結晶少女 46
今宵も細い環を持った赤い月がファンタズマブルの夜空に昇る。この赤さは月自身の色ではない。大気を漂う霊子が夜間のみ、気温や湿度などの条件、すなわち季節に応じ幽かに光吸収・散乱特性を持つためだ。なので実際には月だけでなく、星々も赤みを帯びている。
結晶少女は一人、椅子に腰かけ赤い月を見上げた。
クリーヴの自室である。既に彼は就寝中だ。
今日は赤の月、第四週、第六日。クリーヴと少女の邂逅から約一週間が経っていた。
「まったくのう……」
結晶少女は細い膝に乗せていた本を閉じる。背表紙には "導約創世記" とあった。"ユリアの導き" の聖典である。既に目ぼしいものはあらかた読みつくし、最後に一応目を通すだけ通そうとクリーヴに借りてきた貰ったものだ。どうせうんざりするような内容と思っていたが……案の定である。
少女は本を手に取り、机の上に積まれた山々の一角へ。
そこでふと、動きが止まる。
「……ようやく終わったか」
視線を床に落とし呟いた。
終わった――一週間に渡り、結晶少女が取り組んでいた仕事を指す。この奇妙な状態、彼女が "仮契約" と例えた関係の解除をほぼ終えたのだ。
今も寝台でぐっすりと寝ている少年との別離。とうとうその時が来た。
「別れは明日の夜になりそうじゃな……」
後は細々とした微小な因子を取り除くだけ。あと一日もあれば済むだろう。
「まったく、なーんにも知らずにすやすや寝おって……」
結晶少女は蒼い瞳をクリーヴへ移した。まるで死んだように眠っている。この龍人種、異様に寝つきがいいいし目覚めもいい。そのくせ気配には敏感で、鼠一匹近づくだけで跳ね起きる。
「何の因果か……よりにもよって龍人種。しかも古龍族とはの……」
その意味するところを知る者は、今やこの蒼の大地に少女一人しかいない。
いなくなってしまった。
「あの【プロトタイプ・ワプムス】……あまりに劣化しており、もはや別物と評しても過言でなかったが……あれもおそらく問題なかろう」
少年との出会い、その端緒となった黒き肉人形。
あれだけがいささか心残りではある。
当初より結晶少女が最も気にしていたこと……それはあのような存在を人為的に作り出せる状態まで、文明が発展したか否かだった。
その時こそ自分は……覚悟せねばならない。
自らの手で彼女を闇へ葬り去った日、そう誓ったのだ。
「今の文明【レヴェル】ではどう考えても必要となる影孔密度を満たせぬ……それこそワプムスでも使わん限りな……やはりあれは自然発生ということじゃろうて……」
彼女は学院の講義や書物そして昨日の王都視察で現在の技術力を正確に把握していた。
確かに高い水準にはある。たかだか千年と少しでここまで発展したのだ。霊術があったとはいえ、大したものだろう。
しかしそれでも、彼女が危惧する水準には到底ない。
「後は魔物や霊石の性質にいくらか変化が見られたのが少々気になるが……あれから千年という時が過ぎたのじゃ。その程度の散逸はあるのかもしれん。これもおそらく問題なかろう」
ならばもう、自分がここにいる意味はない。
いては――いけないのだ。
「………………。」
結晶少女の瞳が赤い月へと向きかけ……またクリーヴに戻った。
少年と一緒に過ごした一週間を想起する。
……悪くない。悪くない一週間だった。
結晶少女はそう思い――すぐさまそれを振り払う。
己を恥じた。自身に嫌悪感を覚えた。
だが、それでも思考は止まらない。
またあの暗い地下で、無限とも思える時間を一人で過ごすかと思うと……寂しさと恐怖を感じざるを得ない。
「……ふん、何が "一人" じゃ。"人" なぞとうの昔に捨てたというのに……阿呆らしい」
青い瞳が机の果物籠へ移る。例の木苺だ。就寝前、少女はいいと断ったが、クリーヴが夜食に食えと押しつけてきたのである。
結晶少女は白く幽けき手を赤い果実に伸ばし……しかしそこで止めた。
代わりに少女は今度こそ夜空の月を見遣る。
蒼い瞳が月明りに照らされ煌めいていた。




