ピアニスト
太陽が落ちかけている夕刻間際だった。
民家群が立ち並ぶ集合住宅地で食糧等の物資を探索していたナカジとアカネはゾンビと戦闘中であった。
二人は銃器は使わずに刀を手に持ち、柔軟にそして正確にゾンビとなった人体の頭部を切断していくのだが、その対処をしている間にもゾンビは次から次へとどこからともなく押し寄せてきている。
「キリがないねえ」
余裕の表情を見せているナカジはちらりとアカネの方を見る。
「無限にいるわけではないから全部処理して燃やしちゃえばいいでしょ」
と、ナカジ同様余裕綽々な様子のアカネはそう言いながら二体のゾンビの頭部を斬り飛ばしていた。
「まあ、無限ではないだろうけどねえ。呼び寄せている原因は言わずもがなだよねえ」
そう言い、ナカジはその原因に視線を送った。
その目線の先にはピアノの旋律が聞こえる鉄筋の二階建て住宅があり、二階の窓は大きく開かれていた。
「あの音のせいでこいつ等が寄ってきているのは言うまでもないわ。全くこのご時世に優雅にピアノを弾く奴がいるなんて……。へたくそじゃないメロディーだから余計にムカつく」
嫌味たっぷりに眉間にしわを寄せながら憂さ晴らしをするかのように流麗に刀を振るいゾンビの首を飛ばしていくアカネ。
「たしかに聞き入っちゃいそうな音だよねえ。生きている人間がいることを知れて嬉しいけれど、ちょっと迷惑を被っているから後で問いたださなきゃだよねえ」
そう言いながらナカジも慣れた手つきでゾンビの頭部を跳ね飛ばしていく。
間合いに入れば吹き飛ぶゾンビの頭部はその数を増やしていった。
しばらくして周囲のゾンビが完全にいなくなり、警戒しつつ毎度のように刀の手入れをしたアカネとナカジは死体の焼却作業を開始した。
その時だった。
「ああっ!待って!」
先ほどのピアノの音は無くなっており、代わりに細い声音の男の声が聞こえた。
その方向にナカジが目をやると先ほどピアノの旋律が聞こえていた窓から黒い高そうなスーツ姿の男が顔を覗かせていた。長髪で無精髭であり、大きな丸眼鏡をつけている。
「まだ燃やさないでくれ!今そこに行くから!」
男は息せく様子でそう言うと窓から姿を消した。
ナカジ達は既に数体の死体を燃やしていたのだが、男のその制止を聞いて取り合えず作業の手を止めた。
「ひょっとしたら訳ありの演奏会だったのかもしれないねえ」
ナカジが宥めるようにアカネの方に顔を向けてそう問いかける。
「どんな理由なのか楽しみね」
不服そうな表情で窓を睨んでいたアカネだが、とりあえず手に持っていたガソリンの入った容器を下ろしてライターをポケットにしまった。
その束の間に先ほどの男が家の正面玄関から出てきた様子が見えた。ナカジとアカネのいる位置から少し距離はあるが玄関の入り口が見えており、男は草履を履いて小走りで二人の元へと駆けてくるのだが、ナカジ達が切り伏せたゾンビの首を見かける度に足を止めて顔を眺め、そして手を合わせるとまた次の首の元へと梯子していく。そんな動作を繰り返しながら二人の元へとゆっくりと近づいていた。
「何しているんだろう? あのゾンビたちとは生前知り合いだったのかしら」
怪訝な顔でそんな様子を見ていたアカネがぽつりとつぶやく。
「そうかもしれないねえ」
「もしそうなら私たちこれから怒られちゃうのかしら」
「どうして?」
ナカジがそうアカネに問う。
「確か、前に厳密には今と違うかもしれないけど、同じようなことがあったじゃない。外に出ていた旦那さんが帰ってこなくて、奥さんを護衛しながら旦那さんを探していた時にゾンビの集団に出くわしてさ、殲滅した後に、その中にゾンビになった旦那さんが混じっていてその首を見つけた奥さんが『どうして私の旦那を斬ったの? まだ助かったかもしれないのに』って烈火の如く叱責されたじゃない」
「そんなこともあったねえ」
腕を組みながら懐かしむナカジ。
「私たちはゾンビになった人間はもう元には戻ることがないと知っているし、寧ろ身を守ったことを感謝されてもいい行いをしたのに、最愛の人を失った人の感情はとても脆くなって本質的な怒りの感情が出てきてしまう。後で冷静になって感謝されることは多いけれど、大切な人を失ったその刹那の感情は往々にして怒りの矛先が当事者に向いてしまうから……」
アカネはそうしみじみと言いながら先ほどの表情とは打って変わって不安げな顔をする。
「人間の感情ってのは複雑だよねえ。こっちが正しいことをしたと思っていても、相手はそうは思っていないことが多すぎる。……アカネは、怒られることが杞憂なのかい」
「当然よ。叱られて嬉しい人間なんていないでしょう? ナカジは怒られて嬉しいの?」
「いいや、俺だって嬉しくないよ」
ナカジは微笑み交じりにそう言い、そして言葉を紡いだ。
「俺は『収集屋』を始めてから誰かの大切な人を何人も殺めてきたし、残された方の怒りの感情はもちろんのこと、喜怒哀楽全ての感情をぶつけられた体験は何度だってある。そうした中で俺は思うようになったんだ。その時、その感情を真っ向から受け止める必要も義理もなくて、ただその感情に寄り添ってあげればいいんだと気が付いたんだよ。さっきアカネが言っていた通り、大抵の人は気持ちが落ち着いて冷静になると少なからず命を救った俺に対して感謝の念を抱くようになることを知っている。だから色んな感情を自分に向けられた時、それを真っ向から受け止めずにその感情に付き合ってあげていると思えば杞憂では無くなっているんだよねえ」
そういいながらナカジはアカネの肩に手をまわして宥める。
「私はナカジみたいにはなれないかもしれない」
「俺みたいになれなくてもいいだよ。アカネなりの考えを自分で探していけばいい。それに今回の彼は怒るとも限らないからねえ。気楽に対応しよう」
「うん」
アカネはナカジの励ましにより顔色が少し明るくなっていた。
そうしてアカネとナカジが駄弁り終える頃、件の男がナカジ達の前へとやってきた。
「このゾンビたち、全て貴方たちが?」
男は驚いた表情を浮かべながら話しかけた男の身に着けているものを見ながらよそよそしくそうナカジ達に聞いてくる。
「そうです。私はナカジです。彼女はアカネ。我々は『収集屋』でして、使えそうな物資をこの付近で集めていたのですがピアノの音に惹かれるようにしてここに来てみたらゾンビの大群に出合したもので、保身の為に全て排除しました」
ナカジは嫌味を入れつつも正確な情報を男に伝えた。
「そうですか……。申し遅れました。僕はハヤシです。あの数をお二人で凌いでしまうとは驚きです」
一瞬、ハヤシと名乗った男は残念そうに唇をぎゅっと結んだあと、それを隠すような笑顔を共にそう言ってきた。
「ゾンビの大群がいることをご存じだったのですか」
ナカジは確認するようにハヤシに問いかけた。
「ええ、もちろん。私の家の窓をご覧下さい。あれはわざと開けてあるのです。冬は別ですが、それ以外の季節ではずっと開いたままにしてあります。お二方もお耳に入ったことでしょうが、ピアノの音をより広域に聞かせる為に、敢えてああして窓を開いておるのです」
「なぜですか? ご自身への危険が高まる行動だと思うのですが」
ナカジがそう聞くが、ハヤシはにこやかに笑いながら答えた。
「それは僕自身も承知のことです。ですが……、どうしても僕のピアノの演奏を聞いていただきたくて」
「ゾンビにですか?」
「ええ。そうです。僕はこういう世界になる以前にピアニストを目指しているしがない音大生でした。小さい頃からピアノを始めていましたが大した才能もなく、コンクールを受けても賞を取ることはついに一度も叶わず仕舞いでしてね……。両親もゾンビになり、生きる希望のなかった僕は最後に思い出としてピアノを弾いた後、窓から飛び降り自殺をしようと思って窓を開けたんです。するとゾンビの群が家の前にできていたんです。そして僕にはそれが僕の演奏を聴きに来たお客さんのように思えて気分が高揚する感覚があったんです。審査員の前での演奏は何度もありましたが、お客さんの前で演奏をしたことがなかった僕はその気持ちに触れて以来、窓を開いてピアノを弾くことが習慣になりました」
そうしてハヤシはナカジ達から視線をそらし、再び周囲の無残に横たわるゾンビの亡骸を見ながら口を開いた。
「彼らはこんな世界の中で僕の生き甲斐のようなものでした。死体であろうと、生きる人間を食らう死霊の軍団でも、僕にとって大事なお客さんだった。だから、感謝の気持ちを持ってさっきは手を合わせていたんです」
そう語った後、ハヤシは紡ぐようにこう言ってきた。
「僕にも遺体を焼く手伝いをさせていただけないでしょうか。無理にとはいいませんが、少しでも彼らと関わりのあった者として供養の気持ちを伝えたいので」
そういうハヤシの提案をしてきたのに対し、ナカジはアカネに対して「どうする?」と目配せをした。
その視線に対し、「いいんじゃない? ただしやるならナカジが面倒を見てよね」とだけ言い、アカネは自身の作業準備をせっせと行うと先ほどの作業の続きを開始していた。
「いいでしょう。それでは俺と一緒に、指示に従って手伝いをお願いします」
と、ナカジはハヤシに伝えた。
「よろしくお願いします」
と、ハヤシはナカジの作業の手伝いを始めた。
しばらくして遺体の焼却作業を全て終えたナカジとアカネは、ハヤシと共に彼の家の前に居た。
焼却作業中にこれからの予定を聞かれたナカジが今日寝泊りするところを探す話をすると、ハヤシが自身の住んでいる場所を貸し出す提案をしてくれていた。
「いいのかい、本当に家にお邪魔しても」
「はい、何もおもてなしはできませんが眠る場所くらいなら提供できます。もうじき夜になりますし、両親が使っていた寝室があるのでそちらを使用していただければ幸いです」
「ありがとう。お言葉に甘えてお邪魔させてもらいます」
「ありがとう。ハヤシさん」
ナカジに続いて、アカネもハヤシにお礼を伝えた。
ハヤシはその返事に頷きを持って返すと、自宅の扉を開けた。そして二人が玄関に入ったことを確認して扉を閉めた後、鍵を厳重にかけた。
室内は主に白を基調とした造りで、鉄筋コンクリートの建物だが家具や入口は和風を取り入れたものが多かった。
玄関で靴を脱いで上がり込んだナカジとアカネは二階へと通された。
部屋の中はベッドが二つあった。そしてクローゼット、大きめのテレビ、小さなテーブルがひとつある立派な寝室だった。
「寝室はここです。トイレと風呂場も別の部屋にありますが機能していないので用を足すときは外でお願いします。食料なんですが乾麺ならあるので……」
そうハヤシが言いかけたところで、
「大丈夫、食糧は自分たちで面倒を見るし、下の世話も心得ているから気にしないでください」
と、ナカジが心配ないと手を振ってみせた。
「すみません」
ハヤシは無念そうな顔を見せ、
「それでは僕はこれで。明日、お二人が旅立つとき、僕は寝ているかもしれないのでそのまま起こさないで行ってください。別れは好きではないので、いつの間にかいなくなってくれている方が嬉しいから」
「そうかい」
ナカジはそれだけ返すと、「それでは」と、ハヤシは寝室から出ていった。
ナカジとアカネはそれぞれ先ず身軽な恰好になり、それぞれが薄着になる。それでもいつでも戦闘が行えるような最低限の装備は常に装備していた。短いナイフを肩のホルダーに携帯し、小銃は常に枕元に置いている。
そうして明日の準備も兼ねつつ鞄から夕食を取り出して食べ始めた頃、ナカジとアカネの耳にピアノの音色が聴こえてきた。
「なんていう曲か知らないけれど、いい音色ね」
アカネがそう言う。そして続けて、
「ピアノを弾いたら危ないってこと本人も自覚しているはずなのになんでやめないんだろう。偶々ここを通ったのが私たちだから良かったけれど、防衛力の無い人たちだったらどうするつもりだったのだろう。ピアノの音に釣られてくるのがゾンビだけとは限らないのに」
「元々自殺を考えていた人が見つけた快楽がピアノを弾いて観客に見立てたゾンビを集めるということなんだからねえ。そこまで考えていて行動できる精神状態にあるとは思えないねえ。それにもう何人かそういう人がいてもおかしくないんじゃないのかい?」
「もう既にこのピアノの音に引き寄せられた生きている人がいて、ゾンビに襲われたかもしれないってこと?」
「そう。無くはないだろうねえ。誰かが生きていると思ってピアノの音色を頼りに近寄ったらゾンビに囲まれてしまった、なんてことはあり得る話じゃないかい」
「そうね。もし仮にそうだとしたらまるで……、ゾンビたちのチョウチンアンコウみたいだよね。ピアノの音色を餌に人間を呼び寄せてゾンビたちの餌を運んできてしまうなんて」
「確かに、チョウチンアンコウみたいだねえ……。あっ」
そう言い、ナカジはハッとした顔をした。
「閃いた。何も集めるのは人間だけじゃなくてゾンビも集めているということなんだから、『葬儀屋』の連中をここら辺に配備しておけば被害が無くて済むよねえ。新人のゾンビ狩りの練習にもなるし、都合がいいんじゃないかい」
「そうね。それは確かにいい案かもしれない」
ナカジとアカネは顔を見合わせた後、にんやりと笑った。
「まあ、本人がどういうかだけれどねえ。これで拒否されれば計画はお釈迦だからねえ」
「交渉、お願いします」
食糧をつまみながらアカネがそう言った。
「うん。行ってくるよ」
ナカジはそう言い、手を振っているアカネを尻目に寝室を出ていった。
寝室を出て少し歩いた二階のリビングの部屋からピアノの音が出ていた。
ナカジはその扉を四度ノックした後、扉を少し開いた。その隙間から見えた部屋の中央に大きな漆黒のグランドピアノが置かれていた。そして奏者であるハヤシは背もたれの無い椅子に座り、その奥には窓から月が顔を覗かせていた。その光のおかげで部屋の中は妙に明るかった。
扉が開いたことに気が付いていない様子のハヤシを他所に、部屋へと入るナカジ。扉に入ってすぐ左手に天井まで届く高さのある横の広い棚が二つあった。どれも音楽関係の書籍のようだった。そしてその扉とは遠い方の棚の中央には家族写真が置かれていた。幼少の頃の家族の集合写真、そして高校卒業に撮ったであろう集合写真もその横に並んでいた。
それを見ていたナカジだが、ふとピアノの音が止んでいることに気が付いてハヤシの方に顔を向けた。
「ナカジさん、いらしていたんですね」
「一応ノックはしたんだけどねえ」
「すみません、気が付かなくて」
「いいや、夢中になっているようだったから、邪魔しちゃ悪いと思って声をかけなかったのが良くなかったかもしれないねえ。すまない」
「とんでもないです。ピアノの音、ひょっとしてうるさかったですか?」
「ああ、いや、苦情を言う為に来たわけではないんだ。綺麗で流麗なピアノの音はとても心地よくて眠るにはちょうど良い音色だったよ」
「それは良かったです」
ハヤシはそう言うと、
「その写真が僕と両親が一緒に写っている最後の写真なんです。僕も両親も最新テクノロジーが好きで写真も現像ではなく、インターネットで保管するようにしていましたから。こういう世界になるとは思ってもいなくて、インターネットが停止している現状でサーバーに保管された写真はもう閲覧できず……。不便な世の中になってしまいました」
残念そうに言葉を紡いでいくハヤシ。それに対し、ナカジも同情するように言葉を返した。
「俺も同じ経験をしています。家族の写真を端末の中にだけ入れていたので、今では取り出すことはもちろんのこと、閲覧することすら叶わない。現像したものを持っていればよかったのだろうけれど、今ではもう記憶の中でしか見ることができない……。難儀な世の中になってしまいましたね」
微笑みながらナカジはハヤシにそう伝えた。それを見たハヤシがふと笑みを作り、「そういえば、何か用があって来られたんですよね?」と、ナカジに尋ねた。
「おっと、そうなんです。実は」
と、ナカジはハヤシに提案の内容を話し始めた。
「ハヤシさんの弾いているピアノの音色を餌にゾンビを引き寄せておいて、その後ゾンビ狩りを生業とする『葬儀屋』の人々により駆逐を行ってもらおうと思うんだ。その許可を貰いに来た」
ハヤシはその言葉を聞いて、考え込むような顔をする。そして唇をきつく結んでいた。
それを見たままナカジは言葉を紡ぎ続ける。
「このままではピアノの音を聞いた生きている人間が生存者であるハヤシさんの助けを求めてここに来た場合、屯しているゾンビの集団に出くわして襲われてしまう可能性が高い。もしくは既に何人かが犠牲になっている可能性もある。だから」
そう言いかけたところで、ハヤシは口を開いた。
「もう既に、何人かが犠牲になっています」
ハヤシはそう言い、ナカジの反応を伺うように怯えた視線を送った。そしてナカジは微笑んで、小さく頷いた。
ハヤシは言葉を紡いだ。
「ピアノを弾いてたぶん一週間が経った頃、叫び声が聞こえました。女の人でした。今でも覚えています。窓から顔を覗かせると茶色のコートを着た黒い髪で、ゾンビに囲まれていました。窓から見下ろす僕を見て、名前も知らない彼女は僕に助けを求めてきましたが、それも束の間の事で彼女はすぐにゾンビの群に押しつぶされていく様を眺めることしかできませんでした。それからも、ひとり、またひとりとピアノの音に釣られて犠牲になる人は十人を超えるでしょう。次第に僕は声が聞こえても気にせずに無視をするようになりました。どうせ結果は同じで、みんなゾンビの餌になるだけだろうと思ったので……。ところがナカジさんとアカネさんがゾンビたちを一掃してしまった。僕は正直驚きました。世の中にはこんなに強い人たちがいるなんて思いもしなかった。僕は生きることを半ば諦めていたんです。どうせゾンビの巣食うこの世界に人間が太刀打ちできるはずがないと……。本当はさっき、遺体の顔を見て手を合わせていたのは謝りたかったからなんです。僕が彼らを助けられなかった無念さを……」
そう言い、ハヤシは力強い目でナカジを見た。
「僕が力になれるなら喜んで協力します。なんだってします」
その力強い視線を受けて胸が熱くなったナカジは感情を抑えながら、協力者を求める側としての言葉を伝えた。
「協力感謝します。よろしくお願いします、ハヤシさん」
そしてナカジは具体的な案をハヤシに提示した。
「今度ここにゾンビ狩りのプロ集団の『葬儀屋』の人間が来ることになり、そこで具体的な作戦を聞かされると思う。それに関係なく、ハヤシさんはピアノを思う存分弾いてくれればいい。細かいことは全て『葬儀屋』の連中がやってくれる。もし、不満な点があれば俺の名前を出してくれればいい。融通が利くから、よしなに取り計らってもらえるはずだからねえ」
「はい。……今度から僕のピアノに惹かれてくる人はみんな救われるんでしょうか」
「全てとは限らないと思うよ。ゾンビとの遭遇の仕方が悪いと助けられない場合があるからねえ。それでも、助けられる人が出てくることは確実だろうねえ」
そう言い、腕を組みながら月の光をナカジは見ていた。
「ゼロじゃないだけマシですね」
ハヤシはそう言い、ナカジの視線を追って自身の背後で光っていた月の光を見た。
そしてハヤシはピアノに向き直ると演奏を再開した。
「なんていう曲なんですか?」
ナカジがハヤシに聞いた。
「月の光、という曲です」
「いい曲だ」
ナカジはそれだけ言い、少ししてからハヤシの部屋から出ていった。
寝室に戻るとアカネは既に眠りについていた。明日の準備がしっかりと終わっており、ナカジの身支度まで済ませられている状態だった。
「ありがとう。おやすみ」
と、アカネを起こさない程度の声音でナカジはつぶやいた。
翌朝、ナカジとアカネは起床後に軽い準備体操を終え、軽い食事を済ました後、荷物を背負って寝室を出た。そしてナカジは再び昨夜訪れた部屋へ行くと、ハヤシはピアノに突っ伏して眠っていた。
「寝てるの?」
と、背後に居るアカネが確認してくる。
「ぐっすり寝ているねえ」
そのナカジの返事に、「起こさないの?」と聞いてくる。
「昨日、俺が眠るまでピアノの曲が聞こえていたからねえ。いつまで弾き語っていたかわからないけれど、寝かせてあげよう。それが彼の生活リズムなのかもしれないからね」
「そう」
と、アカネは言い、続けて、
「それじゃ、行きましょう」
と、すたすたと一階へ降りていった。
ナカジはポケットに仕舞っていた朝食に食べようと思っていた魚の缶詰を取り出し、ハヤシの眠る部屋へと入っていく。そして、それをグランドピアノの一角に置いた。
缶詰の一部には朝こっそりナカジが書いた、「ナカジより」のメッセージが添えてある。
「口に合わないかもしれないけれど、お礼として置いていくよ」
ナカジはそう呟いた。
それからナカジはハヤシの寝顔を見て、彼の部屋を後にした。