滴が落ちた。
そして、低く、しかし明確に聞こえた。
「……来て……」
誰のものともつかないその囁きが、モジュールの空気を震わせた。
水滴は再び、ぽたり、と音を立てて床に落ちる。
私は反射的に振り返った。
だがそこには、誰もいない。
壁――いや、“文様”の中心部から、わずかに光が漏れていた。
「照度……自動制御か?」
所長が首を傾げるが、その声に答える者はいなかった。
ナガセも、私も、画面ではなく壁の“文様”に意識を奪われていたからだ。
その模様は――呼吸している。
いや、呼吸に“見える”だけではない。
明確に、一定のリズムで、光と影を拡張・収縮させている。
まるでこの壁の向こうに何か“生きたもの”がいるようだった。
そして、私は確信した。
この文様は、ただの装飾ではない。
“向こう側”からの窓だ。
思わず手を伸ばす。
手のひらが文様に触れた、その瞬間――
ズンッ!
腹の底に響くような重低音が鳴り、制御室全体が数ミリ、沈んだ。
まるで巨大な何かが、外殻を叩いたような振動だった。
「……来て……」
再び、その声。
今度ははっきりと、私の名前を呼んだ。
「碧……」
兄の声だった。
私は、壁に手をついたまま、目を見開いた。
所長が叫ぶ。
「離れろ!碧君、離れるんだ!」
ナガセが駆け寄り、私の肩を掴んだ瞬間――
壁の文様が、溶けた。
ぬめるようにその模様が崩れ、代わりに“眼”のようなものが、ただひとつ開いた。
それは、人のものではなかった。
円形で、黒と青のまだら模様。瞳孔の位置が定まらず、見ていると方向感覚が狂う。
その“眼”が、私をじっと見ていた。
そして、壁の内側――海の奥から、兄が手を伸ばしていた。
唇が、何かを繰り返している。
「……かえろう……碧……かえろう……」
私は、その手を……掴んでしまいそうになった。
私は、気がつくとベッドの上にいた。
研究棟の居室、自分の部屋。白い天井がぼんやりと視界に広がる。
頭が重い。目の奥が焼けるように痛む。
あのあと――何があった?
「目が覚めたようだね」
ふいに声がして、横を見ると、所長の岩船が椅子に腰かけていた。
小さな紙コップを手に持ち、私に差し出す。
「水だ。喉が渇いてるだろう?」
「……ありがとうございます」
カップを受け取り、口に含む。冷たく、鉄のような味がした。
「君は、海底モジュールで気を失っていた。ナガセが君を運んできてくれた」
「……私は、何を……?」
所長は少し黙ってから、静かに言った。
「……何かを“見た”のかい?」
私は言葉を探す。
しかし、どうしてもそこから先が思い出せない。
文様に触れた感覚。震動。
そして――誰かが、手を伸ばしていた気がする。
でも、肝心の部分が抜け落ちている。
「……思い出せません。ただ……すごく怖かった、ような……でも……」
「でも?」
「同時に、安心した気もしたんです。
そこにいる誰かが、私を――待っていたような、そんな……」
所長は目を伏せたまま、立ち上がる。
「……今はまだ、思い出さなくていい。
思い出すときが来れば、君はきっと――“呼ばれる”。それだけだ」
そう言い残すと、所長は部屋を後にした。
数分後。
今度は、ナガセが扉をノックせずに入ってきた。
彼女の目の下には深い隈ができていた。
「……あの文様、見たんでしょう?」
私は頷いた。
「私も、数年前に見た。あれに触れて、もう少しで“引きずりこまれる”ところだった」
「じゃあ、ナガセさんも……」
「“あの声”を聞いた者は、みんな、あれを“懐かしく”感じるのよ。
それが罠だと気づく前に、みんな帰っていく。どこかへ、“向こう側”へ」
「ナガセさんは、どうして戻ってこられたんですか?」
彼女は少し間を置き、唇を結んだ。
「――私が、“呼ばれたけれど、いらなかった”からよ」
「……?」
「私は、あれにとって“必要じゃなかった”の。
だから今でもこうして生きてる。
でも、あなたは……呼ばれてる」
その言葉は、冷たい霧のように胸に染みこんだ。
再び、夢を見ていた。
水の中だ。
だが、息苦しさはまるでない。
まるで胎内に戻ったかのような静けさと安心感に包まれて、私は海底を歩いていた。
昨日よりも、深く、暗く。
光が届かない場所。
音も、時の流れもない。
その先に、“門”があった。
崩れかけた石のアーチ。
奇怪な円環と螺旋が刻まれた柱。
柱の間には、黒く、揺れる“膜”のようなものが張られている。
それは、まるで水の表面を裏側から見ているようで、
向こう側には、確かに何かが“存在している”ことがわかった。
私は、その門の前で立ち止まる。
そして、そこに――兄がいた。
白いシャツの裾が、ふわりと水に舞っている。
表情はやさしく、悲しげで、そしてどこか満ち足りていた。
「碧……来てよかった。もう、君も……」
兄はそう言いかけて、口を閉じた。
その目の奥に、一瞬だけ“何か別のもの”が宿った気がした。
まばたきをすると、兄の背後に、巨大な影が見えた。
輪郭が曖昧で、頭部がいくつも重なっているように見える。
触手とも鰭ともつかぬものがゆっくりと揺れ、
その全体は――“海そのもの”のように広がっていた。
兄が微笑む。
「――帰ろう。僕たちの場所へ」
私は、一歩踏み出す。
門の向こう側へ、脚を入れようとした、その瞬間。
「だめ!」
背後から、ナガセの声が響いた。
強い力で腕を引かれ、世界が反転する。
視界が崩れ、泡が弾け、黒が白に変わって――
私は、ベッドの上で跳ね起きた。
息が荒い。
心臓が痛いほどに打っている。
でも――足は、濡れていた。
私は、再び“呼ばれて”いる。
そして、その声はもう、夢の中だけではない。
朝、観測室に集まる、が、所長の姿が見当たらない。内線にも応答はなく、静かだ。
私とナガセで、所長の部屋へと向かう。所長の部屋の前。そこには水が滴っており、ドアが半分開いている。
「所長、入りますよ」
私はそう声をかけながら、ナガセと共にドアを開けた。
ぎぃ、と金属の蝶番が軋む音がする。
部屋の中は――静かだった。異様なほどに。
床が、水浸しになっている。
光沢を帯びた水面が、天井の灯りをぼんやりと反射していた。
部屋に満ちていたはずの書類や私物は、どこかへ“片づけられたように”消えている。
ベッドの上には、誰もいない。
布団は丁寧に整えられ、まるで人がいた気配すら残されていない。
ただ一点――枕の上に、所長のIDカードだけが置かれていた。
「……いない」
ナガセが、かすれた声で言う。
私は濡れた床を一歩、踏み込んだ。
ぬるり、と足元に冷たい感触が走る。
それはただの水ではない。まるで何かの体液のような粘性を帯びていた。
「……順番が、来たのよ」
ナガセが、唇を噛んだ。
「三輪くんの次は……所長。
次は、あなたか、私か。
あるいは――“全員”かもしれない」
その時、室内の端――
書棚の隙間から、わずかに光が漏れているのが見えた。
「……あれ、見て」
私はそっと手を伸ばし、光源に触れた。
それは、隠されたアクセスパネルだった。
鍵はかかっていない。
中には、1枚の記録媒体と、手書きのメモが残されていた。
「私は知っていた。だが、信じたくなかった。
“海の底には知性がある”などと、誰が言える?
第一観測隊、第二観測隊……彼らは戻ってこなかった。
今、声がする。
私を、呼んでいる。
最後のデータを残す。
君が見ることになるだろう、碧君。
すべてが“向こう側”へ繋がっている。
私がいたという証拠すら、きっと、すぐに消えるだろう。
だが、これだけは覚えておいてほしい。
“海は、記憶を持っている”」
ナガセが手を震わせながら、記録媒体を読み込み装置に差し込んだ。
モニターが、静かに起動する。
そこに映っていたのは――**“夢で見た門”**だった。
崩れた石の構造物、黒い柱、螺旋状の文様。
それは夢の産物ではなかった。観測カメラが、本当にそれを捉えていた。
「……門は、実在する」
ナガセが呟いた。
私の心臓が、どくり、と脈を打った。
ナガセが記録媒体を抜き取ったあと、観測室の照明が一瞬、短く点滅した。
カチ、カチ、という電磁リレーの音。
照明が戻ると、どこか空間の“密度”が変わっていた。
「……なんか、空気、変わってない?」
ナガセが首をすくめながら言う。
確かに、さっきまでと室温が違う。湿気が、重たい。
耳の奥で、“水中”特有の圧力がわずかに脈打っている気がした。
私は違和感の正体を確かめようと、廊下へ出た。
――そこは、知らない廊下だった。
いや、まったく見覚えがないわけではない。
天井のパネル、床の溝、壁の素材。
全部、“少しだけ違う”。
あたかも夢で見た場所が、現実とすり替わったかのようだった。
「……おかしい、ここ……通路、曲がってたっけ?」
曲がり角に出ると、本来あったはずの貯蔵庫がなくなっている。
代わりに、そこには石造りのアーチがあった。
湿った石材、黒ずんだ文様。
それは夢で見た“門”の意匠に酷似していた。
「これは……一体……」
私は無意識に手を伸ばし、アーチの壁に触れた。
――その瞬間、視界がずれた。
床が膨らみ、壁が脈動し、
まるで観測所全体が“有機化”しているかのようだった。
遠くで、“ぐるる……”と咽び泣くような音がする。
観測所の、どこかが動いている。
私は急いで観測室に戻った。
だが――そこにいたナガセが、こちらを見て言った。
「碧君……あなた、どこに行ってたの?」
「は? 何言って――さっき君と、ここで一緒に……」
ナガセは、驚いた顔をした。
「え……? ここにはずっと、私一人だったわよ?」
私は言葉を失った。
腕を見ると、石のアーチに触れたときについた藻のようなぬめりが、まだ残っている。
――私は、“向こう”にいた?
いや、“向こう”が、こっちに入り込んできているのか?
ナガセが口を開く。
「……この観測所、もう“場所”じゃないのかも」
「……場所、じゃない?」
「ここは、“夢と現実の接続点”になってしまったのよ」
「じゃあ、私たちは――」
「戻れないわ。もう、もとには」
その言葉のあと、モニターが自動で起動する。
何も入力していないのに、
画面には観測所の地下構造図が表示された。
そこには、今まで誰も知らなかった“第三モジュール”が記録されていた。
しかもその場所には――“門”の意匠が記されている。
「行くべき場所が、見えてきたわね」
ナガセが、凍りついた声でそう言った。
私たちは、観測所の最深部へと向かっていた。
地図には記されていなかった廊下。
足元の感触が、金属から“岩”へと変わっていく。
照明はもはや人工のものではなく、
壁に浮かぶ燐光する文様が周囲をぼんやりと照らしていた。
空気は重く、まるで水中に沈みながら歩いているようだ。
鼓膜の内側に圧力がかかり、心拍の音がやけに大きく響いていた。
「そろそろね」
ナガセが小さく呟いた。
そして、私たちはそれを“見た”。
「……これが、第三モジュール……?」
空間は明らかに歪んでいた。
天井はなく、壁の輪郭は滲んで揺れていた。
まるで観測所の内部が、海の底へと“剥がれ落ちた”かのようだった。
中央には、そびえ立つ構造物――
石のアーチ。螺旋の柱。脈動する黒い“幕”。
それは、夢で見た門そのものだった。
その門の前に立つと、耳の奥で“声”がした。
「……カエレ……ワスレルナ……」
「おまえは……だれ……?」
ナガセが、かすかに息を飲む。
「……ここが、“呼ばれた者たち”が還る場所……」
門の膜が、ゆっくりと揺れ始める。
まるで私たちの接近に反応しているかのように。
そして膜の奥――その暗黒の中に、人影が浮かび上がる。
「……兄さん……?」
兄だった。
白いシャツ、濡れた髪。
変わらない笑顔で、門の向こうからこちらを見ている。
だが――その影は、足がなかった。
下半身はぼやけ、まるで海水と同化しているかのようだった。
兄が、静かに言う。
「碧……よく来たね。ずっと、君を待っていた」
「ここが、本当の“帰る場所”なんだよ」
私の足が、一歩、前へ出ていた。
胸の奥が熱く、懐かしさがこみ上げてくる。
しかし――
「だめ!」
ナガセが私の腕を掴んだ。
「それは、“兄さん”じゃない。“兄だった何か”よ」
私は振り返る。
ナガセの瞳には、はっきりとした恐怖と、怒りが宿っていた。
「一度門を越えたら、“戻れない”。ここはただの通路じゃない、“変質装置”なのよ。
存在そのものを、“あちら側の理”に変える場所なの」
兄の姿が、ゆらりと門の向こうに揺れる。
そして、唇だけが動いた。
「……碧……帰ろう……」
その瞬間――門の膜が、静かに開きはじめた。
中からは、潮のような圧力と、星のない海の匂いがあふれ出した。
そして、誰かが、こちらに手を伸ばしてきた。
門の膜が開いた。
その奥から――“兄の手”が伸びてきた。
だが、その手はすでに人間のものではなかった。
皮膚は水泡のように透け、指先は鰭のように分岐していた。
関節が逆に折れている。
それは“兄だった何か”の手。
「碧……帰ろう。全部終わるから」
その声に、私は無意識に引き寄せられた。
まるで海流に吸われるように、身体が前へと動いていく。
――だが、
「ごめんなさい、碧君。あなたにはまだ……行かせられない」
ナガセの声がした瞬間、
ドン!
私の身体が横に弾かれた。
彼女が、私を――突き飛ばしたのだ。
「ナガセさん!? 何を――っ!」
私は床に倒れ込む。
見上げる先で、ナガセはゆっくりと門の前に立ち、
“兄だった何か”の手を、自らの手で掴んだ。
「いいのよ。私は、何年も前から……“呼ばれてた”の」
ナガセの声は穏やかだった。
それが怖かった。
「これが、私の役目だったのかもしれない。
3組目の最後として、ここを“終わらせる”鍵として……」
「やめてくれ!そんなことをしても……!」
「……碧君、あなたは知るべき。
“この門”の正体を。
何が、あなたを呼び、何がこの島を覆っているのか」
ナガセの身体が、門の奥にゆっくりと沈んでいく。
泡のように、音もなく。
まるで元々そこに存在していなかったように。
「夢を見て。そこに答えがある」
彼女はそうささやく。
そして、彼女は――いなくなった。
門が閉じる直前、
一瞬だけ、ナガセの“記憶”のようなものが、
光の粒となって私の前に漂った。
そしてそれも、霧のように消えた。
私は、膝をついたまま動けなかった。
ナガセが、何を守ろうとしたのか。
彼女が言った“鍵”とは何なのか。
それを理解するには、
“門の中”を知る必要がある――。
私の足元に、水がじわりと染み出している。
ひんやりとした感触が冷たく、無情に広がっていく。
観測所の通路はいつの間にか水浸しになり、壁や天井からは潮の香りと共に湿気が滴る。
金属の扉は錆びつき始め、床のパネルは波打つように歪みだした。
まるで、観測所そのものが海の底に沈み込んでいくかのようだ。
“時間はない。”
私は拳を握りしめる。
あの門の正体を知り、真実を掴まなければ――
ナガセさんの犠牲は、決して無駄になどできない。
背筋に冷たい震えが走る中、私は観測室へと走り出した。
モニターの警告音が鳴り響き、赤い点滅が視界を焦らせる。
「…これが、本当の終わりなのか――」
それでも、私は諦めない。
誰かが私を呼んでいる。
あの声は、消えた者たちの叫びかもしれない。
私は深呼吸し、再び夢の世界へと意識を沈めた。
“門の中”へ、答えを見つけるために。
ベッドに横たわった瞬間から、
私は深い沈黙の中に落ちていった。
まぶたを閉じると、耳の奥に水音が鳴る。
泡が弾けるような音。波が反響するような、遠い潮騒。
そして――
次に目を開いたとき、私は海の中にいた。
だが、苦しくない。
呼吸もできる。重力もほとんど感じない。
宙を漂うような感覚。
光は青く、ぼんやりと差し込んでいる。
私はその中を、ただ静かに歩いていた。
足元はなく、上も下もない。けれど、私は“どこかへ”向かっていると感じていた。
しばらく歩くと、
石で組まれた古代の門が現れた。
亀裂の走るアーチ。
ねじれた柱。
表面には、文字にも見える“有機的な模様”が這っていた。
それは、現実で見た“門”と同じもの。
いや、“門の本体”なのかもしれない。
私は近づき、手を伸ばした。
触れた瞬間、門がぬるりと動いた。
まるで生き物のように。
「……碧……」
その声は、門の奥から聞こえた。
ナガセの声ではなかった。兄の声とも、違った。
だが、どこかで聞いたことがある。
自分自身の奥底から響いてくるような――そんな声。
門の奥には、いくつもの影が見える。
ぼんやりとした人影たち。
目も口もなく、ただ“誰か”の形を模しているような、記憶の残滓。
その中に、確かにいた。
ナガセさん。
そして、兄の影。
私は門に触れた。
次の瞬間、視界が反転し、圧倒的な情報の奔流が頭の中を貫いた。
重力が、崩れる。
時間が、ねじれる。
上下左右の感覚が消え、“意識だけ”が浮かび上がっていく。
そして、私は見た。
――それは“海”ではなかった。
門の本質は、宇宙だった。
幾千年も昔。
ひとつの“構造”が、星の外から地球へと落下してきた。
それは、巨大な殻のようなもの。
彗星にも、船にも、卵にも見える――定義不能な存在。
やがて、それは“門”となった。
地球の海底、最も深い静寂の中に沈み、眠り続けた。
だが、人間は偶然にもその真上に軍事観測施設を建設した。
ダールポイントの初代基地。
門は、それによって目覚めた。
記録された“人間の記憶”に反応して――“自分のかたち”を思い出した。
門は記憶を喰らう。
個人の記憶、共同体の記憶、言葉、歴史、死者たちの名残。
それらを、“再現”する力を持っている。
そして門は定期的に“呼びかける”。
“供物”を欲するかのように。
「この星の夢を見る者よ」
「眠れぬ記憶の底へ、おまえを導こう」
そのたびに、誰かがいなくなった。
かつての観測員たち。
2組目の職員たち。
ナガセ。所長。そして……兄。
だが、それは単なる犠牲ではなかった。
“選ばれた者”は、門の記憶に組み込まれ、門の一部になるのだ。
門は彼らを“保存”している。
思考ごと、魂ごと、永遠に。
だからこそ、夢の中で私は兄と再会できた。
ナガセとも会えた。
あれは幻覚ではない。記録された彼らの意識なのだ。
そして――門は今、私を迎えようとしている。
理由は一つ。
私が、“兄の記憶”を継いでいるから。
門は、記憶の連鎖を通じて“存在”を維持する。
私が兄の記憶を持つ限り、門にとって私は次の“贄”。
「碧……」
「来なさい。ここに在れ。永遠に」
私は門の奥に、人型に似た、黒い影を見る。
それは兄にも似ていて、私自身にも似ていた。
その存在が、腕を伸ばす。
「碧――おまえの記憶が、この世界を創るのだ」
世界が、崩れる。
夢が終わろうとしている。
観測所が揺れている。
だが、これは地震ではない。
構造物が軋む音がする。
壁に張り巡らされた配線が“蠢く”ように波打ち、天井パネルが軋んで歪んでいる。
門が、こちらへ滲み出している。
現実世界に“かたち”を取り戻そうとしているのだ。
夢と記憶を媒介にして、門はこの場所を乗っ取ろうとしている。
モニターが同時に悲鳴のようなノイズを上げ、警告灯が赤く脈動する。
観測データの波形は完全に乱れ、画面には解読不能な螺旋状の文字列が浮かび上がっていた。
「門は開いた」
「境界はもうない」
「おまえの記憶が海になる」
壁に、あの文様が浮かび上がっている。
石でもペンキでもない。
光と水でできたような、動く“印”。
それが観測所の至るところに滲み出している。
通路を満たしていた海水が、淡く青く光り始めた。
まるでそれ自身が“意識”を持っているかのように、こちらへと“寄ってくる”。
私は観測デッキの中心に立ち、耳を澄ませる。
遠くから――いや、頭の中から声がする。
「碧」
「門を越えよ」
「おまえの記憶を、永遠に残せ」
私は思い出す。
兄の声。
ナガセの最期の姿。
そして、自分がなぜここに来たのか。
すべては、門が“呼んだ”からだ。
門に触れた者は、その内部に世界を持ち込む。
そして、門は“それを再生する”。
つまり、私がこのまま存在し続ければ――
この世界は、門の中で永遠に再生され続ける。
観測所も、兄も、ナガセも――私の記憶に残る限り、繰り返される。
だが、それは生かすことなのか?
ただ“閉じ込める”ことではないのか?
床が抜ける。
水が一気に流れ込み、私の膝まで浸かる。
霧はもう、建物の中に完全に入り込んでいる。
そしてその中心に――“門の影”が立っていた。
青く、巨大な円環。
その中で、兄が私に手を伸ばしている。
「さあ、碧。
一緒に行こう。
ここなら、ずっと……二人きりだ」
ナガセも、そこにいた。
もう人間の姿ではない。
けれど、彼女の“意識”は、確かにそこにあった。
私は、その手を――拒めなかった。
兄の声。
ナガセの記憶。
あの夢。あの観測所。
水に沈んだ廊下。
濡れた足跡。
泡の音。
すべては、“門”へとつながっていた。
最初から、そうだったのだ。
私は知っていた。
わかっていた。
この存在は、人間がどうこうできるものではない。
観測も、封印も、抗いも、意味をなさない。
それはあまりにも大きく、静かで、慈しみにすら似た無関心を湛えている。
私たちの恐怖も、記憶も、愛も、
門にとっては“ただの素材”なのだ。
けれど――それでも。
「……兄さん」
「ナガセさん……」
私は手を伸ばした。
青い光が、私の指先を包む。
温かくも冷たく、深くも浅い――“海”の感触。
世界が反転する。
重力がほどけ、時間が消える。
鼓動が消え、意識だけが拡張していく。
私は“門の中”へと溶け込んだ。
そこには、かつての記憶があった。
夕暮れの防波堤。
兄と並んだ日。
海岸の観測所。
霧の朝。
ナガセの笑い声。
三輪くんの無邪気な顔。
そして、あの日見た、空を泳ぐ魚の群れ。
私はもう、人間ではない。
“記憶そのもの”として、この門の中に漂っている。
誰かが、再び門に触れる日まで。
誰かが、記録を読み取るその日まで。
私は、ここに在り続ける。
静かな、海の底で。
永遠に。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
感想、評価励みになりますので、どうかよろしくお願いします。