怪しい人
「今日も平和だね~、アネ」
雌ヤギのアネと並んで草原を歩きながら、マリィナはあくびをした。
メェ~、とアネが間延びした鳴き声で応える。
ここはグラトリアス王国の東に聳えるララシア山脈。その山奥に広がる高原地帯。
春を迎えたこの季節、標高が高いとはいえ日差しは温かく気候は穏やかで、散歩にはもってこいの陽気だ。
ヤギの乳を搾り、洗濯物を干し終えたマリィナは、うずうずする気持ちを抑えきれず、アネを連れて散歩に出てきたのだった。
黒い影がマリィナを追い越して草々の上を移動してゆく。
空を仰げば、トビが気持ちよさそうに空を飛んでいる。
「空、気持ちよさそうだね~」
メェェ~。
「この辺で休憩しようか」
メェェ~。
マリィナが手ごろな石に腰を下ろすと、アネははむはむと草を食みはじめる。
マリィナは小脇に抱えていた楽器を膝の上に乗せた。
木枠に七本の弦を張ったリアラという楽器で、竪琴の一種だ。
母親がマリィナに残してくれた唯一のもの。
弾き方は幼い頃に母親から教わった。
ぽろぽろぽろん、と順に軽く弦を弾いて音を確かめる。
うん大丈夫。
それから目を閉じて、好きなように音をつなげてゆく。
母親から習った曲はいくつもあるけれど、その日の気分で適当に曲を奏でるのがマリィナは好きだ。
ふんふん、と鼻歌を加えたりもする。
吹き抜ける風が気持ちいい。
どこか遠くで鳥が鳴く声が小さく聞こえる。
どこか遠くで鳥が――。
鳥――。
鳥、と……?
「ちょっと……ださい」
「……や待て……い」
「置いて……ないで……」
鳥……だけじゃない。
人の声が混ざってる。
マリィナは驚きに手を止め、目を開けた。
この辺りに人が来ることはめったにない。
峠へと続く道からは外れているし、わざわざ来なきゃならないほどめずらしいなにかがあるわけでもない。
だから、来るとしたらせいぜいわたしを迎えにやって来る幼なじみのフィールくらいのはずなんだけど、届く声は知らない人のものだ。
しかも複数人。
迷子?
アネがゆっくりと顔を上げて、口をもぐもぐさせたまま声のするほうを見やる。
マリィナもそちらの様子を窺う。
こちらに向かってくる人影が三つ。
先頭の人が、「おぉぉぉぉぉ」と叫びながら、何故かすごい勢いでこちらへ走ってくる。
あとのふたりは、その人を追いかけているようだ。
「え? ええっ!?」
自分のうしろになにかあるのかと思って振り向いたマリィナだったけれど、そこには青々とした草々と小さな花たちが広がるばかりで、慌てて駆け寄る必要のありそうなものは見当たらない。
どういうこと?
首を捻りながら三人へと目を戻したときには、先頭のひとりの姿が迫っていた。
どうやら青年のようだ、と気づく。
淡い栗色の髪の下の、青紫の瞳が印象的だけれど、それ以外はどうといった特徴のないあっさりとした顔立ちをしている。
「ど、どうかしたの―⁉」
マリィナが投げかけた問いは、青年の「見つけたぞーっ!」という叫び声にかき消された。
じり、とマリィナは後ずさる。
よくわからないけど、危険な気がする。
様子が尋常じゃない。
カッと見開かれた目がマリィナを捉えて揺らがない。
「逃げなきゃ……」
マリィナの呟きに、メ、と短くアネが鳴く。
膝の上に乗せていた楽器を抱きかかえると、マリィナは一目散に逃げ出した。




