四十代の面構え
2月21日(水)雨
いい加減に自分の顔を好きになってやろうかな。最近、鏡の前でそう考えるようになった。生まれてから今日まで休むことなく、おのれの顔として働いてくれている健気な顔じゃないか。労ってやれよ。歩み寄ってやれよ。幼い頃からずっと邪険に扱われてきた顔の身になってみなよ。ぼかあ、顔が不憫でなりませんよ。そんな風に、少しずつ自分の顔と向かい合えるようになったのである。
自分の顔が好きで好きでたまらない、そんな人はいるのだろうか。そんな生粋のナルシストに、僕は今まで出会ったことはない。僕はずっと自分の顔が嫌いだった。色白で、下ぶくれ、張り出した前頭葉、オランウータンみたいな唇、髪の毛一本の質にいたるまで、漏れなくコンプレックスだった。
二十代の僕は 四六時中オドオドしたり、目玉をギョロギョロさせてまわりを警戒していた。鏡の向こうにいる、白い、むくれた、不健康そうな、挙動不審の、病名はよく分かんないのだけれど、何かしらの患者っぽさを醸し出している。そんな自分の顔が大嫌いだった。
三十代の僕は、四六時中イライラして、目玉をギラギラさせて、まわりに攻撃的だった。鏡の向こうにいる、白い、むくれた、不健康そうな、挙動不審の、ハゲかけの、罪名は分かんないのだけれど何かしらの罪人っぽさを醸し出している、そんな自分の顔が大嫌いだった。
そして四十代の終わりを迎えようとしている現在の僕は、相も変わらず四六時中オドオドしたり、イライラしているわけであるが、ただし鏡の向こうにいる、白い、むくれた、不健康そうな、挙動不審の、見事にハゲ散らかった、そんな自分の顔に、かろうじて「責任」の輪郭を見つけられるようになったのである。
このバカタレが、いっちょうまえに責任ある顔つきになってきやがった。なんて時々鏡の向こうを褒めてやるのである。四十代の面構え。うむ、よく見たら悪くない。褒めてやると、顔のやつも、何だか喜んでいる。こんなことならもっと早く褒めてやればよかった。
これから先、五十代の顔、六十代の顔、七十代の顔へと、自分の顔がどのように変化していくのか、今はまだ皆目見当も付かないけれど。ただなんつーか、自分よりお年を召した先輩方が、長き人生において多くのことを「片付けた顔」っつーか「まとめた顔」っつーか。そういうイカしたジジイたちの面構えには、今から密かに憧れてちゃってる僕なのであります。わくわくわくわく。