心の灯台
幸いなことに電気や水道といった生活インフラはまだ生きていた。脱衣所は洗面台と洗濯機が置かれており、そして浴室へと通じるガラス板のドアを開けると浴室へと通じる。洗濯する前の衣類が白色のプラスチック製のランドリーバスケットに無造作に投げ入れられていた。袖が血に濡れた厚手のセーター。丈の節々が血に濡れているデニム。それから上下が同じ青色になっているセットの女性用下着がある。そして浴室ドアにはシャワーを浴びているアカネの姿が靄のかかったガラス板越しに確認できた。
「いつまで電気が届くかわからない。だから汗を流せる今のうちにお風呂に入ったらどうだい?」
そう言ったのはナカジだった。恍惚とした表情を浮かべながら立てかけたシャワーヘッドから垂れ流される温水を浴びるアカネは少し前のナカジの台詞を思い返していた。
ナカジの提案により額から汗を流していたアカネは最初のうちは風呂に入ることを了承することを渋ったが、自身の身に着けている衣服が掃除の際に飛び散った返り血で汚れていることに気が付いたことで着替えるついでに風呂に入ることを了承したのだった。
秋の暮だというのに、長袖でいても寒いと思える日も多いが汗を流すほどの運動という名の掃除をしたアカネは汗を温水で洗い流す心地よさに浸りつつ、先ほど交わした軽い会話の続きを思い出していた。
「絶対に覗かないでくださいね」
実家ということもあり、独り暮らしをする以前に使っていた古めの下着と衣服を用意して浴室とリビングを隔てるドアの前に立っているアカネは、こちらを見ていたナカジに対してそう伝えた。出会って間もないナカジに気を許していたアカネだったが、完全に信用していた訳ではなかった。ナカジは命の恩人なのだが、彼もまた男である為だ。
「いくらアカネくんが魅力的だからと言っても、俺は至って真っ当な紳士だから覗かないよ。……それに、襲ったりもしないから安心してほしいねえ」
じっとりと自分を見やるアカネに対して諭すようにナカジはそう伝えた。それから付け加えるように、
「それに、君のご両親とご友人の遺灰を庭に埋葬する役目もあるからねえ。完全に日が沈む前にやっておきたい」
ナカジはそう言い、窓越しに庭で燃え尽きた死体が残した遺骨と周囲の炭になった木材に目を向けた。そんなナカジを見てアカネは少し申し訳なさそうな声音で伝えた。
「すみません……、よろしくお願いします」
アカネにそう頼まれたナカジは「ごゆっくりどうぞ」とだけ言葉を残し、庭の方へと歩いて行った。
遺体を燃やし終えた後にナカジが「遺骨どうしようか」とアカネに持ちかけていたのだが、アカネは庭に遺灰を埋めたいという答えを出した。ナカジはそれについて理由を聞いてくるわけでもなくすんなりと了承し、「風呂に入っている間に埋めておくよ」と言ってきたのだった。アカネは本心では埋葬に立ち会いたい所だったが、埋められる遺骨を見るとまた泣きそうで敢えて立ち会うことをやめたのだ。
「聞いてくれればよかったのに……」
ボディタオルで身体を拭うアカネはそうぽつりと独白した。実はアカネはナカジに庭に遺灰を埋める理由を聞かれた時の為に答えを用意していた。その理由は単純に家族の想い出がたくさん詰まっている場所が庭だったからだ。本来なら家族の伝統に倣って祖先が眠る代々守ってきた墓に埋葬したかったところだが、やむを得ない。ナカジさんは私の気を利かしたのだろうか。アカネはそう考えた。
身体の頭からつま先まで汗を洗い流し終えたアカネは香料の良い匂いを纏いながら脱衣所に出た。一瞬だけこの世がパンデミックが発生していることを忘れたが、ランドリーバスケットに入った血の付いた衣類の匂いで意識が現実に引き戻された。
脱衣所の棚に収納されていたバスタオルを慣れた手つきで取り出し、綺麗に身体の水気を拭ったアカネは用意していた衣類を身に着けると先ほど脱いだ衣類を全て手に抱えてリビングへと出た。無論、入浴前に身に着けていた下着はナカジに見られないようにセーターに包んである。
リビングにはソファで寛いでいるナカジが居た。食器棚から勝手にガラス製のコップを拝借しており、水道水を汲んで涼しい顔をしながら嗜んでいる。部屋の窓という窓には全てカーテンが下ろされていた。
「勝手に使わせてもらっているよ」
風呂上がりのアカネを見つけたナカジがコップを少し掲げながらそう言った。
「人の家の食器棚を勝手に物色するなんて失礼ですね」
アカネはそう言いながら抱えていた衣類を蓋付きのゴミ箱へと放り入れた。
「ごめんねえ……、本当はアカネくんがお風呂から帰るまで待とうと思ったんだけれど、もちろんそれが筋だから良識的には良くないことだとわかっていたんだが……、いつ水道が止まるかと考えるとうかうかしていられなくてねえ。そう考えるとすぐに水を飲まざるを得なかったよ」
ナカジはコップを持つ手を少し揺らし容器の中で波打ち踊る水を見つめながら申し訳なさそうにそう言った。
そのしおらしい反応に年上の男に抱いていた、まあ主に父親のような男性のイメージとはかけ離れたナカジのリアクションは新鮮であり、それがアカネの心を揺さぶった。僅かに込み上げた怒りの感情は瞬く間に泡沫のように消え去り、温和な声音と共に気持ちをナカジに表した。
「まあ……、こんな緊急事態ですもんね。無礼も悪態も気にしないです。我が家だと思って好きに寛いでください」
「ありがとう」
ナカジは短く礼を伝えた。
「私もお水飲もうかな」
そう言い、アカネは普段から愛用していた子犬のマスコットキャラクターが描かれたマグカップを慣れた手つきで食器棚から取り出したのだが、それをアカネはまじまじと眺めた。
アカネの精神は完全に元通りになった訳では無い。両親や友人を失った悲しみを一時的に忘れていただけであり、ふとした時や、想い出の品に触れればそれがトリガーとなって記憶が甦ってくるのが人間というものだ。アカネは例外に漏れず、そのマグカップと両親にまつわる思い出が脳内に溢れていた。
「どうしたんだい?」
様子のおかしいアカネに気がついたナカジが声をかけた。
「あっ……、いえ。大丈夫です。少し疲れたみたいで、ぼーっとしていました」
慌てた素振りで蛇口をひねったアカネはマグカップに水を入れた。それから一口飲むと口を開いて部屋の変化に口を出した。
「さっきまでそこにまとめて置いていた荷物ってどうしたんですか?」
「それなら俺の車に積んで置いたよ。エンジンをつけたままだったし鍵を抜くついでに。もしかしてまだ持っていきたいものがあったのかい? それなら明日また積み込めば良いよ」
「いえ、荷物が無くなっていて、それが気になっただけだから積みたいものとかはないです。積み込みありがとうございます」
そう言いながらアカネはマグカップを待ったまま歩いていく。そしてアカネはナカジの座るソファを横切り、リビングの出口にナカジに背を向けながら立った。その間にアカネは一度もナカジの顔を見なかった。
「明日……、この家を出る時間って早いですか?」
背中越しにアカネはナカジにそう聞いた。仮にテレビがついていたら掻き消されてしまいそうな程にか細い声だった。
「アカネくんが目を覚まして、そして食事を取ったら出発しようと思っていたよ。それが朝でも昼でも夕方でもねえ。まあ、さすがに夕方まで寝そうなら起こすつもりだけれどねえ。……もう休むのかい」
ナカジは濡れたカラスの羽のような漆黒の黒髪が肩甲骨付近まで垂れるアカネの背中に向かってそう言った。
「はい。疲れてしまったので。お風呂に入ってスッキリしたところで寝ようと思います」
「それがいい。ゆっくり休めるのがひょっとすると今日が最後かもしれないからねえ」
その台詞はナカジにとっての助言だった。この先何が起こるかわからない以上、不測の事態に備える為にも、眠れない日々が訪れるかもしれない故に、休める時に休むのが良いに決まっている。ナカジはそんな憂いを考慮してそう伝えた。
それを知ってか知らずか、アカネは短く「おやすみなさい、ナカジさん」と、それだけをナカジに言うとリビングから二階にある自室へと向かった。
自室に持ち込んだマグカップを机に置いたアカネは、幼い頃から世話になっていた古き良き寝慣れたベットに仰向けになった。それから目を深く閉じて過去の想い出に耽った。閉じた瞼の隙間から涙が目尻を伝って枕を濡らしているが、そんなことは構いもせずにアカネは涙を流し続けた。決別への涙だった。
ナカジといる時はそんなに寂しさを感じなかったけれど、ひとりで自室にいると静寂が余計に孤独感を助長させた。そしてそんな感情もつかの間のもので、アカネは皆と楽しく過ごす何不自由のない、本来なら有り得ることの無い幸せに満ちた夢を見ていた。両親も友人も親友にも囲まれた楽しげな食事会を開いている夢だ。
「……夢」
目を覚ましたアカネが瞼を開けて夢が夢であると自覚した時にそう独白していた。
部屋はまだ暗い。アカネは上半身を起こしてふと窓に目を向ける。外に広がる闇の中では街灯がよく目立っている。人の姿も、車が通る気配も、ゾンビらしい屍の姿も無い。
アカネはベットの縁に座った。泣いたせいで浮腫んだ顔の具合を手で確認したアカネは小さく溜息を吐いた。それから立ち上がったアカネは一階のリビングへと向かった。アカネが電気を付けずに夜目を使いながら階段を降りていた。リビングのドアの隙間から電気の光が漏れている。ナカジはまだ起きているのだろうか。それとも電気を灯しながら寝ているのだろうか。アカネはそんなことを考えながらリビングのドアを開けた。
「おや、随分早い目覚めだねえ」
ソファで横になり本を読んでいたナカジが、ドアを開いて間も無いアカネを見るなりそう言った。ナカジの視線はアカネの目に行っていたのだが、先程よりも顔が赤らみ腫れぼったくなった顔付に気がついた。そしてそれを引き起こした原因が何なのかをナカジは何となくだが察した。
「わたし……、どれくらい寝てましたか?」
「そうだねえ」
そう言い、姿勢を正して座り直したナカジはリビングの時計を見やる。
「4時間くらいだねえ」
「そうですか」
アカネはそう言いながらリビングへと入ってくる。ドアを閉めると真っ直ぐにナカジの方へと近寄る。ナカジはアカネの動きを視線で追っていた。
そしてその送られてくる視線を知らないフリをしながら、恥ずかしそうにアカネはナカジの横に座った。
「寝足りないので……、まだ寝ますね」
赤らんだ顔をナカジから背けながらアカネはそう伝えた。
「そうかい。ゆっくり眠るといい」
ナカジはそう短く返した。
そしてアカネはナカジに身を預けるように寄りかかった。
「ここで寝るのかい」
読んでいる途中だったナカジは本を開こうとしたのだが、思いもよらなかったアカネの行動に狼狽えるようにそう言った。
「ダメですか?」
目を閉じているアカネがそう言う。呂律が回っていないようで声音には眠気を感じられる。
ナカジはそう言われ微笑むと「いいよ。おやすみ」と言い、それから少しして、
「眠れなかったらちゃんと布団がある部屋で寝た方が良いよ。疲れが取れないからねえ」
ナカジがそう言う頃、アカネは既に深い眠りに落ちていた。そんなことを知らずに、ナカジは自分が言ったことを少し後悔した。親しかった人が立て続けて亡くなった後で一人で眠ることは孤独心を募らせることをナカジは知っている。自身も過去にしんどかった時は実家に帰って眠ったほどだ。老婆心で伝えた言葉が冷たい風に感じさせたかもしれない、とアカネ顔を恐る恐る見たナカジだが、すやすやと眠る寝顔を見て杞憂だったと安堵したことをアカネには内緒にしておこうとナカジは密かに決めたのだった。
結局ナカジは昨夜寝ることは無かった。少なからず人体の健康的な影響はあるが眠らないことに慣れているナカジは平気だった。
アカネが自然に起きた時間はまだ朝だった。その時間に起きる習慣がついていたことでアカネは目が覚めたのだ。アカネはナカジが自分よりも先に起きていたのだと思ったのだが、気になって、「昨日、寝ましたか?」と聞いた。そしてナカジの「寝てないねえ」という返事を耳にして、アカネは聞かなければよかったと後悔した。
「私が邪魔だったせいで眠れなかったですよね……。ごめんなさい」
「いやいや、本が面白かったから最後まで読んでいたら朝だったんだよねえ」
「……こんなパンデミックが起こっている状態で、人にはゆっくり寝た方が良いとか言っておきながら、発言した本人がそれを体現できていないなんて……。でもそれはやっぱり私が横にいたから眠れなかったんですよね……」
そう言い、アカネは暗い顔をするが、ナカジが「一日どころか二日眠らないこともあったから全然大丈夫」と、自身の現役時代だった頃の話を持ち出すことで、アカネは邪魔ではなかったのだと納得して貰えたことで難を逃れることができた。
朝食を食べたアカネとナカジは庭に眠っているアカネの両親とコズエに向けて黙祷した。ナカジにとってそれは大事な娘を今後引き連れ回す前の挨拶のようなものであり、宗教的な意味は無くご両親への報告を行った認識だった。アカネにとってそれは別れの挨拶だった。ひょっとしたらもうここに戻れることは無いかもしれないし、死者と生者の儀式的で宗教的な挨拶の意味も込められていた。
ナカジは先に家を出て車のエンジンをかけて待っていた。運転席に座らず、エンジンの駆動音で周囲のゾンビが寄ってきていないかと警戒しながらアカネを待っていた。
それから少ししてアカネが家の鍵をかけてナカジの元へとやってきた。手間取った理由は単純に忘れ物が無いかを確認していたからなのだが、不備はないようでアカネは満足そうな顔をしながらナカジの用意していた車の助手席に乗った。
「それじゃ、行くよ」
その台詞を合図に運転席に乗るナカジがアクセルをゆっくり踏んだ。徐行する車は次第にアカネの実家から距離を置いていく。
アカネは名残惜しそうに窓ガラス越しに家の外観を眺めた。曲がり角に差し掛かり、家自体が見えなくなるその時までその姿勢は変わらなかった。
それから少ししてアカネが「あっ……」と、短く声を出した。
「どうしたんだい?」
反射的に反応したナカジに対し、アカネは恥ずかしそうに顔を伏せながら「ごめんなさい、なんでもないです」と、お茶を濁した。それ以上ナカジは何も聞いては来なかった。
実はアカネは実家に忘れ物をしていた。入念に確認したつもりだったが、あまりにも自然に机に置いてあったので持っていくという意識の範疇外だったのだ。
アカネのお気に入りだった、子犬のマスコットキャラクターが描かれたマグカップ。それをアカネは実家から持っていくつもりだった。しかし、思い出した後で、やっぱり持っていかなくて良いな、という気持ちになったからナカジにはなんでもないと伝えたのだ。
マグカップは家で飲んでいた方が良いに決まっているから。それに、また家に帰る為の口実にもなるからだ。お気に入りのマグカップを嗜むために。




