結晶少女 40
スピットときたらそれはもう、大層ご機嫌だった。
足取りは羽のように軽く、頬はだらしなく緩みきっている。
何せここのところ色々あった。とち狂った貴族にぶすりとやられるは、その治療費で高額な借金を負わされるは……挙句の果ては自分や友人の生死が危ぶまれる危機である。
特に後者だ後者。"忘れられた森" での一件にせよ、アンシェクとの一戦にせよ、あのクリーヴはどれだけ自分を心配させれば気が済む。
アイツは初めて会った時からずっとそうだった。とにかく危なっかしい。自分の命すら手札の一つと捉えている節がある。
だからあんなにケロッとしていられるんだ。こっちがどれだけ心配したかも知らずに。
「……あー、いい。とにかく今日はもう、そーいうのはいいんだ」
いつの間にか足取りは鉛のように重く、頬はカチコチに固まっていた。
スピットは手で頭上の羽虫を払うようにし、再び軽快に歩き出す。
ここは中央広場。遷都時の国王、ギャラン・ブレヴディルの雄々しい青銅像が中心に聳え立つ開けた場である。式典や布告など公的用件と重ならぬ限り普段は市が開かれ、今日もあちこちに食料や日用品に装飾品を販売する露天商、巧みな技を披露する芸人の姿が見られた。
「ふん、ふん、ふーん♪ ふふふん、ふーん♪」
鼻歌混じりで人混みを縫うように進むスピット。
(はてさて、今日は誰とだったけ……?)
どうやら待ち合わせの場所と時間だけは覚えているが、肝心の相手は忘れたらしい。
日頃から誰彼となしに声を掛けている弊害だ。
この兎、こういう屑じみたところがある。
「お、いたいた。おーいっ」
ギャラン像の向こうにある噴水、その近くにいた少女が小さく手を振るのに気づき、スピットは気軽に応じた。
そうそう、あの子である。赤豹族の女子。同学年の子だ。そういえばこの間のイダルティの講義の時、声を掛けたのである。
いやーいいね。あの気の強そうな目、釣り上がり気味の。確か新興貴族なんだよな。血統貴族はよっぽどのアレじゃないと平民なんて相手にしないが、その点、新興貴族はいい。なにせ要領がいいので、お互い後腐れなく遊びで終われるのだ。
名前は……なんだっけかな。思い出せない。途中まで出かけているのだが。
(うへへ、これじゃ "あの時" に名前が呼べねえよ。困っちったなあ………………って、あれぇ???)
まったく人の脳というのはよくできてる。少女の名を記憶から引き出そうとする内に、スピットはまったく別のことに思い当たった。
思い当たってしまった。
……何か違和感を感じる。
本当にそうだったか? 今日の逢引の相手、あの子だったか?
いや、より正しくは――彼女だけだったか?
「あ、きたきた。スピットくん、おそーいっ」
嫌な予感をほどよく当たる。今や違和感など急速に消失していたスピットは凍りついた。
何が起きたか説明しよう。
大事なのは位置関係だ。中心はギャラン像。その向こう側、噴水のそばに例の赤豹族の女子がいる。スピットは手を振ってきた彼女に応え声を掛けたのだ。
そうしたら。
ギャラン像の脇から第三の人物がぬうっと現れ、朗らかに応じてきたのである。
見ず知らずの者……ではない。年は自分より三つ上、四白牛族のほんわかしたおねーさん。学院の給仕の一人だ。どことは明言しないが、色々と的確に体積が分布していて、ぐっとくる。
そういえば自分は彼女にも声を掛けていた。
確かそれも同じ日。イダルティの講義を終え半刻と経たぬ内に食堂で。
鶏のそれでもかくやというほど乏しい記憶保持力である。
……まあ、要するにこういうことだ。
この兎、二重予約しでかしやがった。
(やっちまっただ、やっちまっただ……二重予約、しちまっただ!)
がくがくと、がくがくと、膝が腹を抱えて笑い出す。
既に赤豹の女子は何が起きたか理解したようだった。眉間に深ーい皺が刻まれる。
そのままのっしのっしと大股開きで歩き出し、ぐいっと牛のおねーさんの肩を掴み自分の方へ振り向かせた。
何事か話し合う二人。二言三言でおねーさんの顔からほんわかしたものが消える。あるのは無。完全な虚無だ。ちなみにスピットはおねーさんの名もやっぱり思い出せない。
牛のおねーさんも赤豹女子に合わせ、のっしのっしとやってきた。
そこにあるのは動と静、生と死、光と闇。この世のありとあらゆる事象の対比だ。
今やご立派な青筋を立て見るからに怒り狂う赤豹女子と、深淵のような虚ろな目をして得体の知れぬ顔つきをするおねーさん。
貴族と平民で身分も育ちもまるで違うはずなのに……こういう時、どうして女はこうも素早く結託できる⁉
「「どういうこと。説明して」」
あっと言う間に距離が縮まり、異口同音で詰め寄られるスピット。
窮地である。全身から思い出したかのようにぶあっと脂汗が吹き出た。
(どうする……⁉ どうするどうするどうするっ⁉)
だがそこはスピットも海千山千の剛の者。修羅場はそれなりに潜り抜けてきた。こういうことに関しての切った張ったはお手の物である。何せ一度は本当にぶすりとやられたくらいだ。
回る。回る。思考が回る。解を求め高速回転。スピットの頭は今や、ファンタズマブル随一の賢者すら及ばぬほど深き推論の海を自在に泳ぎ回っていた。
いくらでも手の打ちようはある。膝をついて詫びてもいいだろう。踵を返して逃げるのも可能だ。誠意を尽くし説明すれば、少しは同情してくれるかもしれない。
だがそれだけか? 本当にそれが最善手か?
いや違う。きっともっと良い手があるはずだ。
探らねばならない。潜らねばならない。この深く暗き思念の大海に。
そこにしかきっと――答えはないのだから。
「はっ⁉」
そして彼はとうとう巡り合う。とんでもない閃き。神がかり的なその発想。稲妻の如き激しき振動を帯びた究極解。
……わかっている。これは危険を、痛みを伴う "策" だ。
上首尾に事が運ぶ確率は十に一つ、いやさ百に一つもないだろう。
その代わり見返りは大きい。あまりに大きい。千、いやきっと万にすら達するだろう。
百に一つの確率で万に勝負できる……それはスピットにとって、あまりに甘美な誘惑だった。
嗚呼、彼は、スピット・ラピラービは、
「た、たまには趣向を変えてサ……」
正真正銘の、
「今日は三人一緒にってのもいいかな~っテ」
男だった。
「どうかナ……かナ?」




