悪魔の取り引き
それから、兄さんと別れの挨拶を済ませたのだが、何だか胸騒ぎがして、ライオネス邸を訪ねてみると、リリアが忙しなく荷造りを進めていた。
「な、何をしているんだよ!?」
さすがの俺も驚きつつ、リリアの腕を掴んで止めようとしたが、今までなかったような力で振り払われてしまった。
「私も行くの。大正常化計画を手伝うために」
「そんなの、無理に決まっているだろ!?」
「私一人増えるくらい、問題ないから」
落ち着き、淡々と荷物を詰めているように見えたが、底では彼女の狂気が燃え上がるかのようだった。何も見えていない。ただ、兄さんの後を追うことしか考えていないのだ。そんなリリアを眺め、俺は自然と気持ちを零していた。
「俺は……どうなるんだよ」
リリアの手が止まる。
「……ごめん」
「何を謝っているんだ?」
怒っていたわけではない。感情もない。ただ、本当に理解できなかったのだ。俺の問いに、リリアは手にしていた服を握りしめながら、震えた唇で答える。
「やっぱり、私はベイルのことしか考えられない。どうしても、諦められない。だから、お願い。これ以上は、止めないで」
何をどうすれば良いのか。立ち尽くす俺に、リリアは言い放った。
「お願い、帰って」
死刑宣告と同じだったが、彼女は繰り返す。
「帰って!!」
もう、その場にはいられなかった。
城に戻っても、俺は何も考えられず、ただ自室の天井を見上げていた。どうしたって、どこまで行っても、お前は独りなのだ。そう告げられたようで、ただ気持ちが落ちて行く。このまま生きていたところで、先がないように感じていた。
「諦めるには、少しばかり早いと思うがな」
いつの間にか、やつが部屋にいた。普段なら凄まじい嫌悪感を抱くところが、やはり何も考えられない。ただ、ぼんやりと天井を見上げるしかなかった。しかし、やつは言う。
「願いを二つだけ聞いてくれたら、リリアをお前のものにしてやる。たった二つだけだ」
「……もういい。今さら、どうにかできるものじゃない」
「そう卑屈になるな。何とかしてやる」
もう話しかけるな。俺は口を閉ざし、相手にしないつもりだったが、やつはしつこく続けた。
「今までも、そうだっただろう。ワシの言うことを聞けば、リリアの心はお前に傾く」
「そんな簡単な話しじゃない。少し振り向いてもらったところで、どうにもならないんだ」
「いいや、今回は決定的なものにしてやろう。リリアがお前の腕の中に落ち、そこから動けなくなる。そんな状況をつくってやる」
「……あり得ない」
「このまま腐って何もしないよりは、藁にも縋る気持ちで試してみたらどうだ? それとも、お前の長年の想いは、所詮その程度だったか?」
「ふざけるな!」
俺は立ち上がり、剣を取る。が、やつは笑みを浮かべるだけ。
「その意気だ。まぁ、聞け。東の門に配置された騎士たちを、十分ほど別の場所に動かしてほしいのだ。そうだな、人影を見たから一緒に辺りを調べて欲しい、とでも言っておけ。これが一つ目の願いだ」
「それだけ、か?」
やつは頷く。
「それだけで、リリアが俺のものに?」
やつは笑った。
「そうだ。数年も経てば、お前たちは結婚するだろうな。約束しよう。ワシの命を賭けても良い」
立ち去ろうとするやつに、俺は聞いた。
「もう一つの願いは何だ?」
「……お前が死んだら、その体をくれ」
「何を言っている?」
理解できなかった。俺が死ぬまで、この老人は生き続けるつもりなのか。
「正気じゃない。あんた、狂っていたのか?」
しかし、やつは愉快だと言わんばかりに笑みを浮かべるだけ。
「死んだ後のことなど、どうでもいいだろう? それまで、リリアはずっとお前のものなのだから。約束しよう。お前が心の底から欲しいものを与えてやる」
「……」
「沈黙は了承と受け取るぞ」
不気味な笑い声を残し、やつは今度こそ立ち去った。あんな男の言うことを信じられるものか。もちろん、そういう気持ちはあったが、リリアに触れたとき感じた体温を思い出してしまう。たった十分騎士を動かすだけで、リリアが俺のものになるなら。その誘惑に、俺は勝てなかった。
騎士たちと存在しない不審者を探しながら考えた。今頃、兄さんは満天の星空の下、スイさんにプロポーズの言葉を贈っているのだろうか、と。どっちにしても、俺には関係ない。ただリリアが傍にいてくれるなら、俺は誰よりも幸福なのだから。
当たり前だが、異常はなかったので、十分後に騎士たちを元の配置に戻し、俺も自室に帰った。とても静かな夜だった。兄さんが王都を去る前日で、リリアに拒絶されたのに、王都には俺一人しか存在していないのでは、と思うほど静かな夜だった。
しかし、翌日の朝、兄さんとスイさんの死体が発見された。