6-9
「……心か」
それから三週間が経った。
シイナは宣言通り、パサラの用意したセーフハウスに引きこもり、ゲーム三昧の日々を送っている。アキナに何かを特に言うこともなく、終始画面に没頭していた。
一方のアキナはと言うと、こちらは「インガの裏側」に引きこもり修行のようなことをしていた。空手の基礎稽古や、発生した「ディスト」を倒すのを繰り返す。最初の数日は人間界と「インガの裏側」を往復していたが、今は戻るどころか食事も睡眠もとらずにあの灰色の世界に閉じこもっていた。
だが、どれだけ拳を振るい、「ディスト」を倒し、自分しかいない場所で向き合い続けても、「最終深点」にはたどり着けていなかった。
相変わらず霧の中を歩いているかのようで、進むべき道は見えない。
当たり前に考えれば、シイナと共にここを出るべきだろう。ミリカを救う手立てもなければ、その無理を押し通す義理もない。
だけど、本当にそれでいいのか。アキナは自分の拳を見つめることが多くなっていた。何もつかめない、つかまない拳はどこか空虚で、弱々しく思えた。
パサラとシイナの定めた期日まで一週間を切ったその日、「インガの裏側」に立ち尽くすアキナの脳裏に、聞き慣れた声が響いた。
『いい加減に、決めてしまったらどうだい?』
色の失せた街並みを見下ろす、風のないマンションの屋上、そこでかかった言葉に、アキナは空を仰いだ。
「パサラか……」
今更何の用だ、とばかりにアキナは首を横に振った。
『もうあと一週間しかない』
「それはミリカを切り離すまでか? それともシイナとの期日のことか?」
『もちろん、両方だよ』
とぼけないでくれるかな、とパサラは珍しく苛立ちを露わにした。
『迷うことなど何一つない。君はシイナと行くべきだ。私たちもそれを望んでいる』
「お前――たちの、望み?」
そうさ、とパサラは応じた。
『思い出してごらんよ、記憶は戻ったのだろう? 私たちは君が暴走した時に処理しなかった。それは君に、力があるからさ』
かつて、ミリカらが「ディストキーパー」となる前、一度若草エリイに似たようなことを言われたのを、アキナは思い出した。言われた、というのは正確ではなく、実際には陰でエリイがそう言っているのを偶然耳にしただけなのだが。
(ちょっと強いからって、特別扱いされて。いい気になってんじゃないわよ……)
あの時は、その「特別扱い」の意味はよく分からなかったが、今ようやく合点がいった。
『だから生き延びて、少しでも多くの「ディスト」を倒してほしい』
そんなことのために、お前らはあたしに生きろって言うのか。反抗して、「ミリカを救いに行く」とアキナは言いたなったが、ぐっと押しとどめた。
それは本当じゃないから。本当に選んだことにならないから。従うのと逆らうのは、同じことなのだ。選択肢を自分で選び取らないという意味で。
自分で決めなければ意味がない。
「最終深点」へも至れなくなったアキナの、進むべき道を照らしているのは、あるいは覆って見えなくしているのは、この一点であった。
多分これは、トウコの心なんだ。アキナはそう思っている。トウコならば、どんな状況であろうとも、そう言ってもおかしくはない。
選び取るのだ、と。
自分の心の深淵と向き合って。のぞき返す深淵の目を見つめて考えろ、と。
だけど、決められない。あたしはトウコほど、心が強くなかったのかもしれない。自分で言うのもなんだが、挫折なんてほとんど知らないのだから。
唯一その経験があるとするならば、「ディストキーパー」になる原因となった出来事だろう。だが、あの時手を伸べてくれたトウコもサヤももういない。一人では立ち上がれない弱さこそが、この三週間戦い続けても倒せない、あたしの最大の敵で本性なのか。
「……あたしはもう、強くなんてないのさ」
町並みに目を落とし、アキナは屋上の縁に座った。
「だから、もう見限れよ。あたしはきっともう迷ったままで、立ち直れはしないよ」
『えらく捨て鉢だね』
大したことでもないのに。事もなげにパサラは断じた。
『迷うぐらいで、私たちは「ディストキーパー」を見限ったりはしないよ。心の揺れ動き、震えこそが「ディストキーパー」の力だからね』
心の力。シイナもそんなことを言っていたか。
『心は震え、身をよじり、大きな成長を見せるものさ。だからこそ、私たちは人間から「ディストキーパー」を造り出すことを止めないのだよ』
「……どういう意味だ?」
『君も知っているだろう。「ディストキーパー」の成り立ちを。あの立花オリエが暴露してくれたからね』
パサラたちは自らの見定めた「過剰に不幸」である少女に近づき、その希望に従って「インガ」を歪め、それによって生じた「インガクズ」を少女の子宮に孕ませて「ディスト」に変える。
簡単に言えばそんな話だったか。アキナは自分の腹を撫でた。戦うたびに「インガクズ」は貯まっていき、そして臨月が来れば「ディスト」を産むことになる。あの時、「インガクズ」を強制的に大量投与されて、スミレはあの十字型を産んだ。その後のことは知らないが、恐らくその反動――「産後の肥立ち」が悪くて死んだのだろう。
『では何故、そんな回りくどい方法をとって「ディストキーパー」を造り出しているのか。オリエはこのシステム自体に異を唱えていたけれど、ちゃんと意味はあるんだよ』
パサラはアキナに、振り返るよう促した。アキナは立ち上がって、街並みに背を向ける。すると、屋上の中心につむじ風のようなものが巻き起こった。これは? とアキナが問う前に、「インガクズ」を巻き上げたその風は一つの形を作り上げる。
それは少女の姿をしていた。アキナより十センチ近く低いので、身長は一六〇センチにとどかないくらいか。「ディストキーパー」としてはありきたりな、黒地に赤のラインが入ったボディスーツをまとっている。ボブカットに切りそろえられた髪の色も赤で、三角の耳のような突起が二つ付いたヘッドギアが特徴的だった。
何よりも、そのネコのような瞳が無機質な印象を醸し出しており、これが人の形をした人ではない何かであることを如実に語っている。
『これは、「シンセシス」という』
素体が人間ではない「ディストキーパー」だ、とパサラは続けた。
『かつて「キャッツアイ」と呼ばれたとんでもない「ディストキーパー」がいてね』
「キャッツアイ」は、火土風水光闇の六つの気質を同時に併せ持つ、パサラ曰く「空前絶後のディストキーパー」だったという。
『彼女は後に非常に強力な「ディスト」を産んで死んだけれど、それはともかく、その興味深い気質を持つに至った「インガ」を回収することができたんだ』
それを元に造られた「合成品の『ディストキーパー』」、それがこの「シンセシス」であった。
『こんなものを造り上げることができるなら、人間を「ディストキーパー」にする必要はない、そう思っただろう?』
アキナはうなずいた。うなずきながら、目の前の「シンセシス」にどこか違和感を覚えていた。ボーっと立ち尽くすその姿は、まるで……。
『私たちもこの技術を確立した五〇年前は、そう思ったんだがね』
だが、実際には今も少女を「ディストキーパー」に変えて「ディスト」と戦わせている。
『そう、続けねばならない理由があるんだよ。一つは、進むべき方向に「インガ」の舵を切った時、不幸を被ってしまった子たちを少しでも救済せねばならない。その意味では「ディストキーパー」のシステムも捨てたものではないだろう?』
オリエが聞いたらその恩着せがましさに激怒し、また結界にパサラを閉じ込めて握りつぶしただろうがな、とアキナは思った。
『そしてもう一つは――いや、これは口で説明するより、直に体感してもらおうか』
不意に棒立ちだった「シンセシス」が構えを取る。同時に、その手に2メートル前後の長い棒が現れる。
「棒術か」
アキナも構えを取ると、「シンセシス」は飛びかかってきた。
鋭いとも素早いとも言えないな。その感想通り、アキナは難なく身をかわして背後に回り込み、その背中に拳を叩きつけた。容易く体に風穴を開けると、「シンセシス」は「インガクズ」に戻って崩れた。
「……おい、これ弱すぎないか?」
アキナの言葉に『そう、そこなんだよ』とパサラはどこか面白そうな口調で応じた。
どうも、今日のパサラはおかしいとアキナは思う。普段と比べると妙に感情豊かだ。
『確かに今の子は調整してわざと弱くはした。だけど、どんなに頑張っても一般的な「ディストキーパー」の平均の、八割程度の強さが関の山なんだよ』
何故か分かるかい? 問われて、アキナは少し考えてから思い至った。
「……心か」
『そう、「シンセシス」では、君たちの感情、経験、矜持、願い、不幸――そういった揺れ動きから生まれる「気質」を十全に真似することができない。所詮は紛い物の人形なんだ』
人形、なるほどな。相対した時に覚えた違和感に、ようやく名前が付けられた気がした。
『これが理由なんだよ。君のように迷っても、オリエのように反抗しても、ミリカのように厄介な「ディスト」となってしまう可能性があったとしても、私たちは人間を「ディストキーパー」にし、用いるのを止められない』
そしてパサラは断言する。
『漆間アキナ。君には強い心の力がある。与えられた才能に慢心せず、研鑽を重ねての周囲の期待に応えてきた。そして今、これまで経験したことがないぐらいに大きく揺れ動き、迷っている』
この迷いが晴れた時、きっと更に大きな力を手にする。それがパサラたちの狙いらしい。
『だから早く決断するんだ。そしてその力を役立ててくれ。決して無謀な死地に赴かず、だ。切り離される場所のことなんて、忘れてしまえ。そんなもの、存在しなかったことになるのだからね』
一方的にそう告げて、パサラは黙ってしまった。いくら呼びかけても、応答は返ってこない。アキナは屋上にぺたりと座り込んだ。