五話 ヤンおばさんの悲しみ
1
客の流れが落ち着いたので、壁に体を寄せる。
「痛てえ……」
声に出てしまうくらいには胸の痛みが響く。確認すればきっと大きな痣が出来上がっているだろう。
そうして体を休めているとカウンター席から、飴菓子を作っている工場の常連の甲人の親子が話しかけてきた。
「せっかく顔色が良くなってきたのにどうしたんだ、青白君?」
「ぶり返しちまったのか?」
からかうように彼らは言う。
「実は今朝酷いドジを踏んじゃって」
経緯を説明しようとすると、手持ち無沙汰になったのだろうか、ヤンおばさんも会話に入りだした。
「麺を運んでたら階段から落ちて胸を打ち付けたんだとさ」
「それは災難だったなあ」
「本当ですよ……。落ちてダメになった麺の分、給料も天引きされちゃうし」
ヤンおばさんには、今朝起きた出来事は誤魔化して説明した。ギャングのメンバーに今朝会って尋問された、と説明すれば在らぬ憎悪をギャングに向けかねないと思ったからだ。
理由は定かではないが、ヤン・フェンはギャング嫌いだと語ったチェン・メイメイからは、好いていた人物に嫌われてしまった、という雰囲気があったのだ。
「容赦ねえな、ばあさんは」
「なんだい小僧。文句があるならアンタの粥に嫌いな葱を入れるよ」
「勘弁してくれっての」
そう言うと息子はおかずの魚を口に入れ、残りの粥をかき込んだ。
「いくらお前が成長しても葱とヤン・フェンには敵わないな」
彼の父親は甲人特有の、腕ほどの大きさの尻尾を横に振って笑った。
微笑ましいやり取りを眺めていると、今度は朝食を飲み込み終えた息子さんが話かけてきた。
「体調を崩してるってのに、新人はよくあの恐ろしいばあさんと……」
「なんだい!?」
「あー……。素晴らしい店主と働いてるなあ、青白さんは」
それにはすぐに答えた。
「お兄さんが思っている以上に、ヤンさんと働くのは楽しいですよ」
最初は都で生きていくために必要なこと、と考えていたが、お客さんとのやり取りは娯楽みたいなものだった。
会話しているときが一番体調の悪さを忘れることができたし、いつの間にか、毎日働くことに抵抗が無くなってしまったのだ。
「でも結局店には居るんだろう?青白君みたいな若者には退屈じゃないの?」
退屈でもなかったが、店の外には出てみたかった。
父さんを探しに行くのは勿論、朱雀島を見て回りたい。そして、何より今は何故チェン・メイメイが悲しそうにヤンおばさんの名前を出したのか、過去に何があったかを知りたいと思った。
父さんの話をするくらいには仲は良いはずだったが、働かせてもらっている立場であることは変わらない。休暇の話を切り出すのは億劫だったが、会話に乗じて休みを貰えないか試してみよう。
「そうなんですよね。まだまだ知らないことが沢山あるんで、色々見て回りたいんですよね」
そう言って、期待を表すため、顔を一層にこやかにしてヤンおばさんに目を合わせようとした。
「ああ、そうだったトモキ。次の日曜、店番しなくていいよ」
「え」
出会ったときのように、駄々を捏ねられるかと思っていたので拍子抜けしてしまった。
「なんだい、休みが欲しいんじゃなかったのかい」
「そ、そりゃあ欲しいですよ」
ヤンおばさんが茶化す横で父親さんは「そうか、三十日は月末かあ」と声を漏らした。
「月末は定休日なんですか?」
「そうさ。給料はその前日に渡すよ」
「けど不運だな新人、日曜じゃここ以外で給料を使う店なんて無いよ」
「どうしてですか?」
「俺たちアネッアヤーンは日曜は働かないって決まってるのさ」
「そうなんですか……」
見て回れるものが無い訳ではないとは思うが、人との交流ができなさそうなのは、やはり残念なものだ。
「さて、いつもの杏仁豆腐を……」
三幸食堂の名物を頼もうとした父親さんを、時計の方を見た息子さんが止める。
「おい親父、頼んでる余裕は無いぜ。そろそろ行かないと母さんが怒る」
「えー?五分くらい大丈夫だろう」
「苦労して玄武島の店から契約を取ってきた弟まで怒らせたいのかよ」
観念して親父さんは財布を取り出す。
「分かったよ……。青白君、会計よろしく」
気持ちを切り替えて「はい!」と大きく、かつ周りのお客さんに不快にならない程度の声で返事をした。
2
あっという間に日曜日になった。胸の痣はまだ治りそうにないが、ようやく日光に当たらない朱雀島の環境に慣れてきたようで、体調はかなり良くなった。
いつもより遅めの起床をし、ヤンおばさんと朝食を食べた。
「で、今日は何をするんだい?」
隣で朝食で使った皿を洗っているヤンおばさんが質問する。
「とりあえず、教会に行ってみたいと思います」
聞くところによれば、アネッアヤーンは午前中、教会で祈りと牧師による説教を聞き、午後は家で粛々と過ごすらしい。その午前の集会に参加して、都の文化に触れてみようという考えだ。
そして……ヤンおばさんには言わないが、チェン・メイメイを探しにギャングと接触するのは午後にする予定だ。
「まあ、日曜で退屈しなさそうなのはそこと屋上と海くらいだろうねえ」
「屋上、ですか」
大きな建物の中にいるのだから、あるのは必然なのだが失念していた。
屋上に行けば必然と見えるだろう。
自分も皿洗いを終えると彼女に質問してみた。
「ちなみにヤンさんはお出かけするんですか?」
「するよ」
「どこへ行くんです?」
「海さ」
急に素っ気なくなった彼女も皿洗いを終え、ゆっくりと使っていた水を止める。そして止めた水とは反対に、またゆっくりと口を開いた。
「……お前が何時ぞや言ってた、ハカマイリみたいなものさ」
「それは……」
「あぁそうさ。息子のスーのさ」
薄々気づいてはいたが、比較的最近亡くなってしまったのだろう。
そんな現実を納得させるように、受け入れようとするように、彼女は言った。
「なら俺も行きますよ」
「……どうしてだい」
今日が始まってから全く目を合わせようとしなかった彼女が顔を真っ直ぐ向いた。
「だってヤンさんには住む場所と食べ物を賄ってもらって、スーさんには服を貸してもらってるんですよ。もう他人事じゃ……」
「やめておくれ!」
背中を向けて絶叫した。そして自分の感情を落ち着かせるように顔を拭った。
「……アンタを見てるとスーを思い出すんだよ。だけどね。全然食べないところとか、レジ打ちが早いところがスーと違うのさ……。違うんだよ……」
今にも荒ぶろうとしているものから逃れるようにタオルで手を拭き、背筋を伸ばすと、後ろ向きのまま話し出した。
「悪いね、顔を向けられなくて」
「いえ、そんなことは……」
「鍵は私の部屋にあるから戸締り頼んだよ。今朝も行ったけど、すぐここを出るから」
そう言うと逃げるように厨房を後にし、レジスターの横に置いていた小さな鞄を肩にかけた。
「父親捜し、頑張りなよ」
「……っ」
返事代わりに「いってらっしゃい」と声を掛けたかったが、それすらも彼女を傷つけそうで、止めた。
からから、と二回引き戸の音が鳴ると、自分と静寂だけが店に残された。