2-4
「エリイは、やらせ……ない……」
「これは、『臨界突破』……!」
サヤの声は震えている。
「何それ?」
ヤバいのは見りゃ分かるけど、とシイナは「アキナだったもの」に砲口を向ける。
「簡単に言えば、人であることを辞めてしまった『ディストキーパー』のことです」
サヤは一度だけ遭遇したことがある、と言った。
「その時、オリエさんは言ってました。『臨界突破』は、間違った『最終深点』だと……」
「にゃるほど、最後のボタンを吹っ飛ばした口か……」
エリイには、二人の会話の意味は半分も分からなかったが、相対するそれの発するプレッシャーによって、危険な場にいることは理解させられた。何もせず、ただ立っているだけなのに、ちりちりとした警戒心が芽生えてくる。
不意にアキナは、いや「ルビー・アエーシェマ」は腰を落とした。後足にぐっと力を込もっているのが分かる。
「来ます!」
「ルビー・アエーシェマ」が動いたのは、サヤが警告を発するのと同時であった。
その姿が見えなくなった次の瞬間、駆け抜けた熱風に四人はなぎ倒されていた。
速い。地面に叩きつけられ、相手が自分達のいた場所のすぐ後ろに立っているのを見て、エリイは初めて今の熱風が、この「ルビー・アエーシェマ」の突進であったのだと知った。
「冗談、強すぎ……ぎゃ!?」
悪態をつきながら立ち上がろうとしたシイナの首を、「ルビー・アエーシェマ」は掴み、持ち上げる。
「シイナさん!」
体を持ち上げられたシイナは、足をばたつかせて抵抗するが、「ルビー・アエーシェマ」は構うことなく首を締め上げる。
サヤは急いで影を伸ばす。だが、赤い紋様から吹き出る炎に阻まれた。
「こ、う、なった……ら……」
シイナは力を振り絞り、大砲を持ち上げる。だが、それはあらぬ方向を、「ルビー・アエーシェマ」の背後を向いていた。
シイナが明後日の方向に種を打ち出すのと、同時であった。
締め上げられた彼女の首がネジ切れて落ちるのは。
「――!?」
エリイは、声にならない悲鳴が体を駆け抜けていくのを感じた。
首の落ちたシイナの胴体を興味なさげに投げ捨てると、「ルビー・アエーシェマ」は残る三人を白い七つの目で見回した。
一番早く動いたのは、ヒメだった。転がるようにしてエリイのもとにやってきて、その背に彼女をかばいながら中腰で扇を構える。
「エリイ、しっかり」
震え声ながら、ヒメはそう叱咤する。
「ここで死ぬなんてダメだ。生きて帰るんだ」
生きて帰すんだ。そうも聞こえた言葉に、エリイは気を少し持ち直す。
ヒメばかりに、無理させちゃいけない。あたしはヒメから、もらってばっかりなんだから。
二人集まったからだろうか、「ルビー・アエーシェマ」はエリイとヒメの方を向いて、また腰を落とした。
突進が来る。できることは……? エリイは必死に頭を巡らせる。
あいつは力も強いけど、炎が一番恐ろしい。サヤの影が焼かれてしまったことから、攻防一体の能力なのだろう。
だけど、炎は炎だ。あたし達にはアレがある。前の紫の炎もヒメの冷気で止められたんだから。
「ヒメ、もう一回吹雪を!」
「分かった!」
上ずってしまったが、大丈夫だ、絶対! あたしとヒメの二人の技なんだから。エリイは両手に風を呼ぶ。今までより強い風だ。行けるかもしれない。ヒメはその風を扇に集め、冷気をまとわせる。
「くらえ!」
扇の一振りは猛烈な吹雪となって、「ルビー・アエーシェマ」に吹き付ける。
直撃した。どうだ?
白い視界の向こう側に動く姿があった。凍りついていない。そればかりか、何の影響もないとばかりに平然と歩いてくる。
「ッッ!?」
更にもう一振り、ヒメは吹雪を浴びせる。更に風は強まるが、「ルビー・アエーシェマ」は歩みを止めない。
本物の、化け物だ……! ヒメ、逃げよう! 呼び掛けようとした時、目の前に立つヒメの背中に黒いものが生えた。
それは最初、何かグロテクスな花のように見えた。そんなものが何故? いや、違う。これは腕だ。花のように見えたのは、ヒメの腹を貫いた手の平だった。
「ヒメェェ!」
「エリイ、逃げ……」
最後まで言うことはできず、ヒメの体は炎に包まれた。
どうする? 助ける? どうやって?
峻巡するエリイを見やり、「ルビー・アエーシェマ」はヒメから腕を引き抜き、彼女に向かって……。
その時、「ルビー・アエーシェマ」はうなり声を上げた。ヒメの腹から腕を抜き去ることができなかったのだ。
「エリイは、やらせ……ない……」
腹に開いた穴と自分の足元を凍らせて、「ルビー・アエーシェマ」の行く手を阻む。
あたしを逃がそうとしてくれてるんだ。エリイは踵を返し、足に風を集めて走り出した。逃げる彼女を追うべく、「ルビー・アエーシェマ」は空いた左腕でヒメの顔を掴む。そして、そのまま発火させた。
ヒメは自らの体が燃え尽きるまで抵抗を続けた。
焼け焦げたヒメの体を投げ捨てて、「ルビー・アエーシェマ」はエリイを追って行った。
その後ろ姿を見送って、サヤは大きく息をついた。
彼女は影で身を隠していた。本来ならば二人もかばうべきだったのだが、影での偽装は動けばバレてしまうので、下手なことはできなかった。
まさか、「臨界突破」とは。これを目にしたのは二度目、「ディストキーパー」になったばかりの十年近く前以来のことだ。
あの時は今回のような暴走からではなく、本当に突然のことだった。当時の七人の内、「臨界突破」を起こしたものも含めて五人が死んだ。
(臨月だったのよ、あの子)
もう一人の生き残り、当時既にベテラン「ディストキーパー」だったオリエは、戦いの後そう言った。
少女の時代を延々と繰り返させられる「ディストキーパー」、その終焉は子宮に貯まった「インガクズ」が限界を超えた時、訪れる。
(だけど、産めない体質だったみたいね)
普通は「ディスト」を産んでしまうところなのだが、その体質が影響し、自分自身が「ディスト」に変じてしまったのだ。
(ああなっては、元には戻れないわ)
だから殺すしかなかった。オリエはあの時そう言っていた。
だが、今回のアキナの場合はどうだろうか。サヤは考える。アキナは「ディストキーパー」になって日が浅く、「インガクズ」が限界まで貯まったとは考えにくい。もし「インガクズ」の臨月を迎えていたのならば、本当に妊娠したのと同じように、お腹が大きくなるはずだし。
ならば、やはり暴走に引きずられて「臨界突破」となったと考えるべきだ。
暴走が原因なら、オリエが記憶を取り除けば元に戻せるはず。ただ、とサヤは二つの遺骸を見やる。首のないシイナと、丸焦げのヒメ。
今のアキナを、「ルビー・アエーシェマ」を倒せるだろうか。
サヤは自分の目隠しに手をやる。いつまでも、見て見ぬふりはできませんよね。独り言ちて、懐から通信用の琥珀を取り出した。