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(あなたの中に、トウコさんはいたんですから)
無力感に苛まれ、立ち尽くした彼女の背後で、高い音がした。振り返ると、暗闇の中に小さな鍵が落ちている。
「ホーキー」だ。そうか、変身が解けてしまっていたからか。
かがんでそれを右手で拾ったとき、目の前に誰かの足が見えた。つま先と白い杖、見上げると、よく知った顔があった。
「サヤ……」
無言で彼女は正面を指差した。つられるように、立ち上がってそちらを振り返る。炎の壁は厳然とそこに燃え盛っている。
行けというの? 何もできないわたしに。トウコは右手に「ホーキー」を握る。いつもなら「コーザリティ・サークル」が右目に生成されるのだが、その気配はない。
無理よ、できない。わたしはあなたの信用したものではなくなったのだから。
もう一度、サヤを振り返る。変わらず彼女は、炎の壁を指差していた。
(できますよ)
サヤの唇がそう動いたように見えた。
(あなたの中に、トウコさんはいたんですから)
そうでしょう、志摩モモコさん。
トウコであった少女は、志摩モモコは息を飲んだ。
この名をサヤが知っているはずがない。だから、これは都合のいい幻覚だ。
それを知っても、サヤの姿は消えない。闇の中で唯一の導き手であるように、炎の壁を指し続けている。
わたしの中に、トウコはいた。
何もできない、望めない中で作り上げた妄想の超人だったとしても。「インガの改変」という介入があったからだとしても。
この三か月は「成田トウコ」であったのだ。自ら望み、決めた態度で生きてきたのだ。その時間は否定されるものではない。
二つに分ける必要なんてないのだ。線引きなんてしなくていい。
闇は光に、光は闇に。
モモコはトウコで、トウコはモモコなのだ。
それが分かたれてしまっては、やりたいことなど、望むことなど叶えられやしないのだ。
志摩モモコと呼ばれていた少女は、大きく息をついた。右手から「ホーキー」を、成田トウコの利き手である左手に移して握りしめる。
右目に「コーザリティ・サークル」が浮かび上がってきた。
ああ、この世の「インガ」は理不尽だ。漆間アキナ、それはわたしもそう思う。何せ、どうにか自分を歪めなくては、座り込んだまま進めない程だ。
だけど、立ち止まってもいられない。時間は無限で、わたし達は有限、だからいつも待ってくれない。
モモコは再びトウコとなるために、「ホーキー」を差し入れる。そして、今一度「異世界への扉」を開いた。
体に力が満ちてくる。白い光沢のある髪が心地よくなびく。おどおどとびくついていた気持ちも凪のように落ち着いた。
ようやく帰ってこれたような気持ちになった。だが、感慨に浸っている場合ではない。更に先へ進まなくてはならないのだから。求めるのは、前へ進む力だ。壁を乗り越えアキナのもとへとたどり着くために――。
光が溢れてくるのを感じる。胸の奥、心の深淵からやってくるそれは、トウコが思うよりも眩しいものだった。
溢れる光は大きな貝となってトウコを包み込んだ。
《到達したのね、『最終深点』に……》
オリエの声が聞こえる。そうか、これが「ディストキーパー」としての最後の姿――。
光の二枚貝が開き、新たな姿となったトウコが現れる。黒を基調とした衣装が真珠色となったこともさることながら、特筆すべきは体の周りに浮いた六枚の装甲板であろう。
縦長の六角形をしたそれらは、トウコの肩から下を守るようにぐるりと取り巻いている。硬い板状のパーツからなる「機械のマント」といったところだろうか。
早撃ちのガンマンさながらに、トウコはマントを跳ね上げる。左右に三枚ずつ分かれ、装甲板は翼のように背後に広がる。あらわになったその裏側は虹色に輝いていた。
「『最終深点』……。なんだか、行き止まりみたいな名前ね……」
《事実行き止まりですもの。この先は怪物になるしかない、人間としての終点なのだから》
「終点だなんて、わたしは先に行かなくてはならないのに」
トウコは炎の壁を見据えた。背中に翼のように展開した装甲板――虹色の部分が反射板になっているようなので、たった今「シェル・リフレクター」と名付けた――に力が通い、みなぎっているのが分かる。
「だから、わたしは『プログレス・フォーム』とでも呼ばせてもらうわ」
好きになさいな、とオリエは苦笑する。
《……調子が戻ってきたようね、成田さん》
「ええ」
だから、この壁も越えられる。「シェル・リフレクター」から文字通りの光の翼が広がり、トウコの体を照らす。いや、彼女自身が光を放っているのだ。
行ける。そう思った次の瞬間、炎の壁はトウコの背後にあった。壊したのでも、こじ開けたのでもない。すり抜けたのだ。自らを光に変えて移動する、ショートワープの力である。
「漆間……」
炎の壁に守られた内側、闇の中に漆間アキナは座り込んでいた。
「漆間、漆間アキナ」
再びトウコは呼び掛ける。ようやく、アキナは顔を上げた。
「……トウコか。……あたしを殺しに来てくれたのか?」
トウコは答えなかった。アキナは沈黙を肯定と受け取ったのか、笑みとも泣き顔ともつかない表情を浮かべる。
「そうか、よかった……。最期はお前か、サヤがよかったんだ。一緒によく、戦ったからさ……」
「まだ、最期ではない」
トウコは空の琥珀を手に取った。
「やったことに、あなたは今耐えられなくなっている。潔いフリをして、投げ出して、逃げ出そうとしている」
「逃げる? あたしは、そんなつもりは……!」
「死んで償うのは、楽な道。あなたは生きなくてはならない。みんなの死を無駄にしないためにも」
「誰が望むんだよ、そんなこと! 誰も納得しない『インガ』だ! 殺ったら、殺られるんだよ! それがなくなったら……」
トウコはアキナに近づいて、そっと彼女を抱き締めた。
「わたしが望むわ」
「トウコ……?」
「抱えきれない荷物は、わたしも一緒に背負う。それは誰かが決めた『インガ』じゃない。わたしがあなたに、したいことだから」
トウコは琥珀を口にくわえた。そのままアキナと唇を重ね、彼女の中に押し込んだ。
「だから今は……少しだけ眠っていなさい」
飲み込ませた琥珀は、アキナの中からその色の光を放ち、それが収まると彼女の姿は消えていた。周りを囲んでいた炎の壁もいつしか消えている。
アキナのいたところには、紫の何かが透けて見える琥珀が一つ、転がっている。トウコはそれを拾い上げて、静かに握りしめた。