終-2
「さよなら、鱶ヶ渕」
「これでよし、と……」
セーフハウスの掃除を終えて、シイナは一つ息を吐いた。
この三か月暮らしてきた分の汚れは、きれいにできたはずだ。
『こんなことをしなくても、「インガの改変」をすれば一瞬なのに』
「それじゃあ味気ないっしょ」
現れたパサラに、シイナはにやりと笑いかけた。
『味気ない、か。君はもっと効率的な人間だと思っていたよ』
もちろん、単に味気ないからというだけの理由で片付けをしていたわけではない。
「整理をつける、ってことが必要なことがあるんよ」
パサラは分かりかねるといった様子で体を揺らした。
『そうして惜しむのならば、アキナを行かせなければよかったじゃないか』
惜しむ、か。少し違うなとシイナは思う。
「あたしが止められることじゃないっしょ」
『無理にでも止めてほしかったけどね』
アキナが発って三日、未だにパサラはそんなことばかり言っている。
(気付いたんだよ、あたしのするべきことっていうのにさ)
あの日、「インガの裏側」から戻ってきたアキナは、開口一番そう言った。
(前だけ見てりゃいい時は、とっくに終わってた。あたしも、拾いに戻らなきゃ行けない)
落としてきたものを一つでも拾わなきゃ、先に進むためにも。語るアキナの目に曇りはなかった。
『あの砂漠の向こうには、先なんてないっていうのに……』
ボヤくパサラに、シイナはやれやれと肩をすくめる。
『あの「最終深点」をもってしても、ミリカの「臨界突破」は倒せないって、何で分からないのだろう』
「倒しに行ったんじゃないからっしょ」
『対話にでも行ったと?』
それこそ無駄な話だ、とパサラは不満げだ。
「一概にそうとも言えないさね。小数点以下の確率でも、どうしても拾っときたいもんはあるんよ」
何でもかんでも拾うのがいいことだとはシイナには思えない。取れるものと取れないものを見極めないと、大きな目的を見失ってしまう。
ただ、それでもアキナを止める気にはならなかった。彼女が拾い上げようとしてるのが、昔の攻略本によくあったデタラメみたいに、決してドロップしないアイテムだろうと。
(ただあたしは、決着をつけたいだけなんだ。ミリカと、あたし自身と、関わってきたすべての『ディストキーパー』との)
その答えを否定するような言葉を、シイナは持ち合わせていなかった。
だから、「そうかい、行ってきな」と送り出したのだ。誰かにプログラミングなんてされてない、自分で出した答えなのだから。
シイナが荷造りを終えた時、ちょうど家のチャイムが鳴った。
ほいほい、と出て行くと、玄関先に見慣れない少女が立っていた。
「誰?」
「えっと、あの……」
何か気配の希薄なやつだにー、とシイナは内心思う。
『サアラから話は聞いている。この川向市の「エメラルド」だね』
玄関の奥から聞こえたパサラの言葉に、彼女はうなずいた。
「一体何の用なん?」
川向市の「エクサラントの使い」の名を挙げたパサラに、シイナは振り向いた。
「あの、アキナさんって人に会いたくて……」
もう一度、シイナは少女に視線を戻した。どこかもじもじとしている。その様子を見て、罪な女だねえあの子も、と事情を察した。
「一言お礼を言いたくて……。サアラに聞いたらここだって……」
毛玉どもの間で、情報共有がされていないとは思えない。意図的に伏しているな、とこれまた見当をつけた。
「アッキーならね、一昨日ここを発ったよ」
え、と川向市の「エメラルド」は顔を上げる。
「発ったってどこへ?」
さあねえ、とシイナは首をかしげて見せた。
「あたしも探しに行こうと思ってるんだ」
シイナは「ノマドのディストキーパー」のことを説明して、自分もアキナもそうなのだ、と語った。
「すぐ先に行っちゃうからね。ずんずんずんずん、一人で前に進んでさ」
はあ、と少女は目をぱちくりさせる。
「出会えたら伝えとくよ」
だから安心しな。何か言いかけたのを押し止めるようにして、シイナは言った。
じゃあもう出るから、と追い返し、家の中に戻ると、パサラはまだそこにいた。
『うまく誤魔化してくれたね』
「やっぱ、隠しとこうって腹だったか」
察してたぜい、とシイナは応じる。
『助かるよ、理解が早くて』
「いい女は、言われなくても分かるもんなのさ」
さて、とシイナはキャリーケースを持ち上げる。
『これからどうするつもりだい?』
「もちろん、『カオスブリンガー』に戻るさね」
既に合流場所については連絡してあった。
「パサパサこそどうする気よ? 鱶ヶ渕なくなっちまったけど」
『この端末は役目を終える』
それはすなわち、もう「パサラ」という個体名の、これまで何百人もの鱶ヶ渕の「ディストキーパー」を見守り、世話をしてきた「エクサラントの使い」は廃棄されるということであった。
『我々はただ、「インガの管理者」の言葉を伝える媒体でしかないからね。その役目がなくなれば廃棄される。君たちも使わなくなった道具は棄ててしまうじゃないか』
ちょいちょい、とシイナはパサラの頭を撫でた。
『……何を?』
「あたしは使ってたゲーム機にも愛着を覚える性質でね」
『どういう意味だい?』
しょっちゅうムカつかせてくれるいけ好かない毛玉だったけどさ、とシイナは前置きした。
「お疲れ様、ってことだゆ」
セーフハウスを出て、シイナは思いきり伸びをした。
空は、あの砂漠を三日前に切り離したことなどなかったかのように、変わらず青かった。
さよなら、鱶ヶ渕。
シイナはそう口に出してみる。
言葉にすると、もうそんな町はこの世にはないのだと、改めて思い知らされるようだった。
二十年近く暮らしても、取り立てていい思い出はない。そのはずなのに、この世であの街のことを覚えているのは自分だけだと気付くと、途端に愛しく思えてくる。
さよなら、鱶ヶ渕。
少し大きな声で繰り返した。この青い空の下にはもう繋がってない故郷の名が、塵になって消えていくようだった。
シイナは、それに背を向けた。
帰る場所なんてどこにもないのは、あたしも同じだよ。
口に出さず、心にそれを留め置いて、シイナは歩き始めた。
何も落としていないかのように振る舞いながら、落としてきたすべてを噛み締めるようにして。