4-2
『君に会う時はいつも酷い夜だ』
家に戻ってからも、アキナは体の奥で暴れるそれを鎮められずにいた。
このところ、戦いの後はよくこうなるが今日は酷い。体を動かせば紛れるが、紛らわすたびに大きくなっているようにも思える。
自室で一人、荒い呼吸をしながらわき上がって来るものを必死に抑え込む。
駄目だな、どうも。全身に汗がじんわりとにじんでいる。やはり、体を動かしていないと。蚊に刺されたところをかくと、更にかゆみが増すようなものだが……それでも今はかきむしらずにはいられなかった。
家を抜け出し、夜の町をアキナは走った。最初はゆっくり、ジョギングのようなペースで。それはだんだんと、まるで追い立てられるように加速していく。
住宅街の大きな坂を駆け下り、目抜通りにぶつかる。こんな時間でも行き交う車は絶えない。それを横目に歩道を駆ける。明るい方に自然と足が向き、やがて鱶ヶ渕の駅の北側にたどり着いた。
改札前の柱にもたれて、息を整える。アキナは駅の天井を仰いだ。蛍光灯がいやに眩しい。
これぐらいがいい。闇の中にいると、アキナの体を奥底から炙る何かと、自分との区別があいまいになるから。輪郭線は、光の下ではっきりしている方がいい。
あの紫の炎と今度入り混じってしまえば、もう二度と戻れないような気がする。自分は自分でなくなり、すべてを壊し尽くすまで、炎の命じるままに暴れてしまう。
その恐怖を口に出さないのは、強がっているからではない。恐れに形を与えると、それに乗じて襲い掛かってような気がするから。
駅前はまだ、にぎわっていた。時刻は午後十時を回ったところで、あの待ち合わせの像の前には、まだ待ち合わせる人の姿が見える。
早く帰らないと補導されちゃうかな。大学生らしい一団や、駅から出てくるサラリーマンを見回しながら、アキナはふと見覚えのある顔に気付いた。
待ち合わせの像の近く、大きな植木の縁石に座った一組の男女。アキナより少し年かさの、高校生ぐらいに見えるカップル。その片方、長髪の上に帽子を斜めにかぶり不遜にもタバコをくわえた茶髪の男、あれはエリイの――。
どうして違う女と? 友達だろうか。いや、それにしては親密そうだ。アキナはこっそりと二人に近付いた。
アキナの接近にも気付かず、二人は話し続けていた。男は女の腰に手を回し、いちゃいちゃと密着している。
「ねえ、そうだ、明日も会える?」
女の方が男に尋ねると、「おう」と彼は応じた。
「暇だからな……って、おっと……」
不意に携帯電話の震える音がした。男は尻のポケットから自分のそれを取り出し、ディスプレイを見て顔をしかめる。舌打ちして、女に「ちょっと電話」と言い置いて人目につかない方に走って行った。
ほとんど衝動的に、アキナは彼の後を追っていた。
人通りのない駅舎の裏手で、男は電話を耳に当てていた。柱の影から様子をうかがっていると、男は電話に向かってがなり始めた。
「だから、予定が入っちまったんだって……しょうがねーだろ……仕事だよ仕事」
次いで、はあ? とひときわ大きな声を出す。
「ふざけんな。ガキのくせにそんなセリフばっか覚えやがってよ、バカじゃねえのか?」
ちっ、と舌打ちして男はため息をつく。
「泣くなよ、エリ。ちょっと会えないだけじゃねえか。ったく、だからガキは嫌だ」
電話の相手はエリイのようだった。アキナは拳を握りしめる。
完全に浮気じゃないか。先約であろうエリイを断って、さっきの女の方を優先する。
エリイともあんな風にべたべたしていただろうに。唇を重ねたりもしただろうに。
猛烈な怒りがわいてくるのが分かった。他人のことなのに、それも仲良くもない相手のことなのに、どうしてこんなに怒りを感じるのだろう。
疑問を抱く間もなかった。それは怒りと共に心の奥から溶けた鉄のように流れ出し、アキナの体を熱く満たした。
ああ、そうだ。これは始まりの気持ちなのだ。暴走は、この熱く黒い塊は、紫の炎は、わたしと完全に同じものだったのだ。
走っても、稽古をしても、「ディスト」を倒しても、満たされないはずだ。
これは、この力は、こういうクズを焼き尽くすためにあったのだから。
男は電話を終えて、深々とため息をついた。
あのガキ、ちょっと優しくしたらつけ上がりやがって。好きとか言うなら股でも開けよ。
本当にそうつぶやいたのか、それは定かではない。幻聴かもしれないし、口に出していない気持ちを今のアキナが聞きとったのかもしれない。
「おい」
男に背後から声をかける。「あん?」と振り向いた彼の顔面に、アキナは拳を叩き込んだ。
「がっ」
突然の打撃にのけぞった腹にもう一撃。男は腹を押さえてうずくまった。アキナは冷たい目でそれを見下す。
もういいだろう、と頭のどこかが言った気がしたが、立ちどころに燃えて消えた。瞳の冷たさとは対照的に、精神を強い熱が炙っていた。
「……の……クソがぁ!」
呻きながら、痛みに耐えながら、男はナイフを取り出し、やたらに振り回す。アキナはそれを一歩下がって避け、手をかざした。
「ぎゃっ!?」
悲鳴を上げて、男はナイフを取り落す。落下したそれは刀身がぐにゃりと曲がっていた。
更に、アキナの手の平から強烈な熱風が巻き起こり、男へ吹き付ける。あおられて、男はごろりと転がった。
どんどん力がわき出してくる。右手を無造作に払って、アキナは長い息を吐いた。
左手の手の甲に、「コーザリティ・サークル」が浮き出る。それは「ホーキー」もささない内に砕け散り、アキナの体はあの紫の炎に包まれた。
紫の炎をまとった「ディストキーパー」の姿になったアキナは、こちらに背を見せ逃げようともがく男の首筋目掛けて、回し蹴りを放った。炎は刃と変わり、男のうなじを真一文字に斬り裂いた。
血しぶきを噴水のように上げ、男は前のめりに倒れた。
更に、首の傷から炎が広がり、その体を嘗め尽くした。
黒焦げの死体と、血だまり。それを見下し、虚ろな瞳で立ち尽くしていたアキナは、突然糸が切れたように膝をついた。
今のは……? 自分の身に訪れたことが、理解できなかった。確かに自分の意志で体を動かしていたはずなのに、目の前の惨状を引き起こした感覚が一切ない。
アキナは手を握り、拳を作る。一本ずつ指を折り、広げることを繰り返す。
動く、動くのだ。末端まで、十全に。
胸の奥を苛んでいた暴走の気配は消えていた。血と肉の焦げるにおいの中、すっきりしたような心持ちなのも、自分自身でうすら寒く感じる。
『暴れたものだね』
出し抜けに、場違いな少年のような声が響く。
『君に会う時はいつも酷い夜だ』
「パサラか……」
振り向いたアキナに、白い毛玉は挨拶するようにふわりと揺れて見せた。
「人を殺した『ディストキーパー』を、始末しに来たのか?」
『まさか』
君は「ディストキーパー」になった日も、相手を殺しているだろう。指摘されて、アキナはそうだったと目を閉じた。わたしの始まりの気持ち。それは、明確な殺意なのだ。
暴走は、暴走なんかではない。わたし自身の本質なのかもしれない。
『おや、暴走の衝動は収まっているね』
これは重畳、とパサラはくるりと回った。まるで喜んでいるように見えた。
『ならば、この人間も死んだ甲斐があったというものだ。君という「ディストキーパー」の精神安定の方が、この人間の生死よりも世界にとっては重要だ』
「こいつ、エリイの……」
『ああ、知っているよ』
すぐに肉体関係に持ち込もうとするから、散々苦労させられたよ。パサラはボヤく。人間風に言うならば「ふてえ野郎だ」というところかな。
「エリイの方の精神安定は、どうなんだよ……?」
彼女はきっと浮気を知らない。だから、死を知れば悲しむだろう。自分で殺しておいて何を言っているんだと思いながらも、アキナはパサラに尋ねずにはいられなかった。
『今や君の方が「ディストキーパー」としてのレベルが高い。より有能な方を優先するのは当然だろう?』
戦いに前向きではないエリイは「ディストキーパー」に向いていない、とパサラは断じた。
「でも、だからって……」
『どうしたんだい? 別にこんなことを気に病む必要はないだろう』
既に一人殺しているのだし。パサラの言葉は、この毛玉なりに元気づけるために発せられたのかもしれないが、アキナには冷たい氷塊のように伸し掛かる。
『いや、違うか。気に病んでいるんじゃないね』
パサラは丸い眼を瞬かせる。
『君は裁かれたいんだ。罰せられたいんだ。自分がしたことに対して、罰が降り注ぐことで、「インガ」応報となることを期待している』
だけど私はそれには応えられない。パサラは体を左右に揺らした。
『私は君たちの警察でもなければ裁判官でもない。もしこのことで仲間内で揉めるというなら、それは仲間内で解決しなさい』
「解決って……」
戦って解決したらいい、とパサラは提案する。強いものがルールとなるのがいい、とも言った。
『何せ、「ディストキーパー」の間での私闘は禁じていないのだから』
早くこの場から離れなさい。パサラに促されるように、アキナはふらふらとその場から離れた。背中越しに、パサラが『焼身自殺ということにしておこう』とつぶやくのが聞こえた。