3-3
「人間なめんなよ!」
トウコとアキナの会話を聞いていたのは、オリエだけではなかった。
校舎の柱の影で様子をうかがっていた彼女は、右手で口元を押さえる。
何てこと……! 心中で呟き、左の拳を握りしめる。
これは、伝えるべきだろうか。伝えることがあの子のためになるだろうか。本当の友達ならどうする?
目を閉じ、大きく息をつく。余計なものを、すべて吐き出してしまうように。
そしてまた目を開いた空井ヒメの顔には、深い決意のようなものが刻まれていた。
その知らせをエリイが聞いたのは、まだ布団の中にいる頃だった。
電話で起こされ、眠い目をこすり、ディスプレイを確認すると登録してから一度もかけたこともなければ、かかってきたこともない番号だった。もしかかってきたら、あまり出たくないとも思っていた番号でもある。
「エリか?」
それは、「彼」が初めて体を求めてきた時、立ち寄ったカラオケ屋の店員だった。「彼」の遊び仲間の中では気のいい方で、二度目に会ったとき「いらないと思うけどよ」と番号を交換していた。
「落ち着いて聞いてくれ」
いいな、と念を押す。お調子者の彼にしては珍しい、緊張した声音だった。
告げられた言葉に、エリイは電話を取り落としそうになった。
「は……?」
何で? それが最初に生まれた感情だった。本当なのかとか、悲しいとか、そういうものに先んじて姿を現した。
涙を堪えたような声での、しかし順序だった説明はすとんと心に落ちる。だからこそか、そこから芽生える「何で?」は大きくなった。
電話を切ってから、エリイはしばらく呆然とベッドの上に座り込んでいた。
何で、死んだの? 何で、自殺なの? 何で、その死に方なの? 何で、今日用事があるって言ったのに昨日死んだの?
もう会いたくないから、そんな嘘ついてもらったんだ。そうだよ、酷い奴だ。最近マシになってきたと思ってたけど、こんな……。
あり得ないとは分かっていた。でも、その可能性にすがった。生きているなら会えるから。何せ「彼」とは、そういう「インガ」に「改変」した仲なのだから。
エリイは着替えもせず、キッチンに向かった。あら早いのね、という母親の言葉に応じようとした時、それを遮る情報が飛び込んできた。それは、食卓の前に置かれたテレビからもたらされた。
「発見された遺体は免許証などから――」
床に崩れるように座り込んだ娘に、母親は慌てて駆け寄った。
彼の名前だった。焼身自殺、鱶ヶ渕の駅前――。
その日はもう、学校へ行くことなんてできなかった。
母親は、娘に彼氏がいることを知らない。けれど、その尋常でない様子から、学校を休ませること許可した。
這うようにして自室に戻り、ベッドに入ると、ようやくといった具合に涙が出てきた。
遺書にはこうあったと報道されていた。
「たくさんの女の子と同時に付き合い、苦しめてしまったことをお詫びします」
ヒメがエリイの部屋にやってきたのは、午後四時を回ったころだった。「インガの裏側」を通り、直接部屋へとやってきた。
「具合、どう?」
エリイは布団の中で首を横に振った。来てくれたのは嬉しかったが、それでも元気は出ない。
「ニュース見たよ。あの人、死んだんだね……」
ぐさりと刺されたような感覚だった。あのことはまだ、エリイの中では本当でなかったのかも知れない。涙を流しても、物語を読んで泣いているようなものだったのだ。改めて人から口にされて、まどろみの奥の悪い夢が現実になって覆い被さってくる。
堪えるように唇を噛んだエリイに、ヒメは慌てた様子で駆け寄った。
「……ごめん、配慮が足らなかった」
エリイは首を横に振った。違うよ、ヒメのせいじゃないよ。すがりつきたい気分だった。
「そのことで、話さないといけないことがある」
ヒメはベッドの端に腰掛け、エリイに今日見聞きした一部始終を話した。
エリイは最初は驚き、そして辛そうに眉を下げ、最後には固い表情で聞いていた。ベッドから半身を起こし、ヒメのことを食い入るように見つめていた。
「……本当、なの?」
ヒメはうなずいた。その表情も厳しいものであった。
「何で? 何で、そんなことするの?」
ヒメは、今度は首を横に振る。
「分からない」
暴走なのかもしれない。ヒメの言葉にエリイの目が険しくなる。
「暴走って、収まったんじゃないの!?」
「それも、分からない。アキナが誤魔化していただけなのかも」
どんだけ引っ張るのよ、とエリイは布団の端を握りしめる。
「ていうかこれ、あのクソ毛玉知ってんの!?」
「知ってると思う」
「インガの改変」がされていることから、ヒメもその推測には辿り着いていた。
「ちょっとパサラ! 即うちに来なさい! 即よ、即!」
「呼び出すの!?」
ヒメは目を見開いた。彼女自身は、今回パサラは敵になるだろうと考えていたのである。
『用事は分かっているよ』
呼び出されるのを待っていたかのごとく、ものの一分もしない内にパサラはやってきた。
『あの男のことだろう?』
悠々とした態度にすら見えるパサラに、エリイは食ってかかった。
「本当に漆間アキナがやったの?」
『そうだよ』
「何で? 何で、そんなことができんの?」
理由は知らないよ、とパサラは体を揺すった。
「暴走ということ?」
『そうなるね』
ヒメの問いに今度は体を縦に振る。そして『ただ……』と付け加えた。
『エリイと付き合っていた男だとは、分かっていた』
「はあ!?」
そうなら暴走じゃないじゃん。エリイは呻く。わざとじゃん、分かっててやってんじゃん。
『何だか、怒っているようだがね』
パサラは落ち着き払っている。
『「改変」の時に、あの男の遺書として用意した文書、それに嘘はないんだよ? 現に彼はあの時、君とは違う女と会っていた』
こういうのを浮気と言うのだろう? エリイはパサラをにらみつける。
「嘘よ」
嘘ではないよ。パサラは応じて続ける。
『アキナはその様子を見て怒り、更にエリイと連絡しているのを見て、彼を殺した』
あの電話の直後だったのか。エリイは歯噛みした。明日は会えなくった、という言葉が耳に蘇ってくる。
『つまり、君が日々イラついき、脅えていた「浮気」という事象を、アキナは物理的な手段で取り除いたのさ』
まるで、お前のためにやってくれなのだ、というような口調だった。
「パサラ、そんな言い方……」
ヒメが咎めようとした時、部屋に何かが爆ぜるような大きな音が轟いた。
「エリイ……?」
ベッドの上に立ち上がったエリイの、寝乱れた髪の毛が浮き上がっていた。エリイの周囲にバチバチと火花が散っている。
「これは……?」
『ようやく、次の段階に進んだのだね』
パサラは、暗い目で自分をにらむエリイの視線を見返す。
『風は気象の気質。雷はその発露の一端だ。それに特化した「ディストキーパー」もいるが、君はどちらも……』
パサラの言葉を遮るように、一際大きな破裂音が響く。
「そんなこと、どうだっていい……」
エリイの手から放たれた電撃が、部屋の壁を焦がす。
「あたしのため? なんでそれをあんたや漆間が決めてんの?」
あたしの望みは一個だけだった。エリイは拳を握る。
「あんたに言ったよね? あの人と付き合えるなら、何をしたっていいって」
エリイの「ディストキーパー」としての始まり、「最初の改変」こそが、「彼」と付き合うことであった。
あの人のためだったら何をされたってよかった! また大きな稲光が走る。
「浮気も、殴られるのも、タバコも、エッチなことばっかされるのも、ケンカするのも……嫌だったけど、死んじゃってそれが全部なくなる方が嫌だ! 生きてたらさ、仲直りできるじゃん。あたしも許せるじゃん。いつか本当にあたしのこと、好きになってくれるかもしれないじゃん……」
それがすべて奪われた。エリイは爪が突き刺さるぐらいに強く、拳を固めた。
「何の権利があって、そんなことするの? あんたら『インガ』のアンテーとかやってるから、神さま気取りってワケ? 力があったら何でもやっていいってワケ?」
頼んでもいないことを、お仕着せの正義ぶって。勝手に人の感情を作り出して。
「人間なめんなよ!」
ヒメは、エリイの肩を抱いた。泣きじゃくって怒って、赤い目と頬の彼女の頭を撫でた。
『なるほど、強い怒りを感じているらしい』
パサラのそれは、他人事のような平坦な口調であった。
『ならば、復讐すればいい。私は止めはしない』
私は君の味方でもアキナの味方でもない、ただ仕事を果たしただけさ。パサラはふわりと高く浮き上がった。
『ましてや裁判官でも調停者でもない。仲間内の問題は、仲間内で解決しなさい。何せ、「ディストキーパー」の間での私闘は、禁じていないのだから』
それだけ言って、パサラの姿は空気に溶けるようにかき消えた。
気が抜けたのか、エリイはベッドに座り込んだ。ヒメも隣に腰掛ける。
「……ダメなさ、男なんだと思う」
ぽつりとエリイは呟く。
「でも、殺されるほど、悪い人じゃないんだよ」
エリイが「彼」を好きになった時の話を、ヒメは何度も聞いていた。
塾の帰り、パンクした自転車を押して帰るエリイに、「彼」は声を掛け、夜道を一緒に歩いてくれた。
言葉にすればそれだけのことなのだが、エリイには特別に感じられたらしい。
あの男のいいところなんて、何度説明されても分からないけれど。ヒメは空いている左手で拳を作る。エリイがこれから言い出すことは分かった。
「仇、討つよ」
エリイはベッドの脇のサイドボードから、いつもつけているクローバーのヘアピンを手に取った。
やはり、とヒメは目を伏せる。そう言い出しかねないと思っていたから、真実を話すのを迷っていたのだ。
「本当のことを知っているのは、あたしだけだもん。他にどれだけ女がいても、それが出来るのは、あたししかいないんだから」
新たな力を手にいれたとは言え、アキナとの実力差はまだ大きい。それに、今のアキナは常軌を逸している。きっとエリイは殺されてしまう。
「明日は、学校に行く。それで、自分が何をしたかをあいつに思い知らせてやる!」
エリイは立ち上がり、ピンで前髪を止めた。その眼差しはここではない場所を見据えていて、そのまま遠くへ行ってしまうような気がした。
わたしを追い越すのか。同年代の少女の背中が、自分より前に見えたのは初めてだった。急いでヒメもベッドから降りた。
「わたしもやる」
「ヒメ?」
「エリイの怒りは、わたしの怒り」
友達だもの。言い添えると、エリイの目から新しい涙がこぼれた。ヒメはそれを指でぬぐった。
「二人で、勝とう」
ありがとう。差し出されたエリイの手を、しっかりとヒメは握った。このまま、ここへ繋ぎ止めるように。
それが本当に友達らしい振る舞いなのかは、ヒメには分からなくなっていた。