6-5
「あそこまでされたのに、ヒメ優しすぎるよ……」
「!!」
アキナは紫色の炎を強く立ち上らせ、両腕で体をかばうようにして、それを受けた。
炎は一瞬強く燃え上がったが、すぐに揺らめいてかき消える。
「や、やったの……?」
吹雪のような冷風が止んだ時には、アキナは防御をとったその姿勢のまま凍りついていた。
「追撃」
短く言って、ヒメは地を蹴り、アキナに肉薄する。大きく足を振り上げ蹴りを見舞った。ガラスの割れるような音が響く。
これでノックダウンだ。どんな「ディスト」でも、こうして凍らせてからヒメが蹴れば、粉々になった。エリイは勝利を確信した。しかし……
「はあっ!?」
アキナは微動だにしなかった。粉々どころか、倒れすらしない。
まるで大きな木みたいだ。一方、ヒメはその手応えに焦りを感じる。こちらがいくらやろうと、厳然とそこにそびえ、立ちはだかる。そんなイメージがちらついた。
蹴りの衝撃で氷が剥がれ落ちる。あの冷気はアキナの表面を凍りつかせただけだった。
冷気を加減をし過ぎたか。ヒメは唇を噛んだ。パサラに『殺すな』と言われていたことから、普段「ディスト」へ放つ時より、威力を押さえていたのだ。
再びアキナから紫の炎が立ち上る。ガードを固めた腕の隙間からアキナの顔が垣間見える。
その赤い瞳の放つ暗い光に、ヒメは貫かれたような気がした。この色は何だ? 怒り? 悲しみ? あまりに重たい。
「ヒメェ!」
エリイの上げた悲鳴のような声で我に返る。が、もう遅かった。
「がっ……!?」
アキナの放った正拳突きをまともに腹に受け、ヒメは仰向けに倒れた。無防備な腹をアキナは何度も踏みつけた。
「やめ、やめろ!」
涙声でエリイは矢を放つ。何度も放つ。だが、アキナを貫くことも、攻撃を止めることもかなわない。片手間のように撃ち落とされ、かき消された。
アキナは天に一声吠えた。人の声よりも、「ディスト」の形容しがたいあの鳴き声に近かった。
腹を押さえて震えてうずくまるヒメの顔に、アキナは無慈悲に足をかける。
「……っ!?」
嫌な音がして、ヒメは動かなくなった。エリイは思わず顔を覆う。それは無理からぬことではあったが、この場ではうかつな行動でしかなかった。
次の瞬間、エリイは腹に強い衝撃を受けた。今まで生きてきて、一番の痛みと言っていい。持ち上げられるように腹の底から上ってきた何かを口からぶちまけると同時に、エリイは弓を取り落とす。
膝をついたエリイの顎を、アキナは蹴り上げた。
「あがっ!?」
ゴムまりのように吹き飛ぶ身体。脳を揺さぶられるような感覚。顎と、叩きつけられた背中がみしみしと痛む。視界がぐにゃぐにゃにぶれて、体に力が入らず、とても立ち上がれはしない。
あの重たい瞳でこちらを見下すアキナが、とても同じ人間とは思えなかった。何をのぞき込めば、あんな瞳になるのだろう。まるで怪物だ。人の姿をした、人ならぬ怪物。
殺される。
アキナがエリイを踏みつけようと足を上げたその時、小さな光がアキナの目の前で瞬いた。
あれは――エリイは目を見開く。その小さな宝石は、彼女のよく知るものだった。
琥珀だ! 助けに来てくれたんだ。
一瞬アキナが気を取られたその隙をつくように、琥珀は大きく弾けた。同じ色のどろりとした蜜となり、アキナを取り巻いて、またがっちりと固まった。大きな琥珀の中に、古代の昆虫のごとく閉じ込められたかっこうだ。
「大丈夫? 若草さん」
琥珀を放ったのは、やはり立花オリエであった。横たわるエリイを一べつすると、右手で琥珀を握り締め拳の隙間からきらきらした粒子を降らせた。それが体に触れると、たちまちの内に痛みが引いていく。
「お、オリエ先輩! ヒメの方が重傷で……」
「そのようね」
勇気づけるように微笑み、ヒメにも同じように琥珀の粒子を振りかける。
大丈夫なのかな、これ。その間、エリイはアキナ入りの琥珀を見やる。中のアキナは拳を構えたポーズのまま、微動だにしていない。オリエの琥珀が破られるとは思わないが、それでも不安だった。
「そんなに警戒しなくてもよくってよ」
エリイの考えていることを見透かしたように、オリエは言った。その後ろにはヒメも立っている。無事だったようだが、まだ顔にはあざのような痛々しい跡が見える。跡が残らなきゃいいけど、とエリイはヒメを見上げた。
「大丈夫よ、傷は残らないわ。琥珀での治療は、『インガクズ』を使って『インガ』の遡及を早めるもの。ダメージが大きいせいで今は残っているけど、じきに消えるわ」
オリエの説明はエリイにはよく分からなかったが、とりあえず消えるのなら、と胸を撫で下した。
「にしても、まったく何なんですかこの人」
安心すると、今度は腹が立ってくる。琥珀の中の彼女を指差して、エリイはまくしたてた。
「迷惑すぎるんですけど! ヒメの顔は踏むし」
嫉妬してんじゃないですかね、とエリイが言うと、オリエは曖昧に笑った。
「あれは、嫉妬とかじゃない」
他ならぬヒメ本人が、エリイの邪推を打ち消した。
「もっと根深い……そう、怒りみたいなもの」
「怒り? 確かに毛玉は『怒ってる』とは言ってたけど……」
そんなものを買う覚えはないのだが。大体、こっちは止めてやっている方だというのに。
「そうね、空井さんの言う通りよ。彼女は怒りのあまり、目に映るものがすべてその対象に見えているようね」
やつあたりじゃないか、たまったものじゃない。エリイは口をへの字に曲げた。
「でも、これで解決ですよね?」
琥珀に閉じ込めて生け捕りならば、パサラも文句は言うまい。エリイはそう思ったのだが、オリエはかぶりを振った。
「ダメなのよ。大きくダメージを与えて意識を失わせでもしないと、暴走は解けないの」
オリエによれば、今は時間を止めているような状態なのだという。
「だから、琥珀から出したらまた暴走し始めるわ」
「じゃ、じゃあ! いつもみたいに、砕くとかは?」
エリイは、オリエがたまにする「ディスト」を琥珀の中に捕えて握りつぶす攻撃のことを口にする。
「あれは、小さい『ディスト』でないと無理よ。せいぜいパサラぐらいの大きさが限度ね」
やや悪意のこもったたとえであった。
「それに、握りつぶしたら死んじゃう」
ヒメの言葉に、オリエはうなずいた。
「そう、そこが厳しいところよね。わたしではこういう方法しか取れないし、だからパサラもあなた達に頼んだのでしょうけど……」
「むー、あの毛玉、そんなに天才空手少女ってのがいいのか」
「殺しちゃうのは、かわいそうだよ」
「あそこまでされたのに、ヒメ優しすぎるよ……」
まだ顔に残った跡は消えていない。頬を膨らますエリイの頭を、ヒメは困った様子で撫でた。
「一応、仲間にはなってくれるんだから」
「そのためには、うまく殺さない程度に痛めつけて意識を失わせないといけないのだけれど……」
あなた達は休んだ方がいいわ、とオリエは気遣わしげな視線を二人に向ける。
「まあ、もう二度とやりたくないですけど」
どうするんですか、とエリイは尋ねる。
「三つ編みクソメガネは、一対一は向いてないでしょ? 二人にしてもサヤさんじゃ前に立てないし……」
三つ編みクソメガネもといシイナは、得物の特性上接近戦が苦手である。一応、大砲の下には近接用の爪がついてはいるが、アキナの体術の前には焼け石に水だろう。サヤにしても、自分で言っていた通り直接攻撃力があるタイプではないため、手に余る。二人が組んだところで、遠距離型と補助型のタッグで戦うのは難しい相手だ。
「やっぱり、わたしがシイナと組んで……」
「ダメよ。休みなさい。あなたのダメージは自分で思っているより大きいわ」
少し強い口調で、オリエはヒメをたしなめた。
「なら、新人? 拳銃使いとかいう……」
「そうなるわね」
拳銃なら三つ編みクソメガネと同じで遠距離なんじゃないのか、とエリイは思う。
「あの子は遠近どちらもいけるのよ」
「強い、のですか?」
ヒメの問いに、オリエはにっこりとうなずいた。
「ええ、彼女も極上の素材よ。少し気に入らないけれど」
言い添えたその顔は、笑みの形をしていたが腹の底が冷えるような雰囲気があった。