家達さんは朝が弱い
軽い頭の体操ぐらいに楽しんでいただければ幸いです。
都内某所のとある雑居ビルの二階に、『家達探偵事務所』と窓に書かれた事務所があった。
ある朝のことである。
事務所の別室にある住居スペースにて、天蓋付きベッドで探偵が眠っていた。仰向けで目蓋がきっちりと閉じられているので、死んでいるかのように見えるが、微かに胸が上下しているので、彼女がただ深い眠りについているだけということがわかる。
「わーお、まだ寝てるねえ」
眠る探偵に一人の女性が近づいていく。毛先がパーマ気味に跳ねたショートカット。低めの身長と浮かべた笑みは幼げで、身に纏った黒いパンツスーツと噛み合わない印象を与えている。
「しゃーなちゃーん、起ーきてよーぅ」
女性のアニメ声に探偵の長い睫毛がピクリと動いたが、相変わらず閉じられたままだ。しかし、女性はニコニコと笑いながら眠る彼女にさらに近づいていき、
「『翔子は紗奈の寝顔に徐に近づき、その無防備な唇に自身の唇を……』」
「起きた! 起きましたわ! 朝からそのような狼藉を働くのはおやめなさい!」
こうして、探偵・家達紗奈は刑事・和戸翔子によって強制的に覚醒させられたのであった。
ある朝――それも、早朝五時前のことである。
二人はリビングに移動し、紗奈は長い金髪を揺らしながら、寝巻きの黒いネグリジェ姿のままでブラックコーヒーを飲んでいた。翔子も紗奈に付き合って砂糖とミルクをたっぷりと入れたコーヒーを飲んでいる。
「相変わらず、貴女は朝が早いですわね」
「えへへー。思い立ったが吉日っ! 急がば回れだよっ!」
「矛盾してますわよ、その二つの諺」
早起きは三文の得、だけで良いじゃありませんか、と紗奈は溜息を吐いた。
「それで? 用件は何ですの?」
「用件がないと、来ちゃダメなの?」
「少なくとも、こんな時間に来ちゃダメですわ。その服装から、おおかた通勤前に立ち寄ったといったところでしょう?」
翔子はそれを聞くと、ほほう、と感心しながら、「さすがだね。うん、その通り。探偵としての紗奈ちゃんに相談したいことがあって……」
「そんなことだろうと思いましたわ。……まあ、コーヒーを飲みながら程度でおさまるならば、ロハで聞きましょう」
「わはー、ありがとう! じゃあ、実名を伏せながら、この前起こった事件のことについて話すね。
「資産家のAさんの妻であるB子さんが、ある晩遅くに帰宅した時に、屋根裏部屋に明かりが点いていることに気づいた。
「屋根裏部屋の窓が全開になっていて、Aさんが首のまわりにロープを結んでいるのが見えた。また、ロープのもう一方の端が天井の垂木に結ばれていて、乗っていた小さな椅子をAさんがそっと蹴り倒すのも見えたそうなの。
「B子さんは慌てて家の中に入ろうとしたものの鍵がかかっていた。さらに、B子さんは鍵を失くしてしまい、警察に連絡。何とか家に入れたものの、すでにAさんは事切れていた。
「検死をしたところ、B子さんがAさんを見た時間と死亡推定時刻がほぼ一緒。死因は首が絞まったことによる窒息死。他の外傷はなし。
「屋根裏部屋にも、小さな椅子が倒れたことによる床の傷以外には、争った形跡などもない。
「普通に考えてAさんの自殺だと思うんだけど、なんとなーくこの証言に違和感があるんだよね。なんでだと思う?
「それは当然、B子さんが嘘の証言をしているからですわ」
紗奈は心底退屈そうに鋭い目尻を細めて、頬杖をついた。
「嘘?」
「ええ。翔子さんがB子さんの証言を正確になぞったのならば、彼女はおかしなことを言っているのです」
「んー? どこがおかしかったの?」
「説明しますけれど、その前に、あたくし『読者に挑戦する!』みたいなことを言った方がよろしいのでなくって?」
「あ、そういうのはいらなーい」
「貴女、意外と淡白ですわね」
「まあ、確かに、これは推理小説のトリックにするにしたって程度の低いものですからね。
「B子さんは、Aさんが乗っていた小さな椅子を蹴ったのを見たと、言いましたわね。
「ありえませんわ、そんなこと。
「Aさんのお宅の正確な寸法は知りませんが、家の外、つまりB子さんが居た低い地点からは、高い地点に居たAさんの足元は角度的に見えるはずがないのです。
「B子さんの身長が例えニメートルあったとしても、小さな椅子は見えなかったはずですわ。
「見えないはずのものが見えたという、この証言は信憑性が低い。嘘の証言をしたイコール犯人と見なすのは早計ですが、それでも資産家の奥様であられるB子さんには、もっと詳しい話を聞いた方が良いでしょうね。
「なるほど。一見筋道が通った証言だけど、割と簡単にわかる矛盾があったんだねえ。いやぁ、失敗失敗」
翔子は気まずそうな顔をして、少し舌を出す――いかにも、男好きしそうな仕草ではあるが、翔子にその気はまるでない。
紗奈はそれでも、「まあ、違和感を持っただけマシですわ」と苦笑を浮かべた。普段の紗奈は、その攻撃的な性格から更なる皮肉を浴びせるところだが、翔子とは早朝の急訪をあまり咎めない程度には打ち解けている。そのため、彼女なりの優しさがやり取りの中で垣間見える。
「翔子さん。自営業のあたくしはともかくとして、貴女はそろそろ出た方がよろしくなくって?」
指摘されて、翔子は腕時計を見ると弾けるように驚いて、
「うわぁお、もうこんな時間! そろそろ行かないと」
「コーヒーごちそうさまっ!」と、コーヒーを一気に飲み干し、翔子はスーツの上着と鞄を担いでバタバタと玄関まで駆け出して行った。紗奈も肩をすくめて、歩いて翔子の後をついて行く。
「やれやれ。天下の警視庁捜査一課の警部補がそんなことでは困りますわね」
「えー、そんなことないもんっ。したたかにしなやかに、をモットーに頑張ってるもん」
「良い歳して、もんもん言わないでください。まあ、そのモットーは案外説得力がありますが。……貴女、さっきの偽の証言のこと、本当は分かっていたのではありません?」
「あっははは。さーあねー?」
翔子は紗奈と目を合わせないように、靴を履いた。
「それじゃあ、いってくるね~」
「いってらっしゃい。そして、自分の家に帰りなさい」
手を振る紗奈を見て、翔子はあっと目と口を開けて何かを思い出したように、
「あっ、そうだ、忘れ物!」
ドアノブを持っていた手を外した。「何ですの?」と、首を傾げる紗奈。その虚をついて、翔子は紗奈に接近し唇を唇に押し当てた。
「いってきますのちゅーを忘れてたっ! それじゃっ、今度こそばーいばーい!」
翔子は嵐のように、紗奈の前から去って行った。紗奈はしばらくの間呆然とした後に、その場にへたり込んでしまった。
翔子にはいつもペースを乱される。イニシアティブを取られがちというか、むしろ普段は他の人物に対してはイニシアティブを取りに行くタイプの紗奈は、翔子にだけはそのような態度を取れない。苦手だからじゃなく、むしろ、好きだからこそ感情が乱されるというか、ああ、うう。
紗奈は両手で自分の両頬を思い切り叩いた。
あの生きる台風のような女に振り回されてばかりはいられない。
「何より、祖父より家達の名を継いだ者としては、ね」
今朝の失態は、朝が弱いからだと言い訳しておこう。
後日談、というか事件のオチ。
『私、警視庁捜査一課の礼土と申します。和戸警部補から、話を伺いました。家達さんがおっしゃった通りです。被害者の妻が容疑を認めました。つきましては、……』
「お礼ですわね。ええ、それはどうも。翔子さんにはロハと言いましたが、貴方がたから請求しないとは一言も言ってませんからね、あたくしは。貴方は、……精々巡査部長クラスでしょうか? 食べているものからわかりますわ。貴方お昼休憩中でしょう? 電話の後ろから聞こえる音からして、貴方が居られるのは、恐らく付近の平均六百円の食堂ですわね。その程度の特定など、造作もありませんわ。食べているものも当てて差し上げましょうか? 舌が少しヒリヒリしていますわね、恐らく麻婆豆腐定食でしょう。ついでに、貴方と一緒に居るお二方のメニューも……」
読了ありがとうございました。キャラの名前は某有名な名探偵の小説をもじっています。まあ、ホームズといっても家の複数形とは綴りが違うんですけどね。ではでは。