千切れた体と腐った脳で
深夜、辺境の研究所。かつて天才少女と呼ばれた研究者、ニア・ジェニイ博士は、訪問者の傷を治療を行っていた。
「また、無理しましたね」
「遅くに、すまない」
治療を受ける男はベイリール・トランドスト。かつて、この国の英雄と言われた男だ。ニアは傷を見て、これまでとは様子が違うことに気付く。
「コウセツに……見つかったのですね」
ベイルは沈黙によって肯定する。
「次こそ、殺されるかもしれませんよ」
「覚悟している」
「……私は、嫌です」
「約束したはずだ。君の誇りも取り返して見せる、と」
数年前まで、ニアはこの国で一番の研究者だった。好きな研究を好きなだけ、しかも自由に続ける。それが彼女にとって、残された幸福だったのに、ある日突然奪われた。
ラインハルトという男によって、すべてを奪われ、今ではこの小さな研究室で窮屈に働くだけの生活。再会したベイルは、協力を条件に自由を取り戻してみせると約束してくれたのだ。しかし、彼女は……。
「私は、そんなもの……望んではいません」
治療の手を止め、ニアは視線を落とした。彼女の頭の中に巡る、彼と再会してからの日々。それは、研究漬けの中、想いをひた隠しにする日々よりも、幸せのように感じていた。ニアはベイルの目を見る。あのときとは違った、色のない瞳を。
「私は……貴方と一緒にいられるだけで幸せなんです」
膝の上に置かれたベイルの手に、自らの手を重ねる。
「お願いです。もうやめてください。二人で……逃げましょう。地の果てまで逃げれば、コウセツだって追ってきません。そしたら、そこで……」
空いた手で、彼の頬に触れ、ゆっくりと唇を重ねた。
一秒、二秒、三秒……。
離れたとき、彼はどんな表情を見せるのだろうか。そんな恐れを抱きながら、ニアは体を離した。
しかし、そこには感情のない瞳があるだけ。
ニアの想いは、彼の心に小さな波すら、起こすことはなかった。
「……ごめんなさい」
ニアは傍らに置かれた仮面を手に取り、彼の表情を隠した。
「聖女の血は十分に用意しました。前回お渡ししたものより、少しだけ性能が向上し、副反応も抑えられているはずです」
「ありがとう」
ベイルはゆっくりと立ち上がると、黒いマントで体を覆い、ほとんど塗装が剥がれてしまった古いバッヂで止めた。研究所を出て行こうとするベイルだが、ニアは引き止める。
「それからベータ・ワンも治療を施しましたが……もうダメだと思います。あと一度でもまともに動けたら、奇跡です」
「そうか。……十分だ。あと一回ですべてが終わる。やつも満足だろう」
ベイルは研究所を出るが、一度も振り返ることはなかった。ニアは一瞬だけ、その背に向かって手を伸ばす。だが、この手が何かを掴むことはない、と彼女は理解している。
何年も前から。子どものころから。
自分は離れたところから、彼を見守るだけだった。ここ数年を覗けば……。
「ベイル様、ありがとうございました。どうかご無事で」
朝日はまだ遠く、彼女は薄闇の中で顔を伏せた。
ベイルが研究所を出ると、わずかに空が白み始めていた。決戦のときが近い。今にも逃げ出したくなるような気持ちと、全身の痛みを抑え込むように息を吐くと、入り口の傍らで項垂れているベータ・ワンが目についた。
「行くぞ、ベータ・ワン」
呼びかけるが、返事はない。事切れているのだろうか。それを確かめるために、ベイルは彼を蹴り付けた。
倒れると同時に小さな呻き声が聞こえる。息はあるようだ。
「立て、ベータ・ワン!」
「あ、あうあ……」
ベイルが怒鳴りつけるが、ベータ・ワンは死にかけた虫のように蠢くだけ。それを見たベイルは苛立ちを抑えられなかった。
「立てよ、ライナス兄さん!」
脱力したベータ・ワンの胸倉を掴んで、強引に立たせるが、そこに戦う意思は感じられない。それでも、ベイルは容赦なく、彼を地面に叩き付ける。
「何だよ、兄さん。あんたの怒りはその程度のだったのか?」
忌々しいものでも見下ろすように、歪んだ視線を落としながら、彼に吐き捨てる。
「あんたが始めたんだろう? 国を壊して、立て直して……すべての民を救うと言っていたじゃないか!」
「あ、あ、あ……」
「それとも……あんたの怒りはその程度だったのか? 家族を殺され、仲間を殺され、女も……エメラルダも殺された! それなのに、ここで終わりかよ! その程度で尽きる怒りだったのなら、その腕を失った日に、他の実験体と一緒に死ねばよかったんだ! そうだろう!?」
再び胸倉を掴み、ベータ・ワンの顔を覗き込む。
「ぐぅ、ううう……」
「その腐りかけた脳みそでも、俺の声が聞こえているはずだ!」
今にも死に絶えそうな虫のごとくの彼を、ベイルはもう一度地面に叩きつけた。
「あいつらとは違う。そう思ったから、もう一度戦いを始めた。すべてを取り戻すために。復讐を遂げるこの日のために、立ち上がってきたのだろう!! 立てよ、兄さん!」
「あ、あ、あ……ああああぁぁぁぁ!!」
何度も引きずり、擦れ切った怒りは、今にも失われてしまいそうだった。それでも、彼は怒りを思い起こす。恐怖と痛みを叩きつけられ、砕け散った怒りを、もう一度だけかき集め、立ち上がった。
それを見たベイルは、仮面の下で笑みを浮かべる。
「そうだ……。それでこそ兄さんだ。戦おう。僕たち二人で、今度こそ国を……世界を救うんだ!」
朝日が兄弟を照らす。その光景は、二人の命が黒く塗り潰される瞬間が迫っているように見えた。が、二人の背後で光が揺らめいた。
「ベイル兄さま」
振り返ったベイルは見る。光を背にした、救済の聖女を。
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