世界終末バレンタイン・アポカリプス
誰かが思った。
愛するものへチョコレートをあげたいと。
世界の結末はいつだって、チョコレートのように苦く、濃厚で、甘い。
◆
隣室から聞こえる騒音で、トシオは目が覚めた。目覚まし時計を見る――時刻は午前五時。起きるには早すぎる時間だが、いつものことだ。去年の春に超してきたばかりの新婚夫婦は、休日になると朝まで夫婦の営みに励んでいる。いいご身分だな、とトシオは毒づいた。
さらに、忌々しいことに今日は二月一四日。いわゆるバレンタインデーであり、当然のごとく若者、恋人、夫婦、親子がチョコレートを贈呈しあっている。
何がバレンタインだ、クズどもめ。
トシオは生まれてこの方、異性からチョコを貰ったことがない。そういう嫉妬も相まって、いつになく隣室の新婚夫婦の愛の営みへの殺意も深い。
「みんな死んじまえばいいんだ」
硬く湿った布団の中で、そう呟いた次の瞬間。
窓が割れた――そう認識したときには手遅れだった。天井が崩落する。壁が粉々に砕け、上階の質量が瓦礫となってトシオを押し潰した。天から降り注ぐ巨大な板チョコによって、マンションが倒壊したのだと理解する暇さえなかった。トシオの脳漿が色とりどりの臓物と共にペースト状になって飛び散る。凄まじい衝撃によって、新婚夫婦だった肉片とトシオだった肉片が仲良く混ざり合い、地上へ落下。
「なあ、ばあさん。一緒にチョコくおっぎゃっ!」
「そうぶぎゃっ!」
マンションの傍の一軒家に住んでいた老夫婦を押し潰した。
バレンタインデーにぴったりのハプニングである。ちょっとした笑いを誘う出来事が、同時刻、日本中で起きていた。
たとえば都内某所。
ミチコは今年で二三才になるOLである。駅前の歩道を、幽鬼のような表情で歩いていた。
「やだなあ、仕事……」
思わず陰気な独り言を呟いてしまう。だって、今日は日曜日なのである。本当ならお休みで、部屋でだらだらしたり、ショッピングしたり、いくらでも楽しみがあったのに。
なんで馬鹿な同僚の尻ぬぐいで休日出勤なんだろう。
就職活動、もっと頑張ればいいのかなと思った。どうしてこんな会社に応募しちゃったんだろう、有給なんてどうせ取れやしないのに。
最近は大好きなメルヘンな映画のチェックもろくにできていない。夢の国、魔法の国。きらきらして素敵なお伽噺。もちろん現実のミチコには、何から何まで縁がない話だ。
「……代休あるっていうし、うん」
頑張ろう、と奮起した。いささか不調法だが、神の視点から物語るなら、ミチコはこの日の出勤で将来の夫と出会う運命にあったりする。人生万事塞翁が馬という奴である――このとき、富士山から吹き出した熱々のホットチョコレートが日本を覆い尽くそうとしていなければの話だが。
突如、空が暗くなった。何気なくミチコを空を見上げると、茶色い入道雲がかかっていた。それが空を覆い尽くすほどのホットチョコレートの津波だと理解するのは、ミチコの知性では限界があった。
「え、ちょっ」
目の前で、一〇ぐらいの子供がホットチョコレートに飲み込まれた。悲鳴も聞こえなかった。呆然と立ち尽くすミチコを、熱々のチョコの洪水が包み込む。
どのぐらい熱々かと言えば、一瞬で肌が焼けただれるぐらいであった。当然、ミチコは絶叫した。
「うぎゃあああああ!!!」
聞くに堪えない断末魔。しかしそれも、喉に熱々のチョコレートが流れ込むまでの話だった。眼球が破裂し、耳の穴、鼻の穴、肛門からチョコレートが逆流する。焼けただれた皮膚の激痛を感じる暇もなく、ミチコは成仏(仏教徒ならではの死の表現)した。
チョコレートフォンデュに生まれ変わったミチコは、甘くて美味しいお菓子なってチョコレートの海をたゆたう。
まるで子供のころ、憧れた魔法の国の物語みたいに。実際のところ、それは焼けただれた屍肉の塊でしかないのだが、決して無駄な犠牲ではなかった。
彼女は、チョコレートの中の具材になったのだから。
たとえば大きな病院。
産婦人科の一室に、男は慎重に足を踏み入れた。寝台の上にはやつれきった愛妻の姿。看護士に促され、そりそろりと近づいて。
彼女の腕に抱かれた赤ん坊を視界に入れた途端、顔を歪ませた。待ちに待った我が子との対面に、洋一は涙ぐんだ。
「礼子……頑張ったな」
「見て。この子……目元があなたそっくり」
穏やかなやりとりであった。しばらくの間、和やかに会話した後、話題は、前々から二人の間で決めていた第一子につける名前のことになった。
洋一は満面の笑みで手帳を取り出した。何気ない会話のとき出てきた案はもちろん、妻に内緒で調べた縁起のいい名前まで網羅している。
「この子の名前は――」
甘いにおいが室内へ流れ込んできた。悲鳴と怒号、そして甲高い断末魔の声も聞こえた。本能が危機を告げていた。洋一は半ば反射的に、部屋の扉の前に立ち塞がった。愛する妻と我が子をおのれの身体で庇おうとするかのように。
次の瞬間、沸騰するホットチョコレートが時速二八〇キロメートルの速さで階下から押し寄せてきたのは言うまでもない。凄まじい粘度と圧力を持ったホットチョコレートの濁流がドアを爆裂させ、ついでに進路上の洋一をばらばらにした。衣服に浸透した熱々の液状チョコによって皮膚が焼けたれ、悲鳴を上げる前に首の骨が折れる。そのまま彼の頭部は綺麗に千切れ、手足と一緒にものすごい勢いで宙を舞った。放物線を描いて飛び込んだ先が、我が子を抱きかかえた愛妻の腕の中だったのは不幸中の幸いだろう。命を失おうと、真っ先に家族の元へ駆けつけたのだ。
自身が凶器となって。
「おぎゃっ」
ぐしゃり。
腕の中に収まった夫の生首(熱々のチョコレートフォンデュ)と、なんだかよくわからない肉塊と化した我が子を見下ろし、礼子は放心していた。悲鳴を上げる看護士がチョコレートに飲み込まれ、一秒後、礼子の全身をホットチョコレートが包み込んだ。超高圧力を帯びたホットチョコは、瞬時に彼女の穴という穴から内臓へ入り込み、その肉体を内側から破裂させた。
あとに残ったのは、親子三人の肉が混じり合った美味しいチョコレートフォンデュ。病院がチョコレートの海へ沈んだころには、何も残っていなかった。
この日、同じようなチョコレート成仏が全国で多発し、わずか一〇分で日本人口の半数が消え、一時間後には全滅していた。
以上のようなちょっとした喜劇を、チョコレートは優しく包み込む。
◆
太平洋のどこかで、季節外れの国際的合同軍事演習が行われていた、と思っていただきたい。
その一角、新進気鋭の原子力空母の甲板の上に、ワンはいた。高級士官――軍のエリートであり幹部候補である彼が本来の持ち場以外の場所にいるのは、まだ演習が始まっていないからに過ぎない。どうしても見ておきたかったのだ――自国で建造された空母が、世界の名だたる軍艦たちを睥睨する景色を。
空母を有することは、国家の威信そのものだ。大量の艦載機とそれを運用するための人員を運ぶ空母は、一つの街と同じだけの人口と、彼らのための施設を備えた移動拠点である。
その中でも原子力空母をまともに運用出来る国家は少ない。前世紀の冷戦中に睨み合っていた、二つの大国ぐらいのものだろう。
だから、原子力空母を運用するとは、世界の覇権を争うゲームへ名乗りを上げるのと同じだ。軍事的な影響力もさることながら、国力の象徴としての意味合いも強い。そんな大舞台に立てた自分が、ワンは誇らしかった。本国に残してきた息子にも見せてやりたい。
以上のような心底どうでもいい感じの国際情勢を、チョコレートは優しく包み込む。
突如、海底から茶色い水柱が吹き出した。急激に活性化した海底火山から吹き上がったホットチョコレートが、米海軍の原子力空母の船底に直撃。空中へ吹き飛ばされた船体が、真っ二つにへし折れた。ついでに周囲のイージス艦もホットチョコレートの煽りを受け、真横に倒れていく。海水に比べ、はるかに粘度の高い液状チョコに囚われた船の運命は悲惨の一言に尽きた。スクリューは凝固したチョコによって破損、海へ投げ出された乗員は、生きたまま煮えたぎるホットチョコレートに殺される。
甘ったるいチョコのにおいと、軋み、千切れ飛ぶ船の断末魔。
ワンが呆然としている間にも、ホットチョコレートの噴火は勢いを増していった。米海軍を全滅させたホットチョコレートを見て、海上自衛隊やロシア海軍の艦艇が回避運動を取った――ちょうど移動先で吹き上がったホットチョコレートの洗礼を受け、玩具のようにばらばらになる一〇〇メートル超の軍艦の群れ。
ずごごご、と耳鳴りがした。ワンと同じ空母に乗っている兵士たちが、海の彼方を指さした。質の悪い悪夢のような光景にショックを受けていたワンは、ようやく顔を上げた。吹き上がる茶色い水柱の向こう側。
こちらへ押し寄せてくる壁があった。高さにして、ゆうに七〇〇〇メートルを超えているであろう津波だ。
風に乗って届く甘いチョコレートのにおいに、妻との出会いを思い出した。はにかみながらチョコレートを差し出した、知的な横顔に、ワンは惚れ込んだのだ、と。
チョコレートは彼にとって幸せの象徴だった。数万人の海の軍人たちがホットチョコレートで焼け死ぬまでは。
「あ、うん。これ無理だ」
ワンは優秀な軍人だったので、そもそも高さ七〇〇〇メートルの津波を前にしてどうにもならないことを〇・二秒ぐらいで理解した。合同軍事演習に参加していたフリゲート艦が、熱いチョコレートに飲み込まれて消えた。
チョコレートの高波によって、ついに彼の乗る空母が傾いだ。数百メートルの巨体が、横倒しになっていく。
原子力空母が軋み、音を立てて甲板がねじ曲がる。甲板の上の艦載機――第五世代ジェット戦闘機が海面へ落ちた。否、今や眼下に満ちているのは海水などではない。魚類の死骸が浮かぶホットチョコレートの液面に、ゴミのように落ちていく影の一つ一つがワンと同じ国の兵士たちだった。
わーすごーい、と完全に思考停止するワン。そういえば故郷に残してきた妻子と両親は元気かな、と脳裏に人間らしい感傷を浮かべた次の瞬間。
上空数千メートルの気流で冷やされたチョコレート(美味しい板チョコ)が矢のように降り注ぎ、ワンの全身をずたずたに切り裂いた。真っ二つに裂けた腹腔から臓物が垂れ下がり、ぱっくり開いた額から脳漿があふれ出す。無惨な死骸は、露出した原子炉と共に甘く蕩けたホットチョコレートに飲み込まれた。
同時刻、本国に住まうワンの親類縁者もチョコレートフォンデュになっていたのは言うまでもない。
運命はいつだってチョコのように甘くほろ苦い。
世界は今、チョコレートによって平和を手にしていた。
ホットチョコレートの津波が、国教も民族も言語も宗教もなく、ただ純粋にチョコレートフォンデュの具材として地球人類を襲っているからだ。日本列島がチョコレート海底に沈み、ユーラシア大陸の隅々にまでチョコレート液が染みこんでいく。南北アメリカ大陸の文明を、チョコレートソースが飲み込んだ。悪あがきのように発射された水爆は何の意味もなく、核爆発でできた大量の焼きチョコが、礫のように降り注いでホワイトハウスをクレーターに変える。
アマゾン川流域をどす黒いチョコの洪水が逆流し、豊かな自然をチョコレートでデコレート。ついでにそこに住まう人々を押し流した。
欧州ではチョコレート禍から逃れようと、空港へ人々が殺到した。上空へ逃げれば助かる、と思い込んだパニックであった。一部の大富豪は自家用ジェット機で逃亡を試みたが、チョコレート津波の高さは高度二万メートルに達しており、空中でチョコレートの壁に衝突するのが関の山だった。
上空へ到達したチョコレートは外気に冷やされ、尖ったチョコの破片となって地上へ降り注いだ。ロンドン、マドリード、パリ、ローマ、ベルリン、ワルシャワ、モスクワに降り注いだチョコの嵐は、道路上にごった返す人々をばらばらに引き裂いた。
切り裂かれた母親の腹からはみでた臓物を尻目に、飢えた子供が血塗れのチョコを貪る地獄が、世界のあちこちで生まれていた。軍が出動して暴動の鎮圧に当たる国もあったが、チョコレート礫によって航空機は空を飛べず、上部装甲を撃ち抜くチョコによって陸上の移動さえままならない。絶望した兵士の自殺が相次いだのはいうまでもない。
地球は今や、チョコレートによって静けさを手に入れていた。
紛争に明け暮れる某国に降り注いだホットチョコレートが、肌の色も信じる神も話す言葉も区別せず、万物をチョコレート色に染め上げた。数千年の歴史を誇る古代の寺院がチョコレートの濁流に圧砕され、よくわからない瓦礫の礫となって、チョコレート津波の進路上にいた人間をひき殺す。先ほどまで虐殺に勤しんでいた少年兵たちが、異教の神像にすり潰されて肉塊へ変わった。
はるか後方から彼らの指揮をしていた大人たちも、人間の生首が浮かんだホットチョコレートと熱い接吻を交わしていた――〇・一秒後に即死してチョコレートフォンデュと化すまで。
神へ祈る何億人もの人間の祈りは、チョコ流星群によって宗教施設ごと消し飛んだ。
二四時間後、地球上から生命の灯火は消えていた。
ヒマラヤ山脈がチョコレートに飲み込まれるのを、国際宇宙ステーションから呆然と見下ろす宇宙飛行士たち。彼らは自分たちが人類の最期を見届けることを覚悟したが、その決意に意味はなかった。三〇秒後、宇宙へ撃ち出された大量のチョコレートの塊が、秒速一〇〇キロメートルの高速で宇宙ステーションに直撃したからだ。
宇宙ステーションが爆発した。ばらばらに千切れた宇宙飛行士の肉体が、大気圏へ突入して燃え尽きていく。
青い星は今や、チョコレート色の球体だった。
言うまでもないことだが、世界の終わりと言えばチョコレートである。
◆
古き竜グランカは、おのれへ挑んだ人間を睨み付けた。赤い鱗と小山のような巨体、大きな翼を持った火炎竜。はるか古の時代、幾度となく人類を粛清してきた神話の住人だ。そんな彼女が地上の歴史から去って久しいのは、ひとえに愛のためであった。たった一人の人間との約束が、永劫の孤独へ竜を縛り付けている。
この薄暗い穴蔵の名前は、預言王の墓所――過去未来、あらゆる種族の歴史を物語る、予言にも似た書物の収められた書庫だ。
かつて神託の担い手と讃えられた男の築き上げた大図書館。幾千の冬が巡る度、この地に眠る知識を欲して軍が攻めてきた。闇の軍勢が、エルフの騎士団が、騎馬民族の帝国が、あらゆる未来図と叡智の収奪のためこの穴蔵へ足を踏み入れた。
彼女は殺す。あらゆる愚者を阻む。
かつて異教の最高神に数えられながら、人の作り上げた神の軍門へ下った愚かな竜。大神グランカ――今や智天使グランカと賞される、知恵を守る炎の化身。
「愚かだな、人の子。正しき信仰なきものに、我が主の蔵書を触ることは許されぬぞ」
炎の吐息で、万軍を焼き尽くす竜。その威容と睨み合うのは、一組の男女であった。
年若い、まだ少年と言っていい年頃の人間――もう片方は、顔立ちの整った美しい娘であった。その尖った耳に気付き、竜に動揺が走った。間違いない。こやつは――純血のエルフ。グランカと同じく神話の時代から生きる、古い古いお伽噺の住人。だが、エルフと人間が行動を共にするなど、あり得ぬことだった。竜が穴蔵へこもる前、神代の昔から定まっていた異類対立の理。
何故、たった二人でこの火炎竜へ挑むのか。そう視線で問いかけると、エルフの娘が毅然と彼女を見上げた。
「――もういいのです、焔の門番よ。あなたの苦しみは、もう、終わっていい」
瞬間、理解した。このエルフは、グランカの帯びた使命を知っている。いずれの氏族か、いずれの長老の血統か。竜の見せた数少ない悲しみの場面を、その目で見ていたに相違ない。
殺す。
竜は狂っていた。
唯一のつがいとして愛した男は、人として死ぬことを選んだ。定命のものの傲慢、天命と寿命を履き違えた最後。長く、長く、怨んだ。それ以上に深く愛した。誰よりも人のための神を、人のための信仰を追い求めた魂を。
長い、長い寝ずの番であった。その孤独を、その苦痛を、その使命を――エルフの小娘に触れられる屈辱に、グランカは猛り狂う。
「黙れ!」
吐き出された炎を、少年の持つ盾が受け止めた。神々の加護の付与された武具。おそらくはグランカと同じ時代、小神どもが人へ与えた加護の逸品だ。
エルフへ届かぬことを承知で、業火を吐き出す。怒りと共に、おのれの激情を発し続けた。
「私は託されたのだ。あらゆる生を! あらゆる死を! あらゆる人の愚かさを! あらゆる神の零落を! あらゆる命の美しさを!」
「わたしたちは――ようやく、あなたの主の示した未来へ辿り着いたのです。わたしは、あなたから何も奪わない。ただ、伝えにきました。もう、寝ずの番は不要なのだと」
「何を――」
気付いた。エルフの白くほっそりした指が、盾を構える少年の手に添えられていることを。信頼と、親愛と、熱っぽい愛情のこもった手つき。それはかつて、グランカが主に与えられていた愛に似ていて。
あってはならぬことだった。主が二〇〇年にも満たない生涯を使い切ってなお、届かなかった奇跡が芽生えていた。異類が、互いを憎まず、蔑まず、ただの隣人としてそこにある現在。
異類同士が、憎み合うことも、支配と被支配へ陥ることもなく――対等の道を歩むなど。
長い長い冬の終わりを、この者たちはつげに来たのだ。正しき信仰――ただ隣人を愛し、尊ぶ。それだけの祈りへようやく届いたと、神代の竜を言祝ぐために。
「……そうか。お前たちは、ようやく」
我が主の理想へ辿り着いたのか。幾千の春の訪れにも、涙を流さなかった竜の眼を、熱い滴が滑り落ちた。主よ、あなたの信仰は間違っていなかったのだ――
以上のような基本的にどうでもいい感じの物語を、チョコレートは優しく包み込む。
神代の昔、無数の神話に君臨する大神たちが築き上げた天蓋――この世界を守護する結界が、突如として破れた。外宇宙から降り注ぐ直径五万キロメートルのチョコレートが、魔法を物理的に破壊したのである。天蓋を突破するときの衝撃で剥離した断片が、大陸を粉みじんに粉砕。グランカが守っていた大図書館に突き刺さった一際大きな断片は、神をも唸らせる美味なチョコレートであった。感動の涙を流していたグランカの脳天に、剣のように鋭いチョコがぐさぐさと刺さる。走馬燈を見る暇もないチョコレート昇天(唯一神信徒ならではの死の表現)であり、魂の一欠片までチョコレートに飲み込まれたのはいうまでもない。
グランカの体内の膨大な魔力が、その死と共に熱量となって解放された。地上に生まれた太陽のごとき熱に、エルフの少女と人間の少年はゴミのように蒸発。
続いて世界各地で大地を割り、海を攪拌していたチョコレートを煮溶かし、エーテル体をも飲み込む神殺しのホットチョコレートを完成させた。
人間が絶滅した。地下に潜む闇の眷属が絶滅した。地上のエルフはもちろん、常若の国へ住まう不老不死の古代エルフすら即死。救いの神なき大地と、天より降り注ぐチョコレートが一つに溶け合い、天体型チョコレートに生まれ変わった。
◆
造物主が目覚めると、そこはフルートの音色(生命の上げる産声と悲鳴のこと)が聞こえる混沌の只中であった。どれほど長い眠りだったろうか。眠りにつく、という暇つぶしにすら飽いた造物主にとって、この世のすべては玩具に等しい。しかし彼が目を覚ましたのには、理由があった。この宇宙そのものである彼の知覚した、甘いにおいが原因だ。
みじろぎすると、目の前には、彼の忠実なる下僕――人間の信じる神になぞらえるなら大天使といったところか――が、甘く蕩けるような茶色い菓子を差し出していた。数は二つ。造物主が触手でつまめる程度の、丸い球体が並んでいる。
「我らが主よ。一三八億年ほどかかってしまいましたが、チョコレートです。今回は二種類ほど用意してみました。お召し上がりください」
またぞろ、菓子を用意するため勝手に宇宙を作ったらしい。造物主が眠ってばかりいるせいなのだが、下僕たちの勝手な振る舞いにも困ったものである。どうやら夢の中で垣間見た生命の終わりは、手作りチョコの調理行程らしかった。
不器用な下僕の作る菓子を二つ、口に放り込む。
「――不味い」
造物主は深々と溜息をついた。
世界の結末はいつだって、チョコレートのように苦く、濃厚で、甘い。
それがどんなに無意味だとしても。