二割引きの時間
快晴の空。
季節は夏。
柴田なごみは日除けに張られたテントの下で一人、小さな弁当箱を広げていた。
ここは愛媛県松山市。地元では市内電車と呼ばれている路面電車の駅の一つから徒歩数分のビルの屋上だ。
なごみはこのビルに入居しているソフトウェア開発会社に勤めている。大学を卒業してすぐに入社した。今年で二年目になる。
なじめない。
いつもそうだった。
幼稚園、小学校、中学、高校、大学。
自分ではなんでもてきぱきこなしているつもりだったが、まわりの評価は違っていた。
のんびり屋さん。テンポが今一つ遅い。そして、のろま。
「ふう……」
箸をおいて溜息を吐く。
なごみはビルの周囲を見渡す。
このあたりには二つの大学を中心に小中高校と教育施設が集中していた。それらの周りには、商店や背の低いビル、それに一戸建て、集合住宅などが混然と広がっている。街の西側には松山城を頂くお城山があり、その緑が濃い。
「暑いなあ……今年はいつ涼しくなるんだろう……」
遠く近く蝉の声が響く。そこに踏切の鳴る音が加わったとき、背後でドアの開く気配がした。振り向く。
「やあ」
同期の男性社員、北条あきらだった。すたすたとなごみのもとにやってくる。
さらさら髪にすらりとした長身。少し開かれた唇の端で白い歯がきらりと光る、そんな錯覚さえ覚えるほど笑顔が眩しい。
今から四ヶ月ほど前、一緒に帰りの市内電車を待っていると、あきらは急になごみに頭を下げた。
「付き合ってくださいっ!」
それ以来、たまに食事をしたり、一緒に買い物に出かけたりしている。
なごみは立ち上がり、あきらを迎える。
「なあに?」
「来月、誕生日だったよね?」
「うん」
あきらがジャケットの内ポケットに手を入れた。長方形の赤い包みを取り出す。
「ちょっと早いけど、プレゼント」
両手で差し出されたそれをなごみは受け取る。
「腕時計だよ。いつもスマホで時間をみてるから。こっちの方が似合うと思って」
なごみは手の中の赤い包みを見つめる。
「あ……ありがとう」
腕時計か……戸惑いが声に出たろうか?
なごみは上目遣いにあきらの顔色をうかがう。
「どうしたの?」
あきらが訊いてきた。なごみは笑顔を取り繕う。
「ううん、なんでもない」
「そう?」
あきらは少し視線を落とした。
「それでなんだけど……」
「なに?」
あきらの視線がなごみに向く。
「今度の土曜日、三津浜の花火大会があるよね? 一緒に行こうよ? 都合が悪い?」
なごみは首を横に振る。予定なんかない。いつもはリビングのテレビで見ているのだ。その花火大会に彼と一緒にいける。何着て行こうかな。やっぱり浴衣だよね。あれこれ考えているとあきらが言う。
「七時半に迎えに行くよ。君の家から会場まで歩こう」
「電車で来るん?」
「うん」
「混むけん車で来たら? うち、あと一台くらいなら停められるけん」
「ありがとう。でも電車にしとくよ。時間が正確だから」
「わかった」
「じゃあ、土曜日、七時半に」
「うん」
「急ぎの営業があるから今日はこれで。あとで電話するね」
「うん。いってらっしゃい」
あきらは屋上から駆け足で去って行った。
一人になった屋上でなごみは赤い包みを見つめる。
腕時計か……
なごみが初めて腕時計を買ったのは中学にあがった頃だった。大切に貯めていた小遣いをはたいて文字盤とバンドが薄いピンク色のクオーツ式を買った。すごく嬉しかった。
ところが……
その日のうちに時刻が合わなくなった。一時間で十分以上遅れるのだ。すぐに時計店に持って行った。一日預けて診てもらったがどこにも異常はみつからなかった。
翌日、時計店から返って来た腕時計をなごみは身に着けた。そうしたらまた時刻が合わなくなった。悲しかった。涙があふれた。すると部屋に母がやってきた。ごついデザインの腕時計を差し出すと母は言った。この時計ならきちんと動く。これをあげるからもう泣かないで。それは大きな自動巻きの腕時計だった。なごみはかぶりを振った。その背中を、母はいつまでもさすっていてくれた。
翌日、なごみが部屋に閉じこもっていると電話がかかってきた。病院からだった。母が事故にあったと言う。父と待ち合わせて病院に向かう。だが間に合わなかった。母はすでに亡くなっていた。
それ以来、なごみは母の形見の腕時計を身に着けるようになった。ごついデザインの自動巻き腕時計は、なごみの左腕で正確に時を刻み続けた。
その腕時計も、今は大切にしまってある。時刻の確認にはスマホを使うようになったからだ。
チャイムが鳴った。なごみは回想から引き戻される。昼休み終了五分前だ。開発室に戻らないと。なごみは屋上を後にした。
*
土曜日。
松山市三津の柴田家。
夜七時半きっかりに、紺色の浴衣姿であきらはやって来た。
当のなごみはその頃になっても髪形や浴衣の着付けで悩んでいて、あきらへの対応を父に任せてしまった。
母を亡くして以来、なごみは父と二人で暮らしてきた。今日、あきらが来ること。一緒に花火大会に行くこと。なごみは、それらをあらかじめ父に伝えておいた。父はにこにこして聞いていた。だからなごみはあきらの相手を安心して父に任せたのだった。
あきらがやって来て十数分後、ようやくなごみは淡いオレンジの模様の浴衣で玄関先に出ることができた。父の笑顔に送られて、なごみは家をあとにした。
なごみの家から花火大会の会場までは徒歩で十分もかからない。あきらが先頭で、なごみは彼の後ろを歩く。ここは普段車道だが、今夜は交通規制されていて歩行者専用になっている。いつもの何倍も人が歩いていた。みんな花火会場を目指している。
家を出て以来、浴衣の裾と履き慣れない草履の鼻緒が気になっていた。それらと緊張が相まって、なごみは何も喋れないでいた。あきらも声をかけてくれない。何か言わなきゃ。そう思うほど何も言えなくなる。なごみが言葉を探していると、前を行くあきらが立ち止まった。なごみも立ち止まる。あきらが振り向く。
「あの……」
「あ、あの……」
同時に言って二人で顔を見合わせる。あきらが言う。
「さっき言い忘れたけど、浴衣、とても似合ってる」
「ありがとう」
頬のほてりを感じて左手に持っていた団扇で顔を隠すなごみ。その手首にあきらの視線が向く。
「腕時計、してくれてるんだね」
「うん……」
「ありがとう。行こうか」
再び歩き出すあきら。その歩みはゆっくりで、なごみはあきらの気遣いに感謝した。
なごみとあきらは花火の打ち上げが始まる五分ほど前に会場に着いた。すごい人出だった。水産市場からスーパーにかけての観覧会場は、人、人、人でごったがえしている。夜店もたくさん出ていて、そこからはいい匂いが漂ってきていた。
「りんご飴食べる?」
あきらが訊いてきた。
「うん」
二人でりんご飴の屋台まで歩く。
「はい」
あきらが買ったりんご飴をなごみに手渡した。
「ありがとう」
「どういたしまして」
そこであきらは何かを思いついたように続ける。
「なんかさ、君と一緒にいるとみんなが早口に感じるんだ。さっきの屋台のお兄さんとか」
「そうかな?」
「きっと君の可愛さにみんな早口になるんだよ」
「えっ?」
なごみは頬が熱くなるのを感じてまた団扇で顔を隠す。
「可愛いよ」
あきらの声を団扇ごしに聞くなごみ。
場内にプログラム開始のアナウンスが響いた。
五部にわたる打ち上げ花火が始まった。
連続して打ちあがるスターマイン。
空高く上り、重い音とともに開いて周囲を明るく染める大輪。
きらきらと垂れ下がるしだれ柳。
ハートやキャラクターが夜空に描かれる。
たっぷり一時間、一万発にも及ぶ様々な種類の花火が三津浜港の夜空を彩った。
全てのプログラムの終わりを告げるアナウンスが場内に響いた。
観客が一斉に帰り始める。
その中で、あきらはなごみの手を握り、人波の行く先とは逆の方向へと向かう。
照明がやっと届く薄暗がりであきらは立ち止まる。なごみと向かい合う。
あきらが浴衣のたもとから小さな紺色の箱を取り出す。開く。中には指輪が入っていた。
「結婚しよう」
なごみの左手から団扇が落ちる。頭の中が真っ白だ。
「今日、一緒にいて、すごく時間の経つのが早かった。そんな人とずっと一緒にいたいんだ」
あきらに右手を取られるなごみ。そこに指輪がのせられる。
「返事は急がない。うん、急がないよ」
なごみはようやく口を開く。
「う、うん……」
「じゃあ家まで送るね」
あきらに送られてなごみは家に向かう。
まるで雲の上を歩いているような気分だった。
*
花火大会から戻ったなごみは浴衣から着替えもせずに自室の床に座って呆けていた。
あきらとは玄関で別れた。手を振るあきらの姿を、残像のようになごみは思い出す。
座卓の上には指輪の入った小箱が置かれていた。
「結婚かあ……」
なごみは頭がゆっくりと回転し始めるのを感じる。
親族の顔合わせがあって、結納を交わして、結婚式の段取りをする。ドレスや着物、式場はどこにしよう?
神前結婚かな?
それとも教会がいいかな?
披露宴には誰を呼ぼう?
二次会は?
あれ?
何を考えているんだろう、わたし?
何を考えたらいいんだろう?
なごみは自分が混乱していることを自覚した。
その時、部屋のドアがノックされた。父の低く落ち着いた声が聞こえる。
「なごみ、いいか?」
なごみは慌てて指輪の小箱を浴衣のたもとに入れた。父の声に答える。
「いいよ」
ドアがゆっくりと開く。長身痩躯の父が部屋に入って来た。その手にはハードカバーの単行本のようなものが見える。
「これをなごみに渡そうと思って」
父は屈み込み、床に座っているなごみに本のようなものを手渡す。
「なに?」
「お母さんの日記だ」
「お母さんの?」
なごみは驚いた。母の遺品にこんなものがあったなんて初めて知った。
「そうだよ。今のなごみには、これが必要だと思ったから」
「お父さんはこれ読んだの?」
「いいや」
父は内容を知らないのだ……ほんとうだろうか?
「じゃあ読んでみる」
「それがいい」
なごみは日記を胸に抱く。父は部屋から出て行った。ドアがゆっくりと閉まる。
深夜、入浴を済ませて身繕いを終えたなごみは母の日記を開いた。最初のページから読んでゆく。書かれている内容はなごみが小学校高学年の頃のものだ。たわいない日常を記した日記だった。だからこそ、ページを繰る手が止まらない。懐かしい日々が思い出される。
どれくらい時間が経ったのだろうか。なごみがその記述にたどり着いたのは、カーテンの引かれた窓が明るくなり始めた頃だった。
あの日だ。日付を見たなごみは心が硬くなるのを感じた。
そう、それは母が亡くなる前日、泣き暮れるなごみに母が腕時計を手渡した日だった。
その日の日記はいつもと違っていた。なごみに向けて書かれていた。
「なごみへ。いずれは話さないといけない。でも、それはいつがいいのか。わたしはずっと迷っていました。でも、これ以上迷うのは、迷って話さないでいるのは、あなたを悲しませることになる。今日、そのことがわかりました。だから明日話そうと思います。でも、そう決心すると、とたんに不安になりました。いつ、何が起こるかわからない。地震があるかもしれない。事件や事故に巻き込まれるかも知れない。だから今、この日記を書いています」
そこまで読んだなごみは心を引き裂かれるような痛みを感じた。そうなのだ。母はこの日記を書いた翌日に交通事故で亡くなった。空白の一行を挟んで日記は続く。
「なごみ。あなたは他の人とは違う時間を生きています。それはあなただけでなく、わたしも。そしてわたしの母も。その母も。わたしたちの時間は他の人よりも遅い。他の人が一時間過ごす間に、わたしたちは四十八分を過ごす。あなたが身に着けたものもそうなる。だから、あなたの買った腕時計は一時間で十二分遅れた。あなたに渡した自動巻きの腕時計は、わたしの母が時計職人に頼んで作ってもらったものです。普段は正確に時を刻んでいるけれど、腕に着けると一時間で十二分進むようにできている。だから、あの時計はわたしたちに周囲の時間を正確に教えてくれます。大切にしてください」
信じられないことだった。でも、母の言う通りならいろんなことに辻褄が合う。みなと同じに何かをしようとすると、必死にならないと追いつけなかった。そう、必死だったのだ。それでも、遅い、のろまだと言われてきた。そしてあの日の腕時計。中学にあがった記念にと、時間に正確に行動できるようにと、小遣いをはたいて買ったクオーツ式の腕時計。その時刻が合わなかった。一時間に十分以上遅れたのだ。母の言うことが事実なら、それに説明がつく。再び空白の一行を挟んで日記は続く。
「なごみ。わたしたちと同じ時間を生きているのは、あなたのお父さんも同じです。でもそれは、お父さんがわたしたちと一緒にいるときだけ。お父さんはそのことを知っています」
父も知っていたのだ。その父は、今日、なごみに何があったのか気づいた。だから、この日記をわたしに手渡したのではないのだろうか。父は日記を読んでいないと言っていた。それがほんとうなら、読んでいなくとも、何が書いてあるのか、おおよそのことは知っていたのだろう。母から聞いていたのかも知れない。事故で亡くなる前の母から……
空白を二行空けて日記は続く。残りは数行だ。
「最後に、なごみへ。あなたがお父さんのような素敵な人と出会って、そして女の子を産んだら、その子もわたしたちと同じになります。そのことは覚悟しておいてください。そして優しく接してあげてください。お願いします」
それが最後の記述だった。それ以降の日記は無かった。
*
月曜日。
いつものビルの屋上。
雲が低い。今にも降り出しそうだ。そんな空の下、なごみはあきらと向かい合う。左手を胸にあてる。
「あきら君、見て」
そこにはあきらからプレゼントされた腕時計があった。
「時刻が合ってないでしょう? 一時間で十二分遅れるの。でも身につけないでいると正確に動くの」
あきらは黙って聞いている。
「はい」
今度は右手の平を見せてなごみは言った。そこには指輪の入った小箱があった。
「どうして?」
あきらが泣き出しそうな顔をして訊いてきた。
「あきら君が悪いんじゃないの」
なごみは小箱を握ったまま腕時計を外そうとした。
「知ってるんだ」
「え?」
「土曜日の夜、全部お父さんから聞いた。迎えに行ったとき、電話番号を聞かれたんた。そしたら家に帰った後、電話がかかってきた。お父さんから」
なごみは目を伏せた。あきら君、知ってた。でも……
「あなたと同じ時間を生きることはできない」
「それが答えなんだね?」
「うん……」
ゆっくりと腕時計を外すなごみ。小箱と一緒にあきらに手渡す。それらを受け取り、あきらは屋上から去った。
雨が、降り出した。
なごみは思う。
わたしは二割引きの時間を生きている。
人生もきっと二割引きなんだろうな。
雨の街を見渡すなごみ。その背後でドアの開く音がした。
振り向くと、あきらが傘をさして立っている。
歩み寄るあきら。
「君と同じ時間を生きたい」
なごみはあきらに抱き締められる。
焼けたコンクリートを打つ雨が、夏の匂いを周囲に充満させる。
あきらの腕時計が二割引きの時を刻み始めた。