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昔の思い出 後編


巨大な青銅製の格子状の校門がどっしりと聳え立っていた。視界の左右に石の壁がずっと先まで伸びており、一寸の隙間も無くぎっしりと敷き詰められていた。


立派な門構えの真ん中に色褪せ錆びている金の銘板に『西高等学校』と刻まれている。門の隙間から見えている巨大な校舎は荘厳な雰囲気のある高等学校だった。門の裏には閂がされていてその側には自動小銃を持つ武装した見張りの恰幅の良い男が左右にひとりずついた。


「早く開けて!」


アカネが剣幕な様子で左側の顎髭を蓄えた門番の怒鳴っている。ふたりの門番はそう言われるまでもなくアカネの姿を見ると急いで閂を抜こうとしていた。


それから少ししてアカネを追ってきたナカジが現場に合流してきた。ナカジの後ろから男女数体のゾンビが追いかけてきていたが、刀を抜いたナカジが危なげなく流麗な剣術でゾンビの急所である頭部を難なく切り落としていくと、周囲のゾンビは瞬く間に一掃された。


いつも通り胴着のポケットから布を取り出し刀を綺麗に拭きながら悠々とアカネの側に並ぶ頃、ようやく門は鈍い音を立てながら開かれた。


「待て、アカネ」


僅かに開かれた門の隙間を縫ってきそきそと中へ入ろうとするアカネをナカジは抑制する為に強い声音で呼びかけた。


「なに?」


そのナカジの声音にアカネはぴたりとその場に止まり、それが癇に障ったのかアカネはナカジを睨むと低い声音でその理由を問いかけた。


「さっき見た屋上の子はもう大丈夫だ。アカネが飛び出した時にちょうど柵をよじ登って建物の中へ入っていったからねえ」


「えっ、そうなの」


焦る理由を失ったからか、熱の抜けた声でアカネは拍子抜けした顔をしながらそう言う。それから、「よかった……。あの、さっきは怒鳴ってごめんなさいね」と安堵の息を吐いた後、アカネは先ほど作業を急かした門番に小さくぺこりと頭を下げた。


「いえ、私の方こそアカネさんやナカジさんの援護もできずノロノロと作業をして申し訳ありませんでした。それに何か急ぎの様でしたが……」


「あぁ、それはもう大丈夫みたい。それにしてもお久しぶりね、ヒロさん。それにナオトさんも」


「お久しぶりです。アカネさんとナカジさん、相変わらずお元気な様で安心しました」


立派な顎髭のあるヒロが会釈しながらそう言った。


この頃にはナカジとアカネが二人で横に並んでも悠々と門を通れる隙間が十分にできていた。アカネが先に中へ入り、それからナカジも刀を抜いたまま敷地の中へと足を踏み入れた。


もうひとりの門番である坊主頭のナオトはそれを確認するとすぐさま正門を閉め始めた。ナオトは自身に与えられた門番の仕事を淡々とこなしており、それを見ていたナカジが口を開く。


「そっちも相変わらずみたいだねえ。みんなは元気かい」


ナカジはその様子を尻目に見つつ、汚れた刀の手入れをしながらヒロに近況を聞いた。


「ええ、元気でやっていますよ。無事に田畑を育むことができていますし、家畜も安定して繁殖できています。それに人手も増えて小さな村程度の活気にはなってきました」


ヒロはそう言うが、顔には曇った表情が浮かんでいた。


「ただ、何か困りごとがあるって感じだねえ」


刀を鞘に仕舞うナカジがヒロの表情の理由を尋ねる。


「ええ、ご明察通りでして、何事も上手く行っているのですが生産が追い付かず消費の方が数字的に上回っている状態なんです。物資を調達しようにも最近になってどこからともなく死人の数が増えていて外へ行こうにも危険があるから……、私たちはやきもきしていたところなのです」


「なるほどねえ。人が増えるのは嬉しいことなんだけどねえ。リーダーはなんて言っていんだい?」


「ハセベさんはこれについて、危険を冒してでも周囲のスーパーや店で物資を調達する他ないだろうと言っていました。それと技術職の専門家がいればインフラや建築などこれからの生活面の整備を整えたいとも言っていました。その辺の知識は流石大学教授なだけあって博識なようで、詳しくは私にはわかりませんでしたが」


「わかった。詳しくは直接彼の口から聞くことにしよう。それじゃあ俺たちはここで……、おおっと、その前にふたりに良いものあげるよ」


何かを思い出したかのようにナカジはそう言った。そしてナカジは背中に背負っている巨大なリュックを下すと、中から永細い長方形の紙製の箱を二つ取り出した。


「おお、これは煙草じゃないですか。今では希少過ぎて高価な物々交換の品物として使われるくらいなのに」


「旅をしているとよく見かけるから俺はそこまで貴重な品とは思えないんだけどねえ。これはお土産として持ってきていたけど、中へもっていくと取り合いになるかもしれないから門番として頑張ってるふたりに上げるよ。監視ってのは気が張って疲れるもんだからねえ、それでも嗜んで気分を紛らわせてほしいねえ」


「貴重なものをありがとうございます。楽しみます」


というヒロの感謝に被せるように、「ありがとう」とナオトの小さくどもった声が聞こえた。


ナカジは床に下ろしていた鞄を担ぎ直し、暇そうに突っ立っているアカネに視線を向けると小さく頷いた。


「それじゃあ、行くかねえ」


そのナカジの合図で二人は歩きだしその場を後にした。


西高等学校の中は広かった。門のその先には四階建ての校舎へまっすぐ続く長い石畳があり、距離は五町程ある。ナカジとアカネはその上を歩いている。左方には家畜の飼育をする小屋の設備があり、鶏、豚や牛という動物の鳴き声が聞こえてくる。元々運動場だったそこはサッカーゴールや野球の投手が上るマウンドの土手があった。右方は畑仕事をメインとした施設があり、老若男女で作業を行っている様子が見える。


ナカジとアカネの姿に気が付いたひとりの農作業中の人が手を振った。その行動は周囲の畑仕事をしていた他の人々に伝染していき、みんな手を止めて手を振り始める始末だった。アカネとナカジのふたりはそんな光景を見て小恥ずかしそうに微笑みながら手を振り返した。そんなことをしていると、農作業中の一人だった小太りの男が速度の遅い小走りでふたりの元へと駆け寄ってきた。


呼吸を荒げながらナカジをアカネのもとへとやってきた男はその場で膝に手を置きながら、


「いやはや、ずいぶんといいタイミングでお越しなさった」


と、ぜいぜいと喉を鳴らしながら言葉を絞り出した。


「ハセベさん、大丈夫?」


そんな様子を見て苦笑を浮かべるアカネが心配そうにそう尋ねると、ハセベと言われた男が苦悶の表情を浮かべながら右手を軽くあげて手のひらをアカネに見せてきた。


「すまない。少し息を整えさせてくれ……。まったく、加齢の煽りには敵わんな」


「走るからだよ。声をかけてくれればいいのに」


アカネがそう言い、間もなくして、ハセベは顔をあげるて「ふう」と一呼吸した。


「確かにそうなんだが、君たちを見かけて気持ちが高ぶったせいで少年だった頃のように駆け出してしまった。思えば私は昔から情動的な気性でね……、ともかく、見苦しいところを見せてしまったな」


「あまり無理はしないでくださいね、ハセベさん」


ナカジが労りの視線を送りながらハセベに向かって手を差し出す。


「無理でもしなけりゃいけないのが今の状況でしょうよ。久しぶりですね、ナカジさん。それにアカネくんも」


差し伸べられたナカジの手をハセベはしっかりと握る。


彼は白髪交じりの頭髪は長く後頭部で髪を束ねていた。畑作業用の青いツナギを着ている彼の恰幅はふくよかであり、お腹が餅のように膨れていた。


優しそうな面持ちのハセベの二重顎を見つめるナカジが口を開いた。


「ハセベさん、しばらく見ないうちに少し痩せましたね。ちゃんと食べていますか?」


「食べています。……と胸を、いや、腹を張って言いたいところですが生憎食い扶持が増えまして、満足がいく程食べてはいないのが現状です」


にんまりとした笑顔でそう言うハセベ。


「どれくらい人口が増えたの?」


アカネがハセベに質問をした。


「最後にアカネくんやナカジさんがここを発ってから約五十人ほど増えました」


「わあ、そんなに増えたんだ」


アカネはその答えに驚嘆した。


その言葉を紡ぐように、ハセベは話を続ける。


「私も驚いています。もちろん人が増えるというのは嬉しいですが、問題もそれだけ出てくるのだと思い知らされている次第です。さて、お疲れのところ立ち話では難儀でしょう。中へ入って座りながら詳しい話をしましょう」


「そうしよう」


軽く頷いたナカジを見たハセベは校舎の方へと顔を向け、そのまますたすたと歩いていく。その後ろ姿は年季を感じさせる弱々しいものだった。


ハセベの後ろについていくナカジとアカネ。道中左右の作業の様子をナカジは観察しており、アカネは作業中の人々から振られた歓迎の手を振り返していた。


校舎の中はひんやりとしていて静寂だった。下駄箱の中には靴はなく農作業に使う道具やその他の生活用品の保管庫として機能していた。校内の廊下を土足で進む。パンデミックが発生して以降、いつでも危機から脱する為にいちいち靴を脱ぎ履きする文化は壊滅したに等しい為殆どの生活様式の中で土足の文化が確立されている。


アカネとナカジはしばらくハセベの後ろをついていくと、やがて会議室というプレートが書かれた札のようなものがぶら下がるドアの前で案内人が立ち止まり、自分たちも足を止めた。躊躇いなくその扉を横に開き、ハセベが先に入っていく。そしてナカジを先頭にアカネもその部屋へ入室した。


部屋の中には学校椅子が無造作に整列感なく置かれている。ただどの椅子も黒板が正面になるような位置に置かれている。ハセベはその中の一つに腰を下ろし、その近くにナカジとアカネはそれぞれ銃や刀、鞄と言った身に着ける装備を下ろした後で椅子に座った。


「なんだか懐かしいね、学校の椅子って」


「久しぶりに座った大人になった皆さんはそう言われますね。かくいう私もその一人でしたが」


ハセベはそういって短く照れくさそうに笑った。


その一方で、ナカジは黒板に書かれている文字に注目していた。


「ハセベさん。黒板に書かれているのって今抱えている問題ですかい?」


「ええ。その通りです」


黒板には白のチョークで大きく課題と書かれた題目の下に細々とした問題点の一覧があった。その中には食料事情、人材の育成、敷地の改造、共存の際の決まり事、今後のことについての不安などが挙げられていた。


ナカジに顔を向けたハセベは口を開き、言葉を紡ぎ始める。


「我々は今混沌とした時代の真っただ中にいます。外では地獄のような光景が広がり、安寧を求めた人々が寄り添い共存し合う安全な場所を提供したいと考えています。ところが生きていく上で必要なこともまた多く、特に食料の事情というのは見過ごすことのできない第一の課題となっています。それに次いで問題となってくるのは、どのようにして食料を配布するか。働かざるもの食うべからずという言葉があるように、怪我や精神面で問題を抱える人々への食糧を配布する際の周囲の働き手の懐疑的な視線はやはり皆が満足がいく食事を行えていないことに由来するものでしょう。人員の増加が加速する以前は皆が助け合う素晴らしい日々でしたが、食い扶持が減ることや自分が苦難に立たされると不平や不満を覚えてしまう人間の性というのはどうも脆くできているようです」


さっきまで明るく振舞っていたハセベだったが真面目な話のせいか、今は心なしか曇った表情をしている。


「食料……、それが今のここの問題点ってわけだねえ」


腕を組み、目を閉じたナカジがしみじみと言う。


「ええ。現在では軍や政府、それどころか日本国憲法すら意味をなさないような状況ですが、幸い皆法治国家だった頃の名残で物事の分別を行ってくれています。噂では人肉を貪る理性のタガが外れた危険な集団や、ヤクザ紛いの暴力的な集団もいるようですが、そうはなりたくないものです」


「それはきっと大丈夫だと思うよ。ハセベさんがこの場所を治めている限り、きっと人々の模範になるようないい集団になる。ここだけじゃなくて、ほかの拠点でもきっとね。良い人がいれば悪い人もいる」


「大学の教授という一教員に過ぎなかった私に、人々の長を務めるという任は大役ですがナカジさんに救われたこの命はそれを全うする為にあったのだと最近思うことにしています。期待に応えられるように尽力しましょう」


「皆そうやって誰かを支えながら生きていくしかないんだよねえ。現に俺は今ハセベさんがしっかりとこの場所を管理しているおかげで安心してここで休める訳だからねえ。もちろん俺もハセベさんを支えるよ。とりあえず、食糧事情を解決する為の話をしようかねえ」


「それは『収集屋』としてですか?」


「もちろん。俺たちのような『収集屋』が安全地帯のこの校舎の中で出来ることは少ないからねえ。外で物資を探して解決する方が手っ取り早いだろうからねえ」


「それでは先ず」


と、ハセベが提案を出そうとしたその時、先ほど入ってきた入口の扉が開いた。


そこにはか細い体躯で長い黒髪が印象的な少女が立っており、ナカジとアカネ、そしてハセベも彼女に注目した。


ほんの少しの沈黙があり、それから少女は少し赤面すると、


「あっ……、ごめんなさい。お邪魔しました」


とだけ言い残し、再び扉を閉めた。扉の向こうからどこかへ駆けていく音が聞こえていた。


「あれ、さっきの子はたしか」


ナカジが思案顔で言うと、


「おや、ご存じでしたか」


ハセベがそう言う。


「いや、対面したのは初めてだよ。ここへ来る少し前、ふと屋上を見るとそこに女の子がいたのが見えてねえ。それが今の扉を開けた女の子にそっくりだったんだよねえ」


「なるほど。恐らくですが、ナカジさんが屋上で見たという女の子は今の子で合っていると思います。あの子はつい最近ここに来た子でして、定住して以来起きている時間の大半を屋上で過ごしているようなのです」


「それまたどうしてだい?」


ナカジが尋ねた。


「私も人伝に聞いて詳しい理由はわかりませんが、気晴らしになっているのかもしれません。……なんでも、両親が目の前でゾンビに襲われて亡くなったようでして、私が初めて会った時は心を閉ざして精神的にも参っている様子でした。最近の彼女の振る舞いを見ていると少し元気を取り戻したようで、時折ここへやってきて黒板に書かれた問題のある時事的なネタを確認のために訪れるようです。まあ、新聞代わりというか、情報というものは興味を掻き立てられるエンタメ性があるようですね」


「なるほどねえ。他の安全地帯でもそうだったが子供を逃がして自身を犠牲にする親御さんがいる例は多いからねえ。それ故に孤児の数も多いし、何より年端もいかない子供たちは逃げ遂せる前に食われてしまう場合も多い。ああいう思春期頃の子供の方が生存率は比較的に高くなっている気がするねえ」


「他の所でもそうでしたか……。幸いか否か、所帯を持たず子供はおろか親族のいない天涯孤独だった身の私はそういう親しい者を失う苦しみはありませんが、ここへ逃げてきた子供たちの心の痛みが理解できる大人の一人として親身に接してあげるべきでしょうね。それとも、メンタルケアを生業としていた人がここへ来て助言してくれると心強いのですがね」


悲痛な面持ちでハセベはそう語る。


「湿っぽい話は尽きません。課題は山のようにありますが、先ずは」


と、ハセベは話題を再開しようとした矢先、


「ねえ、あの子を追いかけて行ってもいい?」


と、アカネがナカジに聞いた。


「構わないよ。行っておいでよ」


ナカジは間を置くことなくすぐさま返答した。


「ありがとう。ハセベさん、話を遮ってごめんね」


立ち上がったアカネは小さくハセベに向かって頭を下げた。


「お構いなく。あの子のこと、よろしくお願いします」


ハセベもそれに返すように、小さく頭を下げた。


アカネは自身の装備を置いたままそそくさと出口へ向かい、会議室を出て行った。


「さて……、それでは」


とアカネの後ろ姿を見送ったハセベはいよいよ始まる本題に備えてゴホンと喉を鳴らした。



ナカジとハセベが会議室で談議をしている頃、アカネは先ほど会議室の部屋をすぐに去った女の子を探して学校の中を歩き回っていた。


最初は一階の部屋をくまなく見回していたアカネだが、こまめに全室を探していてはキリがないことに気がついて女の子の行方の情報を探るため、一階にある給食調理室に来て人伝に所在を探ろうとした。


アカネは入室のために扉を数回ノックして扉を開けた。調理室の中にはこの拠点にいる全員の食事の準備に追われるせわしなく動く作業員が四人いた。高齢だと思わせる女性が二人、若い女性が一人、そして中年の男性が一人いた。


「あれ、アカネさん。こんな場所へ何の用ですか」


扉が開いた音に最初に気が付いた若い女性がアカネに近付いてきて声をかけた。


「忙しいところをごめんなさい。人を探していて、ちょっとだけ時間を貸してもらってもいいですか?」


アカネはこちらへ近寄ってきている若い女性にそう聞いた。


「ええ、大丈夫ですよ」


「ありがとう。単刀直入だけれど、いつも屋上にいる女の子のことをご存知ですか? 今どこにいるのか探していまして……」


「ああ、それはきっとリンちゃんのことね」


顎に手を当て少し考えた素振りをした若い給仕の女性は推察を終えて導き出した答えを述べた。そして若い女性は誇らしげにそう言った。


「ご存じなのですか」


「ええ、まあね。こんな世界になっちゃう前の話だけれど、あの子私の家の近所に住んでいたからね。最初は気が付かなかったけれど、ハセベさんに言われて食事を届けに行ったら彼女だったの。ご両親を亡くしたことが余程ショックだったからなのか、リンちゃんはここに来てからずっと屋上にいるから食事をする時間になってもご飯を取りに来ないから私がいつも屋上へ持っていってご飯を渡してあげる係になっているのよ。最近はたまに屋上から降りてきて校内を回っていることもあるみたいだけど、殆ど屋上にいるから今もきっと屋上にいると思うわ」


若い女性はそうぼやきつつも声音は平穏で優しく、節々に思いやりを感じる語り方だった。


「そうなのですね。ありがとうございます。屋上へ行ってみます」


説明を受けたアカネはペコリと小さく頭をさげてその場を後にしようとしたが、


「あ、そうだ。ちょっと待ってちょうだい」


そう言って若い女性はその場から離れ、調理場の奥へと姿を消した。それから少しして若い女性が手に食器を乗せたお盆を抱えてアカネの元へと戻ってきた。食器ひとつひとつに清潔さを保つためにラップがかけられていた。現在では生産されることのないラップフィルムだが在庫が実は多い。毎度調達に赴く『収集屋』の中でラップフィルムはありふれた収集品のひとつであり貴重性はそれ程高くない。その為ラップは惜しみなく使われている。


「お待たせしました。これを屋上にいるリンちゃんへ持っていってほしいの。ちょうどお昼になりそうだったから」


「これを彼女に届けるのですか?」


「ダメかしら?」


「いえ、屋上へ行くついでですから構いませんが……、ひょっとして毎日これを届けているのですか?」


「ええ、そうよ。それじゃ、お願いね」


アカネは若い女性に差し出されたお盆を落とさないようにゆっくりと受け取り両手に持った。そしてそのお盆を軽く持ち上げ、そしてすぐに下ろすといった動作を繰り返した。


「どうしたの?」


若い女性はアカネの挙動を不思議そうに見ながら聞いた。


「これを毎日持って行くのは大変でしょう。私は何ともない重さだと思うし、一回きりのお手伝いだから人助け程度に思えば感情的にも苦じゃない。けれどこれを毎日行うと考えると私は面倒だと思って放棄してしまいたい気持ちになってくるかもしれない……、そう思ったんです」


「そうね。確かに、なんで私が届けないといけないって最初は思いましたよ。階段だって上がるのも疲れるし、正直面倒くさい。食欲がないからせっかく作った食べ物を取りに来ないだからわざわざそんな人に届けなくてもいいじゃないって思った。両親がいなくなって辛いのはわかるけれどこっちも旦那と息子を亡くして悲しいのは同じだし、なんで私が……、と、そう思うこともあったけれど」


若い女性はそう言って顔を顰めるも、すぐに頬を緩ませてこう言った。


「でもそれも最初の方だけね。段々とね、食事当番を預かる身として責任を感じてきたのよ。悲しんでいないで、このご飯でも食べて元気を出してねって気持ちが強くなってきたのよね。悲しいことがあったら美味しい物を食べると元気がでるじゃない。私はそうだった。それで、彼女に言葉では伝えられないけれど、こうして料理で気持ちを伝えられたら良いなと思いながら持って行ってあげているから苦痛じゃないわ。今もそのご飯を食べたらどんな顔をしながら食べるんだろうって考えると元気になれるもの。なんだかんだ食欲もあるみたいで綺麗に持って行ったお膳の中身は平らげてくれるし、それに食器を洗って返してくれるから助かるのよね」


そう言い終える頃、「カオリさーん」と厨房の奥からしゃがれた声がすると、アカネの目前にいる若い女性が「はーい、今行きます」と返答した。


「厨房は忙しいからあまりお喋りしていると支障が出ちゃうから私はこれで行くね。それじゃ、配膳お願いね、アカネさん」


カオリと呼ばれた若い女性はにこやかな笑みを共にアカネに手を振ると厨房の扉を閉めた。頼み事を任されたアカネはきょとんとした目をしながら目の前で閉まる扉を見届けた。そしてアカネは屋上へと続く階段を上がっていく。


四階建ての校舎の階段を難なく上っていくと屋上へと続く窓のない『この先屋上』と書かれた扉が姿を現した。アカネは鍵の開いているドアを開けた。ドアを開けると心地よい風がふわりとアカネの身体を迎え入れた。屋上は遠くを見るには見晴らしのよい絶好の場所であり、遠方にある山々の緑が綺麗に見える。屋上の周囲の縁には飛び降り防止用の二尺程度の柵が隙間なく敷き詰められている。そしてその先には人がひとり立つことのできるような余裕のある一尺程度のスペースがある。そしてその柵の向こう側に座り込んでいる髪の長い少女がいた。目下には荒廃した文明の跡が残り、道路にはゾンビが闊歩する様子が見えている。そしてアカネは柵の向こうのいつ落ちても可笑しくないような危険地帯に座る少女の背中に注目していた。


給食係のカオリがリンと呼んでいた薄着の少女の黒い長髪は時折風で大きく靡いている。リンはじっと地上を眺めていた。アカネはそんなリンを驚かせたことで誤って転落しないように声をかける方法を考えた。その結果、開いたドアを数回ノックして屋上に人が来たことを知らせようとした。高い音が屋上に鳴る。リンはそれに気が付いたようで、首を音の方へと向けた。


「ご飯持ってきたよ。入口付近に持って行こうと思ったんだけれど……、そっちに持って行った方が良い?」


アカネはリンが自身の方を見たことを確認し、少し大きめな声音でリンに伝わるようにそう言った。


リンは小さく頷いた。それを見たアカネが入口のドアを開けたままにリンの方へと歩いていく。


「ありがとうございます」


リンが近づいてきたアカネに対して目をじっと見つめながらお礼を言った。大きな瞳を持ったリンに見つめられたアカネはその少女特有のあどけなさに感動しつつ、注意を促そうと口を開いた。


「そこにいると危ないよ? こっちにおいでよ」


「うん」


儚げな表情をしたリンは小さく頷いた。そしてリンは小さな手を柵に手をかけると力強く柵の縁を握る。それから風で身体が落下しないように身体を柵に寄せながら立ち上がり、器用に足を上げて柔軟性をアカネに見せつけつつ安全な柵の内側へと戻ってきた。


「リンちゃんって呼んでもいい?」


「どうして私の名前を……」


澄んだ瞳でアカネを見つめるリンが聞いた。


「給食係の人から聞いたんだ。私のことはアカネって呼んでね」


「うん」


「リンちゃん今からご飯食べるの?」


「うん。貰ってすぐ食べないとご飯がすぐ冷めちゃうから」


「あー、そうだよね。いいなあ、学校の屋上でご飯を食べたことないからちょっと憧れもあって羨ましい。……さて、ご飯を届ける大役が終わったから、私も食べてくるとしよう」


そう言い、アカネは屋上の出入り口の方へと歩いていく。その途中、アカネはちゃんと食事を取ろうとしているのか気になり、後ろを振り返る。そこにはお盆を受け取ったリンが床にちんまりと正座して何食わぬ顔で平然と食事を始めていた。それを確認したアカネは少し頬を緩ませた。石畳の上で星座なんて痛そうだけれど、などと思ったのだが。


それからアカネは屋上の出入り口を出てドアを静かに閉めると、四階へと続く階段で腰を下ろした。深呼吸したアカネはそのまま瞼を閉ざした。別にアカネは寝たかったわけではなく、食事を終えたリンと話をしてみたくて食事と取りに行く前に、給仕のカオリが話していた『食器を綺麗に洗う』というリンの行動まで階段で待っている間に瞑想をしつつ、ゆっくりと食事に集中しているリンをアカネは待つことにしたのだ。


それからしばらくすると、アカネの背後の出入り口の扉が開いた。


「わっ」


という、短い悲鳴が上がると同時にアカネは目を開けた。そして食事を取りに行くと言っていた手前騙したようで悪びれる気持ちを持ちつつ、アカネはゆっくりと振り返った。


「あ、驚かせちゃったね。ごめんね、リンちゃん」


「どうしてここに……」


「ごめんね、ご飯に行くってウソ言っちゃった」


そう言い、アカネは手招きしながら言葉を続けた。


「実は君と少し話をしたいと思ったんだ。ここに座って私とお話ししない? 嫌だったらそのまま階段を降りて行っていいから」


リンはアカネにそう言われると口を閉じて目を伏せた。それから数秒くらい経ってリンは足を動かすとアカネの側に立ち止まり、アカネと階段の同じ段差に腰を下ろした。それからリンは食器の乗るお盆を隣に置いてきつく結んでいた唇を開いた。


「私に話ってなんですか」


低く暗い声音でリンはアカネに聞く。


「リンちゃんはどうして柵の向こうに座っているのか理由が知りたい。それを外野から見ている私はとてもはらはらした気持ちになってしまうからね」


アカネが微笑みながらそう言った。


「……あそこにいると気持ちが楽になるんです。身体に当たる風が気持ちよくて、綺麗で美味しい空気が吸えるから好きな場所なんです」


リンは俯いて小さくそう言う。


「屋上って気持ち良いところだよね。私もさっき居て思ったんだ。それに、そっか……、気持ちが楽になるというのは……、両親が亡くなっちゃったことと関係あるのかな」


アカネはリンの様子を見ながら話していた。その台詞に反応するようにリンの表情は険しくなる。リンは自身の膝に置いていた両手をぎゅっと握りしめていた。アカネは言葉を紡いでいく。


「ハセベさんに聞いたんだ。リンちゃんの両親がゾンビに襲われてしまったって。私の両親もゾンビに襲われて死んでいるんだけどね。私はその時、ふわふわとして生きる気力が湧いてなくて、むしろ死んでしまいたいと思うことの方が多かった。だから心配なんだ。ひょっとしたらリンちゃんも同じように死にたいという気持ちが勝ってしまって屋上から飛び降りるかもしれないってね」


アカネはリンに対し諭すようにここにいる理由をそう言い終えた。その頃にはリンの身体の力が抜けおり、握られていた拳は既に解けていた。


アカネの言葉から数秒間が開いた後、リンは相変わらず目を伏せたまま口を開いた。


「私は死にたいと思ったことはないよ。元々家でもひとりでいることが多くて、なんというか孤独でいることに慣れているから……。でもそれは孤独にいることに慣れているだけで、私が願えば会うことは叶うからどこか安心できていて、今みたいにパンデミックが発生して願ってももう会うことができないような状況になって初めて、本当の意味での孤独になってしまったと、空しい気持ちになっていたんです」


「感染が拡大していた時、側にご両親は居なかったんだね。私と一緒だ。……ご両親は忙しい人だったの?」


アカネがそう尋ねる。


「うん。お父さんは大きい会社に勤めていて地方へ長いこと出張に行くことが多くて殆ど家にいることがなかった。お母さんは家に帰ってくるけれど、長時間会社にいるから私が寝る時間に家に帰ってきて、お風呂に入ったり、ご飯を食べていたよ。実際に何をしていたのかは、私は眠っていたからわからないけれどね。それから私が起きる時間に家を出ていたよ。朝ごはんを作ってくれるから嬉しかったけれど、できることなら一緒に食べたかったな……。だから、家には殆ど私しかいない状態だった。今思えば私が物心つく頃からそうで、授業参観に周りの友達のお父さんもお母さんが来ていることに疎外感を感じていたし、それに入学式とか、卒業式にも来てくれなかった。それにどこかへ家族で遊びに行くこともなかったから……、きっと私は愛されていなかったからなのかもしれないなあ……」


リンは暗い声音でそう言う。過去を思い出しながら語るリンのその表情は悲壮感そのものであり、衰弱しているように顔色も悪い。


「確かに子供を愛そうとしない親はいるけれど、リンちゃんの場合はそうだとは思えない。お父さんとお母さんはきっとリンちゃんの為に一生懸命に働いていたんだと思うよ。まあ、学校行事に来ないなんて流石に酷いと思うけれど、文明がまだちゃんとしていた頃は長時間の労働時間が当たり前で、暇な時間が取れなかった人も多くいたと思う。そうじゃないと子供を守れる生活環境じゃなかった時代だし、両親が働かないと暮らしていけない家族が殆どだったからね」


リンの暗雲漂う雰囲気にアカネは先ほどのリンの考えを否定した。


「それは私も理解しているから仕方がないことだと言い聞かせていたよ。でも、子供の行事というか、入学式とか、卒業式とか、そういう大事な区切りの場面でも姿を見せてくれないと、どうしても『私を愛していない』のだと思わずにはいられないんです。きっと私のことは社会的な体面を気にして育てていただけで、うざったいからなるべく関わらないようにしていたのだと思う。……憶測でしか語れないのは、私のことを子供として愛していたのかどうか、それをお父さんとお母さんに直接聞きたいけれど今はもう聞くことが叶いそうにないから……」


「お父さんとお母さんはリンちゃんを守るために庇って亡くなったんだよね。それはリンちゃんのことを愛していなければ……」


「ううん、違うよ」


アカネの言葉を遮り、リンは言葉を続ける。


「それは皆が両親がどうしたとか聞いてくるから、適当な理由を考えてそういうことにしてあるだけだよ。本当はパンデミックが始まった時には両親は家に帰って来ていなかったし、会えていないんだ。お母さんは近くの町に職場があるから会えるかもしれないけれど、お父さんは遠くの都市へ仕事に行っているからきっともう会えないと思う。それに生きているかもどうかもわからないから、皆には両親は死んだと思ってもらっています。まあ、きっともう死んでいると思うけれど、美談にした方が根掘り葉掘りと色々聞かれることがないからそれでよかったんです」


「そうなんだね。私はてっきり、リンちゃんを庇って亡くなったのかと思った」


「この拠点にいる皆はきっと疑いもせずにそう考えていると思います。このこと、みんなには内緒にしてくださいね」


「わかった。約束するよ」


アカネは芯の通った声音で言った。


「ありがとうございます」


リンは頬を緩ませると少しはにかんでそう答えた。


それからアカネはハッとした顔をすると、リンに疑問をぶつけた。


「リンちゃん、お母さんは家の近くの町に通勤していたんでしょう? それなら家に帰って来ている可能性があるんじゃないの?」


「可能性はあり得ますが、希望は薄いと思います。私は一週間近く家に籠って感染を避けてきました。それから食料を探している時にこの拠点の人たちに出会ってから家を離れたから、その後の家の状況はわかりませんけど、人口が密集しているこの場所はゾンビの数も多くて帰宅どころか生存も困難だったはずだから生きているとは思えないです」


「それなら、私がリンちゃんの家に行ってお母さんがいるかどうか確認してきてあげるよ」


アカネが胸に手を当て誇らしげにそう言う。


「え?」


驚いた様子のリンは思わずアカネの方を見た。


「お、やっと私を見てくれたね」


「家を見に行くんですか?」


アカネの軽口を無視するように、リンはそう聞いた。


「まあ、私はこう見えても『収集屋』だからね。見てきてあげるよ。お母さんがいるかどうか、知りたいでしょう。それにお父さんもいるかもしれないじゃない」


「あっ、『収集屋』さんだったんですね。ただ……、お父さんは随分遠いところへ出張していたから帰ってこれる可能性は限りなく低いと思います。それに、私が『収集屋』さんに対して差し出せる報酬は何もないですよ。だから依頼できないです」


「報酬なんていらないよ。今回は私が好意でやろうとしている慈善活動だから無報酬でいいの。でも……、そうね、これ以上屋上の柵の外に出ないことを約束してくれるかしら。それが私にとっての等価的な交換と見做すことにする」


リンは少し考えこんだ様子でしばらく黙り込んだ。それから少ししてリンは答えを出したようで、重い口を開いた。


「わかりました。……柵の内側にいると、なんだか牢獄の中にいるみたいな感覚になって息苦しくなっていたんです。檻の中に入っていたことはないんですけど、なんとなくそういう気持ちになるから嫌だから抵抗はあるけれど……、私からの依頼、お願いします。私の家を見てきてほしいです。希望は持っていないけれど、もしもお母さんが生きていたら連れてきてほしいです。家よりもここの拠点の方がずっと安全だから。それに、例え愛されていなかったとしても実の親が生きているという事実だけで嬉しい気持ちになれるはずだから」


希望は持てない、リンはそう言っていたけれど、先ほどよりも表情が明るくなっていることにアカネは気が付いている。そんなリンを見て心を打ちとけてくれたと感じて嬉しくなったアカネだが、恥ずかしいので敢えてその表情を顔には出さず、冷静を装って必要な情報を尋ねた。


「わかった。それじゃあ、住所を教えてね」


そうしてアカネはリンから詳しい住所を聞いた。メモ用紙を取り出し、忘れないように目印や番地等を記述した紙切れをポケットに仕舞うとアカネは立ち上がる。


「善は急げ、だけれど、リンちゃんの家を探すのは明日になるわ。日が暮れそうだからね。夜は危険だから」 


立ち上がったアカネを見たリンは側に置いていたお盆を手に取り立ち上がる。そしてリンはアカネの顔をじっと見て感謝を伝えた。


「うん。ありがとうございます。……会えるとは思えないから、あまり期待していないけれど」


「それでいいと思うよ。期待しすぎると、その反面の落胆する気持ちは多くなるからね。さあ、片づけに行こう。私もお腹が減ったからご飯が食べたい」


悲観的なリンに対し、アカネは微笑んでそう言った。アカネとリンは屋上からゆっくりと階段で降りていった。アカネはその足で会議室へ向かった。リンは料理が盛られていた皿を綺麗にする為に洗い場へ向かう為にふたりは途中の階層で別々になった。その際、「それではよろしくお願いします」とリンは頭を軽く下げる。それには色んな意味が含まれていることを察したアカネは軽く頭を下げているリンに対して「任せて」と短く返すとその場を後にした。


寄り道することなく一階の会議室へ戻ったアカネは、ハセベのいない会議室として使われている部屋の中で椅子に座りながら愛刀の手入れをしていたナカジに合流の挨拶と素朴な質問を投げた。


「ただいま。ナカジはご飯食べた?」


「おかえり。俺はまだ食べていないよ」


「そう。お腹減っていないの?」


「減っているけれど、刀の手入れを先にしないとだめになっちゃうからねえ」


「確かに」


「アカネはどうなんだい? お腹空いているんじゃないかい」


「もちろん。でも、私も自分の刀を綺麗にしなくちゃ」


「先にアカネの方の刀を手入れしたから、そっちの手入れは終わったよ」


「さすが、気が利くね。ありがとうございます」


「なあに、当たり前のことよ。先にご飯食べに行ったらどうだい。俺の刀の手入れはもう少しかかるからねえ」


「ううん、待ってるよ。待てないほどの限界が来ているわけではないし。ハセベさんの相談って何か変わったことあった?」


そう言うとアカネはナカジの近くの椅子に鎮座した。


「愚痴から収集屋としての依頼を受ける定番の流れさ。特に変わったことはないよ。……それで、女の子には会えたのかい」


ナカジが着席したアカネにそう尋ねた。ナカジは刀の手入れの方法として汚れを拭き取るためにミシン油と無添加のティッシュペーパーを使い、そして錆止めの為にベンジンを使用して塗り込んでいるのだが、ナカジは今ベンジンを丁寧に刀身に化粧用に使われるコットンで丁寧に塗り込んでいる作業の最中だ。


「会えたよ。その子の名前、リンちゃんっていうんだよ。まだ中学生くらいの女の子だったよ」


「その子とは何か話したのかい」


作業を止めてアカネの顔を見たナカジがそう言う。


「うん。リンちゃんから依頼を受けてきた」


そう言いながらアカネはナカジの腕をそっと両手で掴んだ。その握力はナカジが腕越しに感じるくらいに強く握られており、ナカジは只ならぬアカネの心境を自身の腕越しに感じて、思わず手入れ中の中途半端な刀を布が敷かれた床の上に一旦置いた。


「アカネが直々に依頼を受理するなんて珍しいねえ」


「うん。……リンちゃんはとても可哀そうな子だったよ。本人から口止めされているから本当は言いたくないけれど……、まあナカジだから特別に言うよ。リンちゃんのご両親は多忙で家にいることが殆どなかったみたい。たぶんリンちゃんはご飯をいつもひとりで食べていただろうし、孤独感を常に感じていたはず。それに、学校行事に両親が来てくれなかったって言っているんだよ? 信じられる? 普通、家族なら仕事を休んででも来るよね? そういう家庭もあるとは思うけれど、我が子の晴れ舞台に来ないなんて……」


悲痛な面持ちで語り、泣きそうなアカネに対してナカジはいつものあっけらかんとした様子で言葉を紡いだ。


「なるほどねえ。俺の友人にもそういう境遇の奴はいたねえ。どこか精気がないというか、愛情に焦がれたような奴だった思い出がある。親の愛情に飢えているとも言えるけれど、中学の頃から問題ばかり起こすようなことをしていたねえ……。まあ、パンデミックが起こる以前の文明社会では過労なんて言われるくらい大人は皆働いていたんだから、そういう一般とは違う環境に置かれた子供がいてもおかしい話じゃないよ。まあ、だからといって許容はできないような育児環境だったようだねえ」


「私の知り合いにもそういう子はいたけれど、健気な子だった。でも……、今思えばその子は単に可哀そうな子だということを気取られたくなくて、空元気で気丈に振舞っている様子を見せていただけなのかもしれない……。……リンちゃんはご両親に愛されていないと思い込んでいる様だった。きっとそういう境遇の子供たちは皆そう感じているのかもしれないね。親からの愛情をまともに受けられずに幼少時代を経たことで生きることに無気力になっているようにリンちゃんを見ていて思った。それにどこか虚ろで透明になってしまいそうな雰囲気なのはきっと愛されていないと思い込んで生きる希望が持てないからだと私は考えてしまう」


「憶測で語るのは良くないけれど、俺がそういう立場にいたらきっとそう思っていただろうからこれに関しては同意せざるを得ないねえ」


「実は依頼なんだけど、リンちゃんから直接言ってきたわけじゃないの。私が提案した依頼なの。お母さんの職場が近くの町だったみたいで、ひょっとしたら無事に家に帰っているかもしれないと思って私が確認しに行くと約束したの。ついでにお父さんもいればいいけれど、お父さんは随分遠くに出張していたみたいだからたぶんいないと思うけどね……」


「じゃあ、リンちゃんからの依頼は彼女の家を覗いてお母さんがいるかどうか確かめることが依頼の内容なのかい?」


「そうなるね。お母さんがリンちゃんの家にいるかどうかわからない。もし誰もいなくて空振りだったとしても何かリンちゃんの家族の思い出になるようなものを持って帰ってあげたいと考えていたよ。ええと、住所は聞いてきてあるんだ」


そう言ってアカネは先ほどリンから聞き出した情報が乗った紙切れをポケットから取り出してナカジに渡した。


「手際が良いねえ。……ふうん、なるほどねえ。俺もハセベさんから収集してほしいものがあると依頼を受けていて、ここなら近場に大型のホームセンターがあるからついでに寄っていけるねえ。このルートだと先にホームセンターへ寄ることになるけどそれでもいいかい」


まじまじとメモ用紙を見つめていたナカジはそれをアカネに返しながらアカネにそう伝える。


「うん。そうしましょう。でも、なるべく早く物資を集めてリンちゃんのお家へ行きたい」


「わかった。なるべく迅速に集めよう。その為にも今のうちに準備を万端にしておかなければいけないねえ」


「そうね」


アカネはそう言い、ナカジの手を離すと自身の身の回りの装備の整備に取り掛かろうとした。


ナカジも先ほどまで行っていた作業の続きを始めた。


その夜、二人はハセベに誘われて拠点のメンバーと共に体育館を使った食事会場へと招かれた。食事係の人たちが腕によりをかけて作った品々があった。


アカネとナカジは拠点の皆に歓迎されながら談笑し、食事を楽しんだ。


アカネは周囲を見渡し、リンの姿を時折探していたが宴が終わる最後の最後まで結局姿を見ることはなく、周囲もそれについて触れる人はいなかった。


きっと今も屋上で孤独と向き合っているんだろうと、アカネはふと思うのだった。



一階にあった昔夜勤職員用の休憩に使われていた一室を寝床に提供されたナカジとアカネはたっぷりと睡眠を取り、早朝の鶏の嘶きと共に目を覚ました。


軽い朝食を給食調理室から頂戴してきたナカジはアカネとそれを堪能してから出発に向けての準備を始めた。前日ある程度整えていたおかげで迅速に収集屋としての職務を行う用意ができたこともあり、まだ朝が薄暗い時間にナカジとアカネは出発前に、立派な責務を担っている門番のヒロとナオトに軽く挨拶をして学校の正門を出る。


そして数歩歩いたところで、ナカジより先に歩いていたアカネはふと立ち止まると身体ごと振り返り、校舎の屋上を見やる。


「さすがにこの時間はいないんじゃないかい」


ナカジがアカネのその様子を見て平然とした顔でそう言うが、それに対しアカネは真剣な声音で答えた。


「いる。リンちゃん屋上にいるよ」


「見間違いじゃ……、あー、本当だねえ。しかも今回は柵の内側にいるねえ」


目視で確認したナカジが口から思ったことをそのまま言葉に出していた。


「約束、守ってくれたんだね、リンちゃん。依頼は必ず果たすからね。お利口にして待っているんだよ」


屋上に佇みアカネの方を見ているリンに対し、アカネは真っすぐな瞳を向けて呟くようにそう独白した。


「行こう。お出迎えもあるようだし、掃除しながらになるけれど」


アカネはそう言い、唸り声のする方へと目を向けながら抜刀する。


「そうだねえ。ゆっくりして鈍った身体を温める為の糧になってもらおうかねえ」


ナカジも抜刀し、二人は押し寄せるゾンビの群れへと突っ込んでいく。


淡々と頭部を的確に狙いすまし切り伏せ、突き刺して処理をしていくアカネとナカジの剣劇は長い時間を取ることはなかった。


ナカジは周囲の安全に気を配りつつ、刀の切れ味を落とさないように小まめに付着した血や肉を蘇らない死体となったゾンビの衣服で綺麗に拭き取っていく。同じようにアカネもそうするが、自身で用意した清潔なタオルで拭き取るアカネの方がより一層丁寧だった。


流れ作業のように出くわすゾンビを叩き切っていくナカジとアカネだったが、ついに目的地だったホームセンターへと到着する。外観は白を基調とした建物で、店の名前である『ホーマック』には上下で黒と赤で書かれている。世界が荒廃して数年経った今でもまだ色褪せてはいなかった。


「このホームセンターに来るのも一年ぶりだね。そういえば聞いていなかったけれど、ハセベさんからの依頼って、いつもの生活必需品なの?」


周囲を見渡し、ゾンビがいないことを確認しているアカネはゾンビの頭を叩き割っている最中だったナカジに聞いた。


「そうだよ。それと今回は野菜の種が追加されたねえ」


「了解」


アカネはそう言うとさっさとホームセンターの中へと無警戒に入っていく。


ナカジもアカネに続いて店の中へと入っていく。


静寂に包まれた店の中は閑散としていた。一階フロアには商品棚の中には角材や調度品、第一次産業に欠かせない道具や器具、肥料や種等生きていく上で欠かせない薬剤や雑貨が大量にあり、二階フロアには家庭向けの家具や寝具、インテリア商品が主に陳列されている。


手慣れた様子で店の入り口にあったショッピングカートを押しながら必要な物資を集めていくナカジ。途中、同じくショッピングカードで必要な物を集めていたアカネに会いながら不足分を確認する過程を繰り返すこと小一時間が経った頃に再びナカジとアカネは店の入り口で合流した。


「相変わらず店の中は不気味なほど静かよね。ゾンビの一体や二体が入ってきても不思議じゃないのに。それに品物も減っていないからきっと生存者がここへ来ている様子もないし、この辺で生きている人間って拠点の人たちだけなのかもしれないね」


「そうだねえ。個人で生きていける能力のある人もいると思うけれど、少なくとも拠点のような人がたくさん集まった場所に居る方が遥かに安全だからねえ。きっともうここの地域には生存者がいる可能性は限りなく低いのかもしれないねえ」


「リンちゃんのお母さん……、家にいるかな。せめてゾンビになった状態でもいいから家に居てほしいな」


悲痛な面持ちでそう言うアカネに対し、ナカジはアカネの肩に手を置いて慰める。


「俺も同じ気持ちだよ。物資も集め終わったんだ。さっさとリンちゃんの家へ行ってそれを確かめるとしよう」


アカネは自身に肩にあるナカジの手を握り、「そうだね」としっかりとした声音で答えた。


ショッピングカートを放置せず律儀に元にあった場所へと返却し、店の外へ出てリンの実家へと向かうナカジとアカネ。その二人の足取りは軽く、少し急ぎ足でもあった。


それからしばらく歩くと次第に住宅街の中へと進入していることに気が付くナカジとアカネ。特にナカジは周囲に目を向け、「高級車が多いねえ。ここらへんは金持ちが多かったんだろうねえ」と独白のように呟いた。


「自慢の車で逃げようとしていないところを見ると、きっと家に帰ってこれなかったというのが私の推理だけれど、どう思う? 実際にここら辺にゾンビがいないし、道にも血だまりはないし、嫌な腐臭もしない綺麗なままだし」


「同感だねえ」


ナカジはアカネから受け取った住所のメモ紙を見ながらそう言う。


それから周囲の電柱に掛かれた番地を確認しながら少し歩くと、「ここだねえ」と、メモ紙とそれに記された住所が一致する門袖の家の前で立ち止まる。


家は二階建てであり、敷地の大きさがわからないほどの邸宅だった。黒を基調とした外観は荘厳な雰囲気を漂わせ、一階の右側に三台分の車庫があり、その左側が玄関だった。そして巨大な門扉がナカジとアカネの前に聳え立っているが、人ひとりが通るには十分の空間が右側だけ開いていた。


「立派な家なのに開けたままなんて不用心だね」


アカネが開いた門扉を見てポツリと言う。


「それだけ切羽詰まった状況だったじゃないかねえ。これはひょっとすると中に誰かいるかもしれないねえ」


ナカジはそう言いながら門扉を持ち、隙間を広げながら敷地の中に入っていく。


音もなく広がる進入口の拡大を見つめるアカネだが、ある程度開いたところで門扉から手を放すナカジに代わり、きちんと門扉を締め切った。


その頃ナカジは玄関の前に立っていた。


「オートロック式かい……。まあ高級住宅ならそうなるだろうねえ」


ナカジのその台詞を受けてアカネが、


「さすがにそっちは鍵がかかっているでしょう。後ろに回ればベランダもあるだろうし、そっちから家に入ろう」


と提案するが、ナカジが玄関ドアの把手に手をかけるとドアをゆっくりと開いたみせた。


「ところがどっこい。鍵は開いていたみたいだねえ」


にっこりとした笑みを見せるナカジはアカネにそう言うが、アカネは不服そうに「本当に不用心だわ」と呆れた顔でそういった。


ナカジが先に家に入り、続いてアカネも入っていく。ドアを閉めて間もなくして家の中で物が動く音がする。二人はその音が耳に入るや否や謹厳な面持ちで迷わず左側の胸元の鞘に指してあるコンバットナイフを抜いて手に持った。


ナカジとアカネは目を合わせ、音の方向を指さしを使って確認する。言葉を発することはなく、合図のみで室内へと土足で入っていく。


ナカジは自身から先に行くことをアカネに合図で伝え、アカネはその後ろをついていく。


家の中は広い。玄関も広いのだが、キッチンやリビング、浴室に至るまで全てに行動する際のスペースにゆとりがあり、家具や雑貨に至るまで良品を揃えているようだったが、どこか質素で必要な物しか置いていないという印象が強い。屋内の各部屋には生活を行った形跡のある汚れや散らかりはあるが誰かが意図的に荒らしたような形跡はなかった。


「どうやら二階で音の正体がわかるようだねえ」


緊張を解いたナカジがアカネにそう言う。


アカネは周囲を見渡しながら「なんだか殺風景ね」と毒を吐いた。


「家だというのに温かみがないというか、生活感があまりないよね。高い物も揃っているけれどそこに置いてあるだけみたい。普通だったら雑誌とか不必要な広告のチラシとか、家族の写真とか、お菓子の袋とかあるものじゃない?」


「いらないチラシが机の上に乗っかって放置したままなのは同意できるけど、お菓子の袋はアカネの家オリジナルじゃないかい?」


むすっとした顔でアカネは「うるさい。刺すよ」と、ナイフを構えナカジを睨む。


そんな時、再び二階の方で物音がする。そして今度は低い呻き声が聞こえてくる。それはゾンビ特有の呻き声だ。


じゃれていたナカジとアカネは一瞬にして朗らかな雰囲気から臨戦態勢になる。


「俺の予想なんだが、二階にいるのはリンちゃんのお母さんじゃないかい」


「そうかもしれないけど、見るまで確証を得られないよ」


「確かめに行こうかねえ」


ナカジがそう言い、先陣を行く。アカネはその一方後ろをついて行く。


二階へ行く手段は居間と玄関を結ぶ真っすぐに伸びた廊下の真ん中にオーク材が使われた化粧階段がある。そこをナカジが一歩ずつ上っていく。二階へ近づいていくに連れて物音と呻き声の激しさが増していく。


そしてその音の鳴る部屋のドアの前で仁王立ちするナカジは背後にいるアカネに対し、「開くぞ」と一言だけ伝え、アカネもまた「うん」と一言だけ返した。


ナカジはドアに手をかける。そしてそのドアを勢いよく開けた。


部屋の中は鼻をつんざくような吐き気を催す腐臭がした。その部屋は大人二人が悠々と眠れるサイズのベッドが置かれた寝室だった。そしてそのベッドの側に腐敗の進んだ小奇麗な衣服に身を包んだ女性のゾンビがいた。ベッドを挟んで向こう側にいるそのゾンビは低い呻き声をあげ、食事の為に襲い掛かろうとしてゆっくりと歩いてナカジたちの方へと向かってくる。ナカジは近づいてくるゾンビを蹴り飛ばす。ゾンビは勢いよくふっ飛んでいくと床に背中と後頭部を激しくぶつけながら倒れた。


「酷い臭い。それにこれってまさか……」


アカネが倒れ伏せるゾンビを見つめ怪訝な顔で独白する。


「恐らくリンちゃんのお母さんだろうねえ。腐敗の状況を見るにかなりの年数が経っているから判別がつくかわからないけどそのはずだねえ」


ゾンビが起き上がろうともがいていたが、それを見たナカジがすかさずゾンビの両腕の上に乗り上げてしゃがむ。そしてナカジは右足で喉元を踏みつけながら顔をまじまじと見た。それを払いのけようとするゾンビの手がナカジの足を掴んできた。その右手の腕には噛まれた人特有の歯形の深い裂傷が付いており、その部分だけ黒ずんでいる。


「やっぱり腐敗が酷くて骨格的な判断しかできないけれど、まあ保存状態もマシだから写真家何かがあれば本人確認はできそうだねえ。とりあえず動かれると面倒だから止めを刺しておくとするよ」


そう言い、ナカジは手に持っていたナイフを右目に突き立ててそのまま押し込んでいく。切っ先はゆっくりと淀んだ眼球に潜っていく。ナイフを刃の根本まで突き刺した時ゾンビは唸ることも暴れることもなくなり完全な動かない死体となった。


「さて、この仏さんが一体誰なのかを知らないといけないんだが……、一体何を思ってこの部屋にいたんだろうねえ」


ナカジは先ほど使用したナイフを抜きながらそう言う。


アカネは部屋中を見渡した。ベッド以外には衣服を収納する棚とテレビが置かれた台、インテリア雑貨が少しあるだけの簡素な装飾だった。


「あれ、なんだろう」


そしてアカネはベッドの上にアルバムのような何かが幾つも置かれていることに気が付き確認しようと近づいていく。


それを尻目にナカジはナイフに付いた血をベッドの白いシーツで拭い始めていた。


アカネはベッドの中央に置かれた分厚いアルバムのようなものの中から一冊手に取った。それには『リンの誕生から入園まで』と書いてある。


「重い。なんだろう……、あ、写真だ。写真入れだ、これ」


手に取ったそれを開いたアカネはナカジに伝えるようにそう言いながらナカジの方へと近寄っていく。


「それならこの仏さんが誰なのかも判別が付きそうだねえ」


そう言いながらナカジは側に来たアカネが持つ写真集に目を通す。


その写真は家族で撮ったであろう幼い赤子を抱く若い女性とその二人を大事そうに背後から支える若い男性の姿が映った年季のある写真が写っている。そのページには写真の他にメモ紙が挟まれており、『リンが産まれて一か月記念の写真』と書かれていた。


「どうやらこの仏さんの面影を見るにリンちゃんのお母さんみたいだねえ」


ナカジは写真集に写る女性と足元の遺体を見比べながらそう呟くように言った。


ナカジの台詞を歯牙にもかけない様子で黙々と頁を捲っていくアカネだが、その表情は次第に赤みを帯びてきていた。やがて瞳が潤んでいくと目尻から涙が流れ始めた。


写真集にはリンが誕生して一か月ごとに記念の写真が収められていた。それは三歳まで続けられており、毎日の寝顔が撮られている。入園式の様子や幼稚園での行事の様子を撮影したもの、それについての詳しい加え書きのメモがびっしりと記入されていた。


「リンちゃんは愛されいないと言っていたけれど、そんなことはなかったんだ」


アカネは全ての頁を捲り終わると「持ってて」とナカジに押し付け、ベッドに無造作に置かれた別のファイルと取りに行く。


アカネが手に取ったそれも同じようにリンの日々の寝顔の写真がびっしりと収められていた。そして日記のように加え書きが添えられている。一行だけの感想で綴られているものが殆どだった。


アカネは途中までアルバムを見たところでそれを閉じると、それを自身のカバンの中へと詰め込んでいく。


その様子を見たナカジは渡されていたアルバムをアカネの側まで持って行き、「これも入れるんだろう」と言い、そっと渡した。


「ありがとう」


アカネはそう言いアルバムを受け取るとそそくさとカバンの中へ入れていく。


そうしてベッドの上にある残りのアルバムを少し見て中身を確認しながらアカネは自身の鞄を膨らませていくが、そんな中で紙が一枚ひらりと床に落ちていく。


荷造りに忙しそうなアカネを見てナカジがそれを拾う。そしてそれに書かれた内容を見たナカジはふと微笑む。そしてそれをアカネに見せることなく、ナカジはアカネにそれを渡した。


「これ、アルバムの中から落ちてきた紙だから入れといておくれ」


アカネはそれを受け取り、内容を確認すると「そうだね。これを失くしたらきっとリンちゃんのお母さんに怒られちゃうね」そう言い、一番新しく作られたアルバムの中にそれを綴じる。


「さあ、もう帰ろうか」


アカネはすっきりとした顔をしながらナカジにそう伝えた。


「もういいのかい? 何か持って帰れるものもあるかもしれないのに」


「きっとこれ以上無いお土産をリンちゃんに用意することができたと思うからもう十分だよ。それにこれ以上この家を荒らしたくないんだ。土足でここにいることすら良い気持ちじゃないから」


アカネは靴の先をトントンと床にぶつけて残念そう言った。


「わかった。それじゃあ帰る前に、リンちゃんのお母さんを弔ってあげようか」


そう言うナカジに対し、アカネは小さく頷いて承諾の合図を出した。


リンの母親の遺体を毛布で包み担いで外へ運び出したナカジは道路の真ん中へ持って行くとそっと地面に置いた。そして家の中から頂戴してきた調理用の油を遺体の全身にかけるとチラシの端をライターでナカジが燃やし、それを遺体の上に落とした。油の影響で激しく燃える遺体に合掌するナカジとアカネ。その後、二人はその場を後にし帰路を辿っていく。


道中、障害となるゾンビを切り伏せながら難なく拠点へと戻ってきたナカジとアカネは物資を無事に納品し終わり、ハセベの依頼を終える。本来『収集屋』は傭兵のような扱いであり、依頼を完遂した際に報酬を出すのが道理なのだがナカジは拠点を運営している側なので見返りの報酬というものは無く、拠点運営の為に自身が尽力したに過ぎないのである。


感謝されるナカジを他所にアカネは屋上を目指していくが、屋上に至る扉の前、階段の所でリンが座ってアカネを待っていた。


「あれ、屋上にいかないの?」


アカネがそう聞くと、リンは少し悲しそうな声音で答えた。


「屋上にはいたけれど、アカネさんが帰ってきたときお母さんの姿が見えなかったからちょっと悲しくなってここにいたんだ。やっぱり私は独りぼっちになってしまったんだなと思って……。やっぱり期待していたんだな、私。今はなんだか凄く胸が苦しくて痛いんだよね」


次第に涙声になっていくリンに対し、アカネは少し目を伏せる。少しの間を置いて、意を決したようにアカネは口を開いて事実を伝えることにした。


「お母さんはね、家に帰っていたんだよ。ただ、私たちがリンちゃんの家に着いた頃にはもう既にゾンビになっていた。恐らくだけれど長い年月が経っていてかなり腐敗も進んでいたから、きっと早い時期に家には帰っていたみたいなんだ。噛まれていたから長くは持たなかったと思うけれど、お母さんは最後までリンちゃんのことを考えていたみたいだよ」


そう言いながら、アカネは自身が背負うカバンを下ろして中のアルバムをひとつ取り出す。それには『リンの高校入学から卒業まで』と背部分にタイトルが記されていた。


「それってどういう意味……、それはなんですか?」


というリンの素直な疑問に対し、答えを手中に収めるアカネはそれを持ったままリンに近付いていく。


「これを見てごらん。きっとリンちゃんの疑問や疑心の答えが全て解決すると思うから」


そう言い、アカネはリンにアルバムを手渡す。


受け取ったリンは先ず表紙をまじまじと見る。それから背の部分に書かれているタイトルを見て怪訝な顔をしながら表紙を捲る。すると、それから数秒経ち、頁を一枚、また一枚と捲っていく。そこには入学式の列に並んでいるリンの姿。卒業証書を授与されている姿の写真がある。それらは一枚ではなく、何枚も掲載されている。運動会に参加しているシーンなど、学校行事参加している姿が所狭しと各頁に写真が貼り付けられている。リンの表情はみるみるうちに変化していく。暗く悲痛な面持ちから朗らかな笑顔に、そして最終的には目頭をしわくちゃにさせていた。


そして一枚の紙が頁の間に挟まっていて、それを手に取るとリンはそれをじっと見た。それから少ししてリンの目尻からは大粒の涙が溢れ始めていた。


手紙にはこう記されていた。


『私の大事な娘のリンちゃんへ。家に帰ってきてリンが居なくて驚いたけれど、きっとどこかで無事にいることを祈っています。リンはひとりで頑張ってきたとても我慢強い自慢の娘だから生きていると信じています。


そしてきっとこの書き残しを見る頃にはきっと私はもうこの世にはいないかもしれない。奇跡が起きて生きているのならきっとこの紙を捨てるはずだから、これを読んでいるということは私はもうこの世にはいないということね。そしてこの手紙を、リン、あなたが読んでいるということはとても嬉しいことです。生きているのならそれだけで嬉しい。リンではない人が読んでいるのなら、どうかこの書き残しを破棄しないで元の場所へと戻しておいて頂けると嬉しく思います。


先ず、私がこう書き記そうと思ったのは自分の懺悔の為でもあります。私はきっと酷い母親だったと思います。仕事に追われ、家にいることもままならず、大切な成長期で多感な子供時代を共に過ごす時間が無かったから。今にして思えば仕事なんて辞めてでもリンと過ごす時間を作るべきだったと思っています。お父さんもそう言っていたけれど、結局お互いそうなることも叶わずに世界の終わりを迎えることになってしまったけれど。


リンには内緒にしていたけれど、お父さんとお母さんはあなたの入学式や卒業式には必ず駆けつけていました。大事な娘の節目だもの、見逃す訳はありませんでした。ただ、仕事の合間を縫って参加していたのでリンの晴れ舞台を見届けた後すぐに仕事に戻っていました。そこでリンに会ってしまって、すぐに仕事だから帰るというとリンはまたきっと悲しい顔をしてしまうと思って、それならば最初から来れないと思わせていた方が余計な悲しみを追わせなくて済むと思案してそうしていたのだけれど……、今にして思えばとても愚かな考えでした。素直にリンに会えば、ほんの少しでも愛しいリンの笑顔が見れたと思うから……。


私も、そしてお父さんも貴方の笑顔をずっと見ていなかった。見れなかった。見ようとしていなかった。それがいつの間にか当たり前になっていて、でもそれはとても辛いことだった。そんな苦しさを紛らわせるのが帰宅したときに見るリンの寝顔。それが唯一の癒しだったわ。お父さんにも写真を送っていてあげたのよ。お父さんは会社の人にリンの寝顔を自慢していたそうよ。待ち受け画像にだってしていたみたいだからね。


リンは私たちを恨んでいても不思議じゃない仕打ちを貴女にしてしまいました。会話をすることもままならない日々はきっと辛かったでしょう。独りぼっちで辛かったでしょう。愛しいリン、ごめんなさい。リンにずっと寂しい思いをさせてしまっていてごめんなさい。今会えるのならば、私の命の限りをリンのために何度でも言うわ。リン、あなたを愛していると。どうか、どうか生きてほしい。生き残っていてほしい。お願いします神様。どうかリンを守ってあげられない私の代わりに。美味しいご飯を作ってあげたかった。旅行に連れていきたかった。たくさんリンの笑顔を見たかった。リンの怒った顔がみたかった。何もしてあげられなくて情けなくて悔しい……。


さようなら、リン。私の大事で愛しい愛娘のリン。 愛しています。 母より』



リンの嗚咽に似たすすり泣く声は狭い空間の階段には良く響いた。それは耳を澄ませば一階の廊下でも聞こえたくらいだ。アカネはリンの側へと静かに座る。そしてアカネは震えるリンの華奢な身体を優しく包み込むように抱きしめた。


そしてその異変に気が付いた拠点の人達が屋上へとやってきた。そして泣きじゃくるリンとそれを介抱するアカネの様子を見つけた察しの良い大人達は野次馬をこれ以上屋上へと昇らせない為に、屋上へ上がる階段前でバリケードのような壁を作った。それはこの鳴き声の事情を知らない大人達へ状況説明をする為に買って出る為であり、その壁役の中には給食係のカオリの姿もあった。


その後、アカネは泣き止んだリンを連れて屋上ではない本来のリンに分け与えられた寝室へと移動した。泣きつかれたリンの足取りは重かったがアカネはそれに合わせてゆっくりと歩いた。そしてリンの部屋へと着くなり、リンは泣き疲れたのかすぐにベッドに横になると目を閉じて寝息を立て始めた。すやすやと息を立てて眠りこけるその様子を見てアカネはその顔に見とれていたのだが、自分の使命を思い出して鞄からリンの家から持ってきた全てのアルバムを取り出し、使われた形跡の無い殺風景な机の上にアルバムをそっと置いた。それからアカネは鞄を担ぎなおすと、もう一度リンの寝顔をじっくり見た後でリンの部屋を後にした。


それからアカネはナカジと合流し、翌日出発する旨をナカジから知らされた。



翌朝になり、準備を整えたアカネはナカジと共に校舎の玄関を出た。その際、ハセベが早朝にもかかわらず見送りの為に門の前に立っていた。そしてその隣にはリンの姿もあった。


「なんだいリンちゃん、見送りにきてくれたのかい」


ナカジが平然とした声音でそういう。


「うん。昨日はアカネさんにお礼も言えないままだったから、今日言おうと思ってて」


「早朝だから眠たいんじゃない?」


アカネがそう言うが、「昨日気が付けば寝ていて、それからずっと寝ていてさっき起きたから眠たくないよ」と、リンがすっくりとした面持ちでアカネにそう言い、リンはアカネの前へと歩いていく。それから言葉を紡いだ。


「アカネさん、ありがとう。アカネさんが居なかったら私はきっと両親のことを誤解したままだった。そしてきっと生きていくことが嫌になって自殺をしていたかもしれない。それを止めてくれたのはアカネさんだよ。私は……、強く生きていこうと思います。お母さんが望んでいたように、何をしてでも生きていこうと思います。愛されているって、こんなにも心が強くなれると気づかせてくれてありがとうございます」


リンはにこやかな笑みと共にアカネにそう伝えた。その笑顔はアカネがリンと接してきて一番の輝きのある姿だった。


「どういたしまして。次ここに来るとき、またリンちゃんに会うことを楽しみにしているね」


「私も楽しみにしています。いってらっしゃい、アカネさん。気を付けてくださいね!」


リンは元気よくアカネを見送る。


その元気に後押しされるようにナカジとアカネは拠点を出発するのだった。




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