しゃけ!しゃけしゃけしゃけ!しゃっけ!
「しゃけ!」どこか遠くから奇妙な少女の声が聞こえてきた。その後に続く「静かにしなさい」というのは母親の声だろうか。何事かと思って視線を声のした方へと向ければ、そこには鮭のぬいぐるみを抱えた少女が母親と手を繋いで歩ていたのだった。
何とも微笑ましい光景に思わず目を細めた俺は、同じ視界の中によく見知った顔を見つけることが出来た。
会社の中で何度も顔を合わせた上司が歩いていたのである。「あれ」と呟き、どうして彼がここに居るのだろうかと考える。
白を基調としたこの建物は病院であり、ガタイの良い彼はよく目立った。それは何も俺の顔見知りだからというわけではないだろう。上司の纏う空気が体躯と異なるために違和感となっているのだろうか。
俺には分からないものの、こちらから声をかけるのも憚られた。
こういうのはきっと、他の誰かから又聞きするぐらいでちょうどいいのかもしれない。
「しゃけ!しゃけしゃけしゃけ!しゃっけ!」
鮭のぬいぐるみをリズミカルに床へとビシビシ叩きつける少女を横目に、俺は席を立って病院を後にした。
明日会社を休みたいから風邪をうつされないかとここに居るには、もう少しばかり心臓に毛を生やさなければならないらしい。
翌日、無事に風邪もひかずに出社した俺は始業前の準備を終わらせ、朝礼の段になったところで普段は挨拶をしている例の上司が居ないことに気が付いた。今日は休みではないのは知っていた。
朝礼をぼーっと立って終わらせているために深く考えはしなかったものの、その後で「母親が亡くなったらしい」と聞くことが出来た。誰が言っていたのかは分からいけれど、まさか嘘を言うなんてことはないだろうから、昨日見たのはそういうことだったんだろう。
何かの拍子に歳を聞いたが、世間一般からすれば早すぎる別れであった。
けれど俺は薄情な……というか、同情が出来ない類いの人間であるらしく、他人の死についてどうこう思うようなことはなかった。あぁそうなんだ、と。その程度の浅い言葉しか出てくることはない。
上司は会社の前にある食堂に通っていたが、今日はその姿を見ることが出来ない。
休んでいるのだから当たり前ではあるものの、それに少しばかり寂しく思うんだった。
俺の運んだ箸が鮭の塩焼きを解すのを見て、身の赤が人の血肉のように見えた。しかして、鮭の味が変わるようなこともない。ご飯と供に口内に放り込み、背後から聞こえてくるテレビの音に耳を澄ませるのだ。