3 光の王女とささやかな茶会
新婚の一言で公務のほとんどを外されているユーラリアは、自分の管轄研究施設でもある温室に来ていた。総ガラス張りの建物は、正直いくら掛かったか考えたくはない。ユーラリアが幼い頃に無邪気にねだって造られたものである。当時は珍しい花を育てさせるだけであったが。
「私は何をやっているのでしょう……」
温室中央の、薬草や野菜ばかりとはいえ庭師兼研究者が苦心して美しく整えた緑の中、ユーラリアは、書類が数枚とインク壺、ペンが載った瀟洒な白いテーブルの上に右頰をつけて潰れていた。普段の彼女を知っている者が見れば二度見する程に、その姿ははしたなかった。
無論、一通りの武術を修めたユーラリアは、近くに人の気配がないことを抜かりなく確認している。兄フィーリオが七年前に暗殺されてから、息をするように気配察知するようになっていた。
「カイ殿に悩まされたくなくて、仕事しに来ましたのに、全く集中できません。やはり寝不足が原因でしょうか」
ユーラリアは目の下に指をやった。アンナに巧妙に隠させたものの、そこには濃い隈があるのだ。恋愛経験は無いが相応に耳年増に育った彼女は、夫になったとはいえほぼ他人のカイが同じ部屋にいるだけで緊張していたのだ。眠れるはずがない。
卓上に散らばった数枚の書類は、彼女がここに来た時から変化していない。ペンはいたずらにくるくると回した程度、インク壺に至っては蓋すら開けていない。
両手の薬指にはまった金と銀の指輪――王位継承者を示すものと結婚指輪――が冷たく光を弾き、仕事を放棄しているユーラリアを批難している気さえする。
「ハア……。あんなこと、言うつもりはありませんでしたのに。私はまだまだ子供ですわ……」
彼女が後悔しているのは、カイに対して「結婚を好ましいと思っていない」と言ってしまった昨夜の出来事。
式典とパレードで疲れていたのか、ついウッカリ本音が漏れてしまった。次期女王を自認するユーラリアとしては、ありえない失態である。
一個人として言うなら、ユーラリアはカイが好きではない。ユーラリアが必死に努力して磨いてきた光魔法を技術ごと、半分ほどは残ったとはいえカイに奪われたのだから。そしてカイは彼女から抜きとった力で、本来なら彼女の仕事を見事に成し遂げた。それは彼女が得るはずだった名声を失った失望感と同時に、責務を果たせなかったという自責の念を、ユーラリアに齎していた。
それは別にカイのせいではないことも分かってはいるのだ。ユーラリアは、カイが光魔法以外は相当努力したことを知っているし、その人格が穏やかであり異性として好ましいと判断せざるをえないことも知っている。
また、ユーラリアの能力は、突出していたのが光属性というだけで、多方面にも優秀できちんと自身に価値があることも理解している。
事実として、直系の王族は彼女の他には彼女の父と十にも満たない従兄弟だけと言っていい。彼女が万が一にも死ぬようなことは、国としてほぼあり得ない未来だったためにカイを用意したのは、自分たちである。
責任転嫁など、見苦しいことは百も承知で、彼女の心は山の天気よりも激しく移り変わっていた。次期女王として理性的に導かれる判断と、十八の小娘らしい感情が、代わる代わる顔を出すのだ。
「ユーラリア殿下、お茶はいかがです?」
ダレていたユーラリアは跳ね起きた。声を掛けてきたのは、彼女の悩みの種のカイ・タイラだった。
七つ年上の彼は、その有り余る身体能力でもって無意識に気配を消し、ユーラリアの気配察知を掻い潜ってきた。いくら器の性能がいいとはいえ、いくら実戦を経験したとはいえ、恐ろしいほどの才能だとユーラリアは思う。
そしてにこにこと微笑ましげに見つめられると、さっきまでの醜態を思い出して顔が熱くなった。
「お疲れですね」
「……ええ、まあ。ところで、なぜカイ殿がお茶を?私の目が悪くなければ、あなたは手ぶらに見えますが」
誰のせいだと思ったが、ユーラリアは自分の状態から話を逸らすべく、普通ならアンナが給仕することを指摘した。
時空魔法による収納空間から白磁のポットとカップ、数種類の菓子がカイの手元に現れる。
「アンナ殿から奪ってきました」
「……ふふ」
お茶目に片目を瞑るカイがイマイチ様になっておらず、ユーラリアは毒気が抜けた。昨夜の確執はあまり気にしないでいいだろうと判断できたのも大きいかもしれない。
カイは一流の使用人のように淀みない動作で薄黄緑色の茶を淹れた。ユーラリアにとっては初めて見るお茶だ。
「珍しいでしょう?旅の途中で見つけた、俺の祖国でよく飲まれるお茶なんですよ。ペングラという国の産物です。花茶がよければ、そちらにしますが」
「まあ、そうなのですか?折角ですから、ペングラのお茶を頂きますわ」
人好きする笑みを浮かべて、テキパキと休憩の支度を整えるカイ。二人分の用意はささやかですぐに終わってしまう。準備を終えたカイが向かいに座ると、いつもは一人で休憩していることと、給仕の者がそのまま座らないことを思いあわせて、ユーラリアはどこかおかしく思った。
ユーラリアは無地のティーカップに手を伸ばす。湯気は、常より勢いがなく、直にカップ本体に触れても熱くはなかった。
「すこし渋くて、甘い?不思議なお茶ですね」
「ええ、砂糖やミルクを淹れなくても仄かに甘いんですよ。塩気のあるお菓子が合うんです。お供の揚げ菓子とも相性は悪くないでしょう?」
ユーラリアは、のり煎餅が有ればなぁ、と呟くカイを不思議に思う。昨夜の「お前なんか嫌いだ事件(ユーラリア命名)」は、彼の中でどうなっているのか、よくわからなかった。
しかし、箱入りで育ったユーラリアには友人と呼べる存在がおらず、常に仲が良さそうにおしゃべりするメイドたちや騎士見習いを眺めては羨ましいと思っていたから、今の至極穏やかな会話を楽しく感じていた。この空気を壊したくはなかった。
「他に、どんな食べ物があるのでしょうか?」
「そうですね……。まず欠かせないのが米です。そして大豆。この世界では、オリュザという家畜の餌とソーヤという豆が似ていますね」
些か色気に欠けるものの、それなりにお互いが理解できる分野の話で二人は盛り上がった。
ユーラリアは元々、パーセゴートで栽培する小麦や野菜の収穫量向上のための品種改良の指揮を任されはじめていたし、カイはなかなか食にうるさい。
カイは社交的で、旅の折々に採取したり買い取ったりして隠し持っていたものを、各地の様子を絡めて見せるものだから、ユーラリアも彼のグルメ旅行を追体験するようで非常に楽しかった。
「そうだ、殿下。少し謝りたいことがあって」
「なんでしょう?」
大半の菓子が尽き、大分打ち解けたころに、カイが切り出した。ユーラリアは訝しげに問い返す。彼女には、彼が自分に対して謝らなければならないことをしたという認識がない。
「今日、魔道士長を訪ねて。俺が、あなたの力を奪ったことを聞きました。すまなかった……!」
勢いよく頭を伏せたカイには見えないだろうが、ユーラリアは僅かに眉を顰めた。
何を今更。どうせなら、傲岸不遜に振る舞ってくれるならば、恨み続けられるのに。謝られては、心のどこかで確実に彼を許してしまう。
ユーラリアは手に取るように自身の心の変化を把握した。
「……ここで許すと言わなければ、私が悪者ですわね。そもそも貴方は、どちらかといえば私たちの被害者でしょう?恨むのは貴方で、謝るのは私たちではありませんこと?」
ユーラリアのつい露悪的になる口調に、カイは顔を上げて頬を緩めた。一つ胸のつかえが取れ、晴れ晴れと満足気でさえある。
「いや、まあ。でも俺は、彼方では既に死んでいたようだから。ありがとう」
「訳がわかりません」
ユーラリアは自身の恨みがフッと行き場を失って、つんけんした態度を取ってしまう。しかし、この棘はおそらく、時間と共にすり減り、その鋭さを失っていくだろう。
カイは生暖かいものを見るような目をしていた。
ユーラリアは自分がまるで幼子のように扱われていることを自覚して、フイと顔を背けた。カイの忍び笑いが耳に届き、ますますカイに向き直れない。
しかし、カイが笑いを収めて真剣な声音で話しかけてきたので、ユーラリアも彼の方へ顔の向きを戻す。
「実は……、も何もないのですが、俺は何をすれば?王婿としての仕事って、有りますか?無駄飯食いとは呼ばれたくない、じゃなくて、多少はこの国の役に立ちたいのです」
カイは何かを言いかけてやめたようだったが、ユーラリアは指摘しなかった。必要ならそのうち話してくれるだろうと、先ほどまでの会話から覗くカイの素直な性質を信じたからだ。加えて、カイがパーセゴートに対して多少愛着を持っているようにも感じて驚いていた。
多少崩れた敬語にも親しみを感じて、ユーラリアは幾分素で微笑んだ。
「最大の仕事は、夜の営みですけれど。昼間は一緒に執務をしましょう。今は、丁度作物の品種改良についてですの」
ユーラリアはぺらぺらと横に片付けていた書類を一枚取って掲げた。
「ありがとうございます。……夜の方は、のんびりやっていきませんか」
カイは次代の王を生むことに及び腰と見える。仲間を見つけた気分だった。実際、一種の運命共同体なのだ。奇妙な現実に今さら気づかされておかしく感じた。
「まあ。でも、そうですね、ゆっくりも、良いでしょう。何せ、私たち、昨日がきちんと話した最初の日ですもの」
「今日では、ないのですか」
「そうかもしれませんね」
ユーラリアは彼が存外初心なのだと考えた。恋愛経験のない彼女自身にとっても、のんびりと愛しあっていくという提案は非常に肩の荷が下りるものだったのだ。くすり、と笑った音が自分のものだと遅れて気づく。
「では初めに、リア、と呼んでくださいな。いつの間にか戻っていらっしゃいますよ」
「えと、リア……殿?」
「リアでしてよ」
「リア、さん」
「まあ、良いでしょう」
困ったように頬を掻く目の前の男性を、ユーラリアは希望をもって見つめていた。その後、自分にも呼び捨てを強要されるとも知らずに。
まだ猫を被る勇者