窓ガラス
黒雲から降り注ぐ雨粒の激しさが収まりつつあった。
太い市道に沿って民家が立ち並び、乗り捨てられた車の側には白骨化した死体が無数にあり凄惨な風景が広がっている。
中央分離帯を挟んで片側二車線になっている道路を歩く武装したナカジとアカネは横に並び、路面に散らばる骨を踏まないように避けつつ歩みを進めていたが、地面に倒れ伏せていた性別のわからない殆ど白骨化した死体が起き上がってくる様子を見てアカネは腰に帯びている刀をゆっくりと抜いた。
アカネはナカジよりも少し速足になると迫ってくるゾンビとの間合いを詰め刀を両手で構えると脳天目掛けて刀身を振り下ろした。ゾンビの頭は二つに割れ、肩甲骨まで刀身がめり込んでいる。アカネはそれを悠々と引き抜いてゾンビが地面に倒れ伏せる様子を見送った。
「酷い臭い」
地面に崩れ落ちる屍を尻目にアカネはそう吐き捨てる。
「ここら辺は自衛をするにはあまりにも貧相な土地だったからねえ。初期の混乱でわけもわからずに食われた人が多い場所だろうから、この人もその被害者だろうねえ」
「あまりゾンビを見かけないのは腐りきって白骨化したことが原因なのかな」
アカネはそう言いながら刀身に付いた血を振り落とし、布で刀身についた血を丁寧に拭き取り始めていた。
「いや、どうだろうねえ。ゾンビになった奴らは何故か白骨化することなく新鮮な肉を求めて彷徨い歩き続けているんだよねえ。学者曰く『ゾンビは人間としては魂が抜けて屍となっているが生物としては生きている』らしいんだよねえ。だから皮膚が腐り朽ちていかないんだと聞いているよ。白骨化が進んでいるのは単純に食われすぎた結果、骨が見えた状態のゾンビっていうだけなんだろうねえ」
アカネの横に並んだナカジがそう語る。
「へえ、荒廃したこんな世界にも学者っているんだね」
「あぁ、そうか。アカネはまだ会ったことがなかったんだねえ」
「うん。まだ会ったことないね。どこの拠点にいるの?」
「海沿いの拠点さ。ここから二百キロ程のところにあるからすぐにはいけないけどねえ」
「ふぅん。学者ってことは研究所でもあるの?」
「あるよ。立派な施設というわけではないけれど、ゾンビの研究をしている場所だねえ。今年中に行くつもりだから楽しみにしてておくれよ」
「不手際でゾンビに噛まれて大変なことになっていないといいけれどね」
「まあ大丈夫だろうさ。あそこは収集屋の拠点にもなっている場所だからねえ。万が一が無いとはいえないけれどねえ」
ナカジはそう言い終わると周囲を見渡す。年月の経った民家は玄関が開いた家や窓ガラスが割れている家など所々騒乱の傷跡が見えている。そして空の雨雲を見上げて口を開いた。
「今日の宿を探そうかねえ。もう一雨振りそうだ」
「そうだね。温かい毛布とふかふかのベッドがあれば嬉しいな」
アカネは切実そうにそう言う。
「最近は雑魚寝だったからねえ」
ナカジは自身の背中をさすりながらそう言った。
そうしてナカジとアカネは近場の家を探索しながら宿を探し始めた。
鍵のかかった家はガムテープを窓ガラスに張り付けて音を立てずに割り、中に侵入して物資を頂戴する。鍵のかかっていない家は正面から堂々と入っていく。もちろん中にゾンビがいる危険性がある為、細心の注意を払って家の中を物色することになる。
そうしていると、とある一軒家の前で学生服を着た男らしき人物が突っ立っている姿をナカジが見つけた。そして肩にかけてあった狙撃銃のスコープで男が生きた人間かどうか確認を試みた。
そしてその男が人間であることを確認したナカジはアカネと共にその男に近付いていく。
ナカジとアカネの足音に気が付いたその男はその音の方へと顔を向けた。そしてぎょっとした顔をする。
「どうも、ごきげんよう」
ナカジがそう言う。
男は顎に短い無精ひげを蓄えていて、眼鏡をかけた背の低い真面目そうな男だった。
そんな彼はナカジの顔よりもその背後にある武器やアカネの姿を交互に視線が移っており、怯えている様子だった。
「そんなに身構えなくても大丈夫ですよ。俺たちは貴方を取って食おうとか、暴行をしようなんて考えちゃいないからねえ」
「そう、ですか……。すみません、僕はてっきり襲われるのかと……」
男はそう言い、軽く頭を下げてきた。
「まあこういう恰好をしているとそう思われても不思議はないよねえ。紛らわしくて申し訳ない」
ナカジもそう言い、男と同じように頭を下げた。それから続けて、「俺はナカジと言う。彼女は恋人のアカネだ」と自己紹介をした。
「よろしくね」
アカネは男にそう短く言うと、男も短く「はい、よろしく」と言った。
「僕はカナミと言います」
カナミと名乗る男は目を伏せたままそう言う。怯えているというより哀愁のある様子だった。
「カナミさんはどうしてここに?」
「ええと、そうですね」
カナミはそう言いつつ、先ほどまで向けていた視線の先へと顔を向ける。
「ここは僕の幼馴染とそのご家族が住んでいた家でして、僕は時折こうして彼女の様子を見に来ているんです」
カナミがそう言い終わる頃にはナカジとアカネもその家の方へと視線を向けていた。その家の窓ガラス越しには少女だった面影のある学生服を着たゾンビが窓ガラスに張り付いてこちらをじろりと睨んでいる。
「あの子が君の幼馴染かい」
ナカジは確認するようにそう尋ねた。
「ええ、そうです。今は醜女のような姿になっていますがとても美しく可憐な女の子だったんです。年も同じで、学校の男子からは人気でしたね」
そう言い、カナミは胸元から写真を取り出すと、それをナカジの前に差し出した。それにはカナミと女の子が一緒に写っている。カナミは少し不機嫌そうな顔をしていて、女の子は微笑んだ笑顔で肩を組んでいる姿が記録されていた。
ナカジはそれを受け取ると、「たしかに。クラスのマドンナって感じだねえ」と言い、それを覗き見るアカネも「そんな感じだね」と同意していた。
「パンデミックが起こったのは夕方頃でしたし、学校からの帰路の途中に彼女は噛まれてしまったのでしょう。右腕に歯形の付いた傷があるのが見えるのであくまでも推測の範疇を超えませんが、きっとそうなのだろうと思っています」
カナミがそう言い、ナカジとアカネは窓ガラスに張り付く女の子の腕をまじまじとみた。そこには確かに感染者特有の噛まれた後がくっきりとあった。
「間違いないねえ。あの子は噛まれた故に感染してゾンビになってしまったのだろうねえ。しかし、カナミくんは彼女と一緒に帰っていなかったのかい?」
「……はい。僕は部活があってまだ学校にいました。彼女も文芸部に入っていて一緒に帰ることも多いのですが、その日は彼女の部活が休みで先に帰っていたみたいなんです。異変があった時、僕は学校の屋上へ避難して何とか難を逃れたので今こうしてここにいます。最後に携帯に来たメッセージは『怖い、助けて。今すぐ会いたい』でした。僕は必死にメッセージで励ます言葉を送るしか手立てはありませんでした。電源が切れてしまい、電気の供給のない今となってはそのメッセージを見ることはできないけれど、ハッキリと覚えています」
カナミはそう言いながら拳を強く握りしめていた。それに気が付いたナカジがその拳を手に取り、預かっていた写真を手渡した。
「無念さは痛い程わかるよ。力になれなかった無力感は拭おうとしても拭えるものじゃないからねえ。だからと言って向き合わないわけにはいかないから、こうして覆せなかった過去の自分を諫める為にここに来ているんだろうと思うがここにひとりで来るのは少々危険じゃないかい。見たところ武器も持っていないようだからねえ」
写真を受け取り、それに写る女の子を少し見つめたカナミはそれを再び胸元に仕舞いながら言葉を紡いでいく。
「僕は様子を見る為と言いましたが、厳密には彼女の……アヤの姿を見に来ているのです。心のどこかで、あの姿であっても本当は生きているのではないかと夢を持っているのは否定できません。ご両親も仕事中だった為に家にはきっとアヤはひとりだったはずです。たぶん心細い思いをしたままこの世を去ったと思うと可哀そうで、僕にメッセージを送ってきたときに側に居られなかった罪悪感を払拭するために、だからこうして会いに来ているんです」
そう言うカナミの横顔は朗らかで、そしてどこか悲しそうに目を伏せる様子は相変わらずだった。
「僕は……、アヤの事が好きでした。この想いをアヤに伝えたことがないから、本人が知っていたかどうかはわかりませんが、察しの良い奴だったからバレていたかもしれないけれど、好意の答えを知れないと余計にもどかしい気持ちになりますね。まあ、だからせめて、僕はこうしてアヤの側に居続けてあげたいと思うんです」
「そうかい。でも、くれぐれも気を付けるんだよ。ゾンビはまだたくさんいる。徘徊もしている。自分を守るための武器をひとつでもいいから持っていてほしいと願うのが俺の思いだ」
ナカジが説得するようにそういうと、
「彼女をずっと見守るためにも、必ずナカジの言うことを実行してね」
と、アカネもそれを強調するようにそう言った。
カナミは微笑みを見せながら、「はい」と短く答えた。
「どこかの拠点にはお世話になっているのかい」
「はい。一応この近くの拠点にお世話になっています」
「それなら憂いはないねえ。俺たちはそろそろ行くとするかねえ」
ナカジはそう言い、アカネをちらりと見やる。アカネもそれに同意するように小さく小首を縦に振る。
「どこかへ行かれるのですか?」
カナミがナカジにそう尋ねる。
「今日の宿を探しているのさ。俺たちのような旅人は人様の建てた家に不法侵入して寝床を借りているからねえ」
「それでしたら、この先の十字路を右に曲がった紅い外壁の家はどうですか。僕が最近寝床に使っていたので家の鍵は開いています」
「それは助かるねえ。でも、君はいいのかい。君もそこを使うのだろう?」
「いえ、僕はもうその場所を使うことはないので大丈夫です。別の気に入った場所がありますから」
カナミは朗らかな笑みと共にそう言った。
「そうかい。それでは、達者でな」
「さようなら、カナミさん」
ナカジとアカネは別れの挨拶をして歩き出す。
「話を聞いていただいてありがとうございました。さようなら、ナカジさん、アカネさん」
背後にその言葉を受けながらナカジとアカネはその場を後にする。
カナミから案内された道を行くナカジとアカネ。説明通りに道を歩き、やがて目的地の家へと辿り着いた。
その家は確かに外壁が赤く、レンガ調の欧風な家だった。玄関の鍵は開いており、家の中は誰かが生活をしていた形跡があった。
そこで眠ることを決めたナカジとアカネは家の戸締りを確認し、ゾンビがいないことを確認してから寛ぐ体制を整え始めた。集めた物資の中から食事を用意し、それを嗜みつつアカネはふと疑問に思うことを口にした。
「カナミさん、きっと死ぬ覚悟をしていたと思う」
「なんでそう思うんだい」
「目が笑っていなかったから。覚悟を決めた人はいつだってああいう瞳をしている」
「死ぬ覚悟と言っても、話を聞いている限りだとずっとアヤさんの側にいると言って……、あっ、まさかねえ……」
ナカジは何かを思いついたように目を大きく見開く。それを補足するように、アカネが言葉を紡ぐ。
「その側にいるって言葉の意味が、自分もゾンビになって側にいるって意味なのかもしれないね」
アカネのその言葉を最後に、ナカジはしばらく考え込むようにして目を瞑る。アカネはまだ食べていた食事を静かに口へと運んでいく。そうしてしばらくの静寂が流れた後、ナカジは口を開いた。
「明日、もう一度見に行くとするかねえ」
「そうだね」
意見の合致したふたりはそれからしばらくゆっくりと談話をした後、寝室のある部屋へと移動し休息を取った。翌朝、しっかりと寛いだナカジとアカネは装備を整え、カナミの様子を確認した後の予定を確認してから欧風調の家を出た。天候は昨日と相変わらずの曇天だった。
前日同様の雨で濡れた道を戻りながら歩き、再びアヤの家が視界に入ってきたがその家の前にはカナミの姿はない。
「カナミさん、いないね」
「家の前にはいないねえ。だが家の中はどうだろうねえ」
そう言いつつ、アヤの家の前にやってきたナカジとアカネが目にしたものは二人の顔を曇らせるものだった。
窓ガラスにはアヤの姿があり、そしてその横にはゾンビと化してしまったカナミの姿があった。カナミの首元にはくっきりとした噛みつかれた跡があり、血が流れている様子は生々しさを際立たせている。
「家の鍵、開いていたんだね」
アカネが口を開いてそう言う。
それに釣られてナカジは家の玄関へと視線を移すと、玄関には紙のような何かが画鋲で貼られていた。
ナカジはそれを確認する為に敷地に入り、玄関の前まで歩いていく。そしてそれを確認すると、昨日カナミから手渡された写真だった。そしてそれには文字が小さく書かれていた。
『もう君をひとりにはしないよ』
それを見たナカジは小さく呼吸を漏らした。
「それが君の答えかい。……まあ、悪くはないねえ」
ナカジはそう言い、鞄を下ろして中からガムテープを引っ張り出すと、その写真が剥がれないようにしっかりと張り付けた。
そして自身の元に戻ったナカジに対し、アカネが「なんだったの?」と聞いた。
「あれは昨日俺たちがカナミくんから見せてもらった写真で、それには『もう君をひとりにはしない』と書いてあった。彼は彼なりに答えを出したんだろうねえ」
ナカジの答えを聞いたアカネは歯を食いしばると少し間を置いて
「そう」
とだけ短く答えた。
「俺としてはこのままの姿でいさせることは酷なことだと思うから本来なら始末して遺体を焼いていきたいと思ってしまう。だが、まあ、このままでいさせてあげたいという気持ちもあるんだよねえ」
「このままでいさせてあげましょう。この状態のままで誰かに危害を加えるとは思えないから」
「じゃあそうしよう。後は『葬儀屋』の例中に見つからないことを祈るしかないねえ」
「そうね」
そう言い、アカネはその場を去る為に歩き出す。
ナカジは再びカナミとアヤの方へと顔を向ける。
「二人とも、あまりうるさくするんじゃないよ」
そう独白するように言い、ナカジは先を行くアカネの背中を追いかけていく。