終
「忘れるな。深淵をのぞくものは等しく深淵に見返されているのだ」
その日出現したのは、大きな蛇のような「ディスト」だった。
灰色の町を長細い体をくねらせて這いずっている。
「蛇型……いえ、頭に角があるわね」
ならば龍型とでも呼びましょうか。トウコはその「ディスト」の姿を高いビルの上から見つめてそう呟いた。
遠くではあの腕の長い巨人型が突っ立っているのが見える。あちらは新人とアキナがあたるらしい。
もう一頭、この龍型が出現しているが、そちらはオリエと新人三人でやるのだとか。
やれやれ。まるで祭りじゃないか。トウコの見立てでは、この龍型は巨大さに反して大した力は持っていないようだった。「プログレスフォーム」をとる必要もない。
トウコは右目を金色に輝かせた。誘導弾の照準を龍型の長細い体のそこかしこに貼り付ける。
『そちらは大丈夫かい?』
パサラから通信が入る。
「すぐに終わる」
端的に応じると、『おや』とパサラは意外そうな声を上げる。
『アキナと新人に、こっちに向かうよう指示してしまったんだけど、オリエ達の方にいかせればよかったかな?』
「この程度の相手、群れて挑むほどではない」
トウコは構えた「エクリプス」の引き金を引き、ビルの側面を滑り降りる。十八発の光の弾丸が降り注ぎ、辺りを一瞬白く染めた。
「何だ、片付く直前だったとはな」
気楽そうに話すアキナの声が聞こえてきて、トウコは彼女のいるビルの上に向かった。
「遅い」
不機嫌に言うと、アキナは呆れたように笑い、その後ろにいた緑の髪の少女はその身をびくりと震わせた。
トウコには彼女の顔に見覚えがあった。葉山ミリカだ。こいつが次の「エメラルド」か。
「わたし一人で倒してしまったわ」
後ろ髪をかき上げて、トウコはアキナを見やる。
「よく一人であんなでかい蛇を倒せたな」
「龍よ。角があった」
訂正して、トウコは「エクリプス」を腰のホルスターにしまう。そして左手の人差し指をアキナに向けた。
「あなたとは年季が違う」
「年季って、三日しか違わないじゃないか」
アキナは首を横に振って苦笑うと、「ああ、そうだ」と「エメラルド」――葉山ミリカの方を向いた。
「こいつが『パール』の成田トウコだ」
トウコが一瞥すると、ミリカはびくりとして頭を下げた。何だか謝られているようで、いたたまれない気持ちになる。
「新人の『エメラルド』の……」
「葉山ミリカでしょ? 知っているわ」
ミリカが自分から名乗らないので、トウコは先回りして応じた。
「パサラに……」
「聞く前から」
トウコはミリカに近付き、その姿をじろじろと見回す。なるほど、補助型か。いかにも葉山らしい。ミリカが怯んだ様子で後ずさるので、つい追いかけてしまう。すると、ますます怯えた目を泳がせる。
こんな反応をしていたら、相手をつけ上がらせるだけなのに。トウコは内心で呆れた。
「あなたのような人畜無害なタイプが『ディストキーパー』になるとはね」
「知り合いだったのか?」
「去年隣のクラスで、体育が同じだった。マラソンで最下位だったから、よく覚えてる。葉山さんが来るまで待ちましょう、って言っていたから」
我ながら酷い覚え方だが、とトウコはミリカをまたじろじろと見やる。絶対に視線を合わせず、少し蒼い顔をしている様は、去年の体育の時とちっとも変っていない。
「ディストキーパー」になったというのに、ずっとこんな逃げ腰でいるつもりなのだろうか。おどおどびくびく、この調子で務まるのだろうか、と不安になる。
同時に、トウコは少し懐かしいものを感じていた。そうだ、わたしも――志摩モモコもそうだったじゃないか。
『そちらも終わったみたいだね。「アンバー」たちの方も終わったよ』
そこで、パサラの通信が割って入ってくる。
『どうする? このまま合流して残りのメンバーと面通しするかい?』
アキナがこちらを見てくるので、トウコは首を横に振った。
「必要ない。いつか必ず会う相手なんだから。それに慣れ合ってもいいことないし」
「だそうだ」
ため息まじりに、アキナはパサラに伝えた。
『了解。じゃあ、今日は解散ということで。お疲れ様』
「ああ、お疲れ。じゃ、帰るわ。あたしここ近くだし」
ミリカも、また頼りにさせてもらうよ。そう声を掛けられて、ミリカは少し嬉しそうに見えた。
こんな箸にも棒にもかかりそうもないのをつかまえて、「頼りにする」とはアキナも後輩の扱いがうまい。体育会系だからか、とトウコは妙な感想を抱く。自信なさげなタイプだし、そうやって励ますのはいいことだろう。
「葉山」
トウコはミリカの苗字を呼んだ。ならば、こちらは少し心構えを伝えておくことにするか。ミリカは身を固くし、目を伏せる。そんな調子でどうする? 「過剰に不幸」な状態は脱し、一つ世界を思う通りに変えたというのに。
それとも、思う通りにしても「不幸」のままなのか? ならば、その「最初の改変」はお前の真に望むことではなかったのだろう。せっかく心の奥底をのぞいたのに、湧き出てくるものから目を背けたのだ。
「忘れるな」
だとするならば、いつかお前の深淵から、それは滲み出てくるだろう。
だから、わたしは願う。それがお前の身を「怪物」に変えてしまわないことを。
例え「怪物」となってしまったとしても、一緒に背負ってくれる誰かがいることを。
そしていつか、心のままに自分が決めたように生きられる日が来ることを。
「深淵をのぞくものは等しく深淵に見返されているのだ」
意味が分からなかったのだろう、ぽかんとするミリカを置いて、トウコは隣のビルに飛び移る。そこのドアから人間界へと戻った。
今日は何故だか、こちらから帰りたい気分だった。夜の明かりに彩られる街並みを見下しながら、トウコはビルからビルへ飛び移っていく。
鱶ヶ渕の街は平穏な夜の中にあった。近く、砂に沈んでしまうことなど今はまだ知る由もなく――。
〈深淵少女シマモモコ 了〉
→To be continued "EMERALD stray into the Abyss" ……