忘れない
もし私に時間を戻せるような、タイムトリップができる超能力があったのなら、きっと過去に戻ってナナミとマナに帰ることを促さずにふたりをぎゅっと抱きしめて、これから起こるだろう非常事態に備える思案をするのに。
アカネは憐れな姿となったナナミとマナを見て茫然と考えていた。
涙がとめどなく目尻からこぼれているが、視界が涙で霞んでもアカネはそれを拭おうとはせずに、まるでそれに気が付いていないかのようにゆらりふらりと徐々に近づいてくる二体のゾンビを見つめていた。
ナカジはただならぬ様子のアカネを見て困惑した。涙を流す理由を探ろうとして、アカネが見ているゾンビを凝視した。背格好と容姿を見るに恐らくアカネと何んらかの親しい関係を持っていたのだろうと察した。
ナカジはこういう場合にかける言葉を思いつかなかった。何も言わずナカジは先ず目の前のゾンビから距離を取るために、そして自身の車を見つけて早く安全な場所へと向かう為にその場から移動しようと歩き出し、再び車探しを続けた。
ナカジに背負われるアカネは必然的にナカジと同じ方向を向いているのだが、それでもアカネは首をひねり横目で背後に見える二人のゾンビを見ていた。アカネの目から涙は流れ続けたままだった。
自分の車を見つけたナカジはズボンのポケットの閉まってあった遠隔操作型の鍵でドアを開けた。甲高く短い音が鳴る。その音に反応するように周囲のゾンビはナカジの車の方に顔を向けてそこへ歩き始めていた。
その様子を見てナカジは急いで背負っていたアカネを助手席の前に下ろし、助手席のドアを開けていそいそとアカネを乗せた。そして自身も運転席へ座り、ドアに鍵をかけてからエンジンを噴かした。
その時、ドンッという鈍い音が運転席の窓から聞こえた。小太りな中年だった男性のゾンビが窓ガラス越しに顔面を押し当てていた。見た目は普通だが首筋に大きな裂傷と歯形が無数に付いており、恐らく死因と感染源はそこだった。ナカジは一見してまだ人間に見えるその顔を見てため息を吐いた。
「ぱっと見ると人間だけれど、魂はもう死んでいて肉体はゾンビになっているんだよねえ。当たり前のことだけれどこの人はもう人としての自覚はないし、死して生き返ることは人としての定義から逸脱しているから区分的には化け物になるってことで、最早人ではないんだけれど外見はどう待ても狂ってしまった人にしか見えないんだよねえ。こうして命を奪いに来ようとする行為は恐ろしいけれど、死してなお人本来の狩猟本能を刺激された結果が招いているのか否かわからないけど皮肉だねえ……。ゾンビには色んな種類の設定があるゾンビ映画や創作物があるけれど、この世界のゾンビはどういう性質を持つようになるんだろうねえ?」
ナカジは独白した。アカネに聞いたつもりではいたけれど。
暗い表情をするアカネは黙ったままだ。
「三十六計逃げるに如かず、ってね。とりあえず、車を出して大学構内から出るよ。それからアカネくん、君の」
ナカジがそう言いかけた時、今度はアカネの側の窓ガラスから鈍い音がふたつした。
そしてその窓ガラスには先ほどアカネがその様子を見て取り乱した元凶となったゾンビが二体、ゾンビになったナナミとマナがいた。遠目で見るよりもその表情はグロテスクだった。マナだったゾンビは顔の表皮という表皮が無く、表情筋むき出しのその顔は流血も相まって痛々しく、瞼の無い眼球は赤く染まり陥没していた。もう一体のナナミは反対に殆ど皮膚は残っていたが喉元が大きく引き裂かれており顔は血の気がなく青白さを通り越して雪のように白かった。
「ひっ……!」
アカネは声にならない声で短い悲鳴をあげた。
ナカジもアカネの向こう側に見える2体のゾンビを見てぎょっとした様子だった。ナカジにはその二体のゾンビがアカネを睨んでいるように見えた。
「ごめんなさい……!ごめんなさい……!ごめんなさい……!」
アカネは俯きながら唱えるように何度も何度も許しを求めていた。様子を見兼ねてナカジはアカネの肩を掴んだ。アカネの肩に触れ身体が小刻みに震えていることを知ったナカジはその場からすぐに離れるべく車を動かした。
「出発するよ」
ナカジはそういい、車を駐車場から動かした。
その際に両サイドにいたゾンビはサイドミラーにぶつかりその場に倒れ伏した。人体にぶつかったサイドミラーは簡単に所定の位置からズレてしまい明後日の方向を向いているがナカジは気にせずに車を発信させた。それよりもナカジはアカネの方の窓ガラスが、先程の少女だったゾンビが塗りたくった血で染っていることの方が気がかりだった。倒されたゾンビ達はその場でもがきその後立ち上がりナカジ達が乗る車を追おうとしていたが、そんなことは既に遠くに行った車に乗るナカジ達にはどうでもよいことだった。
無事に大学の構内から脱出したナカジは車内で情報収集しようとして付属されているカーナビゲーションでテレビを開こうとしていたのだが、どの放送局の電波も受信することができないでいた。それどころかラジオの電波放送も受信できずに今社会がどういう状態に陥っているか把握できなかった。
走行中の車窓から見える街中の景色も凄惨なもので、小火の上がる民家、路肩や民家の壁や車両同士で事故を起こしている車道、道の端で複数のゾンビに襲われている人々があちらこちらで散見することで何処も安置など無いのだと思わせる。ナカジは苦虫を噛み潰したような顔をした。
大学は郊外に構えられており、近隣の閑静な住宅街を抜ければ後は道の広い都市と都市を繋ぐバイパス道路に繋がる。現在ナカジは渋滞を避ける為に車の移動がしやすい場所を通っていたのだが、あまり凄惨な外の景色をアカネに見せたくないナカジは時折ちらちらとアカネの様子を見た。まあ、語りかけるタイミングを見計らっていたと言うのもあるのだけれど。幸いなことにアカネは俯いているままだった。
余程のショックだったのだろうか。先程のゾンビになってしまった少女2人はきっと親しい友人だったはずだ。ナカジはアカネを誰か親しい人、例えば両親や祖父母がいる場所の元へ届けようと考えているのだが、外の様子を見るに今は安全なところなど無さそうだと思わざるを得なかった。
車内は静かだった。そのせいで車外からの悲鳴はよく聞こえた。それはイコール誰かの死を予感させるような切迫したような声音だった。そんな音が何度も何度も車内には響いていた。
「みんな死んじゃったのかな……」
アカネは不意にそう呟いた。
ナカジはそう聞いて横目でちらりとアカネの方を見た。アカネを顔を上げてフロントガラスをじっと見ていた。車の先にはまだまだ悲劇は続いていて、道路の真ん中で悠々と食事に勤しむゾンビ達は数多くいた。それらを避けながら上手いこと運転するナカジは口を開いた。
「俺たちみたいに逃げている人はまだまだいると思うよ。それに自衛隊がおそらく鎮圧作戦に出るはずだから大丈夫さ」
ナカジがそう言うと車内には再び沈黙が流れた。
それからまたナカジがちらりとアカネを見た。アカネは今度は助手席の窓にこべり着いている、乾燥しきった血潮を見ていた。
知りたがりのナカジは気がかりだったが敢えて避けてきた質問をしてみた。
「さっき窓に張り付いてきたふたりの女の子は友達だったのかい」
ナカジがそう聞いてからまた車内に静寂が戻った。それから少しして、アカネは血潮を見つめながら呟くように答えた。
「ナナミとマナっていうんです、あのふたり。顔がぐちゃぐちゃになっちゃっていた方がマナちゃんで、顔が白粉を塗ったかのように白くなっていた子がナナミちゃん。ふたりとも私のことをよく慕ってくれて、まるで実の姉のように……。私も彼女たちを本当の妹のように可愛がっていて……。明日は買い物の予定を立てていて、私のドレスコードをふたりがしてくれる約束をしていたんです。私、流行に疎くて、綺麗なのに質素で素朴すぎる格好だからダメだって言われて、だから明日は元気なふたりに会う予定だったのに……。目の前で、彼女たちふたりは何処の誰かもわからない化け物に襲われてしまいました……。私は彼女たちを救おうと思った時にはもうゾンビの群れに囲まれていて最期を見届けることしかできなかった。悔しい……。私があの時、帰ることを促さずに引き留めていれば死なずに済んだのに……!私のせいで……!」
最後の方のアカネの言葉は涙声で、声音の節々は声にならない声で嗚咽のような言葉もあった。
ナカジは一切アカネの方を見ずに聞いた。そしてアカネが数秒以上の沈黙を置かない場合、一切の相槌を打たなかった。
ナカジは何も言うことをせずにアカネの肩に手を置いた。それからナカジは自身の左手でアカネの右手をぎゅっと握った。アカネはそれに応えるように手を握り返した。
「思い出させたようでごめんねえ」
ナカジはそうアカネに謝罪した。
ナカジの温もりを右手に感じているアカネは残った方の手で涙を拭いながら、
「大丈夫です。話せて少し楽になりました。本当にショックなことで、きっと誰かに話さないと心が押しつぶさていたと思います」
アカネはそう言い少し微笑んで、涙が止まった様子だった。
ナカジはそんなアカネの様子を横目でちらりと見て朗らかな笑みを浮かべたあと、真面目な顔をして言葉を紡いだ。
「ただ……、彼女達のことをずっと覚えていてあげてね。きっと思い返す度にゾンビになってしまった彼女たちも連想してしまって辛くなるかもしれない。それでも、これまで育んできた思い出を時折でいいから思い返して、記憶の中の彼女たちに出会ってほしいんだ。へこたれそうな時、挫けそうな時、きっと彼女たちが力を貸してくれるから……」
アカネはそう言われ、過去の中にいるナナミとマナとの日々を思い出して再び瞳に涙を貯めていた。そして瞬きをする度に堪えきれなくなった涙が頬を伝った。
「……はい」
アカネは短く、そして小さな声音でそう答えた。




