兎と龍の邂逅譚 08
ユリア歴一一二七年、赤の月、第三週、第五日。
曇天の切れ目から漏れ出た朝日に照らされ、厩舎を濡らす夜露が煌めいた。
厩舎。これもまた学院の一施設である。正門を通って道形に少し進んだ所に位置し、厩舎としてはかなり大きい。また、外観も学院の他の建築物に見劣りせぬ威風堂々としたもので、建材も最高級と一目で知れた。
それもそのはず。この厩舎の役割は主に教職員や学生が所有する馬の世話で、馬主の大半は貴族。されば当然、馬にも相応の扱いが求められるのだ。
中は風通しが良いように木製の柵で仕切られた馬房がずらりと並び、どれも馬一頭にはいささか驕奢なほど広々としている。
「――だろ? そう思うだろ、うーちゃん? 絶~っ対、そうだよな?」
さてその内の一つ。入口から這入って右二列目奥の馬房。
藁敷きの床にぺたりと座り込み、濁った瞳でブツブツと呟く、何やらとてもあやしげな人物がいた。
「……結局な、アイツはな~んとも思っちゃあなかったんだ。オレのことなんざ、まるで信用してない。ざけてるよな、ほんっと」
スピットである。手には空の人参酒が握られ、見るからにへべれけの醜態だ。
この兎、昨晩クリーヴと揉めた後、その足でここまできて一晩中くだを巻いていたのである。
「……ぶるひ?」
「だろ⁉ そうだろ⁉ さっすがうーちゃんだ! お兄ちゃんはうれしいよっ」
「ぶるひ~ん……」
で、それに付き合わされた気の毒な相手がこの馬、うーだ。
河馬のように扁平で大きな顔、とろんと眠そうな目つき、大木のように図太いがその分短い首と四肢……典型的な豪力馬である。
うーは一応、スピットが話しかけるごとに律儀に相槌を返すのだが、どことなく惚けたように見える顔つきは、傍から見ていて意思疎通の成立に疑念を残す。
だがそれでも、酩酊と徹夜で頭が煮えていたスピットは、我が意を得たりとばかりに力強く頷き、勢いのまま立ち上がって一演説ぶち上げた。
「へ、もういいさ! アイツがそうくるならこっちだって考えがあらあ!」
「ぶるひ」
「まったく気は進まねえが、そんでもこっちは多少なら奨学金を減らされてもやってけんだ……!」
「ぶるひん?」
「んでもってどうにか耐え忍んで、アイツが学費を払えず退学になった時、別のヤツと組ませて貰えりゃいい……! なんだ、簡単なことじゃねえかっ」
「ぶるひっひ……」
「は、そうと決まりゃ善は急げだ! あんなヤツのことなんざほっぽり出して、王都にでも繰り出そう! 今のオレは無敵だぁ! 素敵な女の子と運命的な出会いの一つや二つや三つや四つくらいやってやらあ!」
実際、残された時間はもう僅かだった。こうしてくだを巻く今とて、貴重な時間を溝に捨てているのと同じである。
このままではどうなるかは火を見るよりも明らかだったが、それでもスピットは自暴自棄の衝動に身を任せようとした。
――だが、
「……ぶるひん」
「ど、どうしたんだよ、うーちゃん……?」
その彼を愛馬が引き留めた。
うーの黒い瞳が、馬特有の情緒と聡さを浮かべ、スピットをじっと見詰めている。
彼が五歳の時、父が友人から譲り受けた仔馬。それがうーだ。二人はいつも一緒だった。入学が決まった時も、厩舎使用料で懐が寂しくなるのを重々承知で、それでもそばにいて欲しいと一緒に上京したのである。意外なことに、彼の帳簿では逢引に要する金銭よりも先ず、うーの費用を優先しているくらいだった。
そのうーが、物言わぬ瞳でただスピットを見詰める。
「……わかってるよ、うーちゃん。こんなの、お兄ちゃんらしくないって言いたいんだろ?」
「ぶるひ」
「……そうだよなぁ」
「ぶるひひん」
「………。」
スピットは上半分が格子状になった壁の隙間から、空を見上げた。
外は曇天。遥か遠く西の空から黒い雲が近づいている。この分では昼過ぎには間違いなく降るだろう。
「……しゃあねえ、行くとすっか」
スピットはうーを馬房から出し、個別の保管棚から馬具と雨具を取り出し学院を発つ。
行き先は、王都ギャランへと続く街道だった。
――奨学生査定まであと二日。




