5-1
「あなたと肩を並べて戦えるのは、わたしにとっては意味のあること、価値のあること」
パサラの言葉通り、「インガの裏側」を通り家に着くころには、トウコは立って歩けるほどには回復していた。
「でも、まだ無理しちゃダメですよ」
ベッドに寝かされて、すぐに身を起こしたトウコに、サヤは釘をさす。
「あの回復、危険ですよ。『インガクズ』を分け与えるのは、自分の身を削るのと同じですから……」
トウコの体すべてを回復のエネルギーに変えて照射することもできるだろう、とサヤは推測を述べた。
「まあ、そんな使い方はしないでしょうけど……。大けがを治そうとして勢い余って、とかありえるので……」
「覚えておく」
アキナはトウコをベッドに寝かせてから、少し遠巻きに二人の様子を見ていた。
サヤの肩越しに見えるアキナの顔色は曇っているようだった。
じゃあこれで、と帰ろうとするアキナを、「まあまあゆっくりしていってくださいよ」と、サヤが引き止める。
「親睦を深めましょう。わたし、学校も違いますし、なかなかみなさんとゆっくり話す機会なんてないですし」
ね、と微笑まれてもアキナはまだ逡巡しているようだった。困ったように立ち尽くしている。
「暴走のことでも気にしているの?」
トウコが尋ねると、アキナは珍しくうなだれた。
「いや、あたしは……」
「今帰って一人で悩むより、ここで話をした方が有益だと思う」
おや、とサヤが目を丸くする。
「トウコさんからそんな仲間意識的な言葉が出るなんて!」
「だから、あなたはわたしを何だと思ってるの」
肩をすくめてトウコは続ける。
「それに、馴れ合えと言っているのではない。また暴走されるとこちらが困るから、先に原因を取り除いておこうと思っただけ」
おお、ツンデレというやつですね。サヤがにこにこと笑うのは無視することにした。
アキナは少し顔を上げ、遠慮がちに床の上に座った。それを見たサヤは、こっちですよとその手を引いた。
三人は、トウコを真ん中に並んで座った。
アキナはじっと床に目を落としていた。サヤが何か言おうとするのを、トウコは手で制した。
「あたしさ……」
やがて、アキナは意を決したように顔を上げ、口を開く。
「昔、小学生の時だけど、変態男を退治したことがあったんだ」
「知っているわ」
とてもよくね、とトウコは心中で付け足した。
「有名な話、なんですよね」
二人の反応を見て、アキナは少し顔をしかめた。
「調子に乗ってたんだよ、あたし……」
「インガ」応報っていうのかな、と自嘲気味な笑みを浮かべた。
それからアキナはあの夜の話をした。退治した変質者が出所していたこと、そして復讐にやって来たこと。
やっぱり、とサヤが小さくつぶやくのが聞こえた。彼女は二の腕をぎゅっと抱いて、我がことのように身を震わせた。
「あれから時々、どうにもならないモノが、あたしの奥からわきだしてくるようになった」
「それが、暴走の原因……」
トウコの脳裏に「紫の炎」の揺らめきが蘇る。あの禍々しい熱がアキナの心を炙り、焦がしているのかもしれない。心の奥、深淵から燃え上がって。
「あたしのやってきたことなんて、身に付けた力なんて、何の意味もなかったんだ」
震えるのを堪えるように、アキナの声が大きくなる。
「力があれば、力をつけていけば、ちょっとずつでも世の中を変えられるとか、そんな風に考えていたけど、絵空事だったんだ、そんなの」
子どもの理屈だったんだよ。吐き捨てて、アキナは頭を振った。
「親友って言っていい友達がいるんだ……」
幼馴染みでさ、いい奴なんだよ、優しくてさ、真っ当なんだ。あたしが困った時、いつも助けてくれたんだ。頭を抱えたまま、アキナは続ける。
「そいつのお父さん、会社やってるんだけど、うまくいってないんだ」
でも、あたしにはどうにもできないじゃないか。何だって力になってやろうって、思うのに。アキナは自分の肩を抱いた。小さく小さく、なろうとしているように見えた。
「そんなことばっかりなんだ。負け続きなんだよ、今。さっきもそうだ、わけ分かんない力に体を操られて、死にそうになって……」
震えるほどに、アキナは縮こまっていくようだった。
「無意味なんだ、無価値なんだ。負けたままなんだ。あたしは自分をそう思うようになっちゃった」
アキナは奥歯をぎゅっと噛んでいた。溢れるものを、絶対に流すまいと抑え込んでいるようだった。
外を吹きぬける風の音だけが、やけに大きく聞こえた。
サヤは眉根を下げ、アキナの様子をうかがうように見ていた。トウコは大きく息をついて、沈黙を破った。
「意味はあったわ」
アキナは身を固くしたままだった。
「意味はあった」
トウコは繰り返した。力のこもった言葉だった。
「だって、わたしはあなたに救われたわ」
「救われた……?」
聞き返したのはサヤだった。トウコはアキナに向かった言葉を続ける。
「わたしは元々、鱶ヶ渕の人間ではない。小学六年生の二学期に、この町へ逃げてきた」
トウコは少し躊躇うようなそぶりを見せた。
「そう、わたしは今のような人間ではなかった。いじめられるのが当然のような、それこそ無価値で無意味な、いじけたグズだった」
新しい町にも不安感しか抱いていなかった。トウコは長い後ろ髪をかき上げた。「インガクズ」となって消えた過去を手繰り寄せていくように。
「そんな時、漆間、あなたのしたことを聞いたのよ」
「痴漢退治のこと、ですか?」
サヤの問いに、トウコはうなずいて見せた。
「そう。まるで異世界の戦士のように感じたのを、今でも覚えている」
戦士? とサヤは目をぱちくりさせた。
「大人の男に勝てる小学生なんて、早々いない。それも、素手で戦ってだなんて……まるでマンガみたいで」
「だから『異世界の戦士』、ですか」
「ええ、わたしに力があったら。そう思ったぐらいに、あなたに憧れたのよ」
アキナは身じろぎ一つせず、肩を抱いていた。ぽつりとそのまま言葉をこぼす。
「……憧れるようなもんじゃないって、今分かったろ? あたしもいじけたグズなんだ。変わんないんだ、ただの子どもなんだよ」
「それは……むぐっ」
サヤが何か言おうとしたのを、トウコは手で塞いだ。
「そうね、その通り」
「……ぶはっ! ちょっと!」
慰めるの下手すぎでしょ、とサヤが囁いてくるが、捨て置いてトウコは続ける。
「だけど、あなたのしたことがわたしを作った」
アキナはまだ、石のように動かないでいる。
「わたしは『最初の改変』で、今の人格を上書きした。グズで無価値な、無意味な存在を消した。あなたのように、違う世界の鍵がほしかったから」
「そんなもの、持ってなかったよ……」
「そのようね。でも、今はあなたも持っている」
トウコは「ホーキー」を取り出した。
「漆間、あなたは今日も負けたと思っているの?」
「と、闘士型には勝ちましたよ、ね?」
慌ててサヤは助け舟を出すが、アキナはかぶりを振り乗らなかった。
「違う。あたしが負けたのは、暴走にだ……。自分に負けたんだよ」
強張った体とは対照的に、その言葉に力はなかった。
「そう。だけど、こうしてまた暴走は解けた。わたし達のお陰でね」
アキナはうるんだ目でトウコを見上げた。湛えた涙の他に呆れが混じっている。
「ちょっと、トウコさん、さっきから……」
外野の声を無視して、トウコは話を続ける。
「でもそれは、あなた自身の力でもあるわ」
うるんだ目が、少し揺れた。意味を図りかねているようだった。
「あなたが変質者を殴らなければ、わたしは『ディストキーパー』になったとしても、この人格を上書きしなかったでしょう。あなたに憧れたから、わたしはここにいる。言わば、あなたがわたしを連れてきたの」
アキナの目から、呆れの色が消えた。トウコの瞳が真剣だと気付いたから。
「漆間アキナ。あなたと肩を並べて戦えるのは、わたしにとっては意味のあること、価値のあること」
だから否定はさせない。トウコは左手の「ホーキー」を握りしめた。
「あなたの負けはわたしが消す。いくらでも暴走すればいい。いつだって、戻してあげるから」
いつだって、隣にいるから。そこまでは口には出さなかったが。
アキナは小さく息を吐いた。縮こめていた体の力が抜けていく。氷が解けるようだった。目じりを拭って、トウコの顔をじっと見据えた。
「あんたは変な奴だな」
「ですよねー」
小さくサヤも笑った。
「でも、悪い奴じゃない。それはよく分かった」
家に帰らなくてよかったよ。アキナは大きく伸びをして、立ち上がった。きっと一人だけでは、またあの悪意の沼に、心の深淵に落ち込んでいただろうから。
「ありがとう。楽になった」
向き直ったアキナは手を伸べた。トウコは立ち上がって、その手を取った。
「こちらこそ。話してくれたことに感謝するわ」
一度強く握り、そして離した。アキナは今度はサヤの方を見やる。
「サヤもありがとう。引き止めてくれてさ」
「はい! あー、いえいえ、その、えっと……」
サヤはがばりと立ち上がったが、その目は宙をさまよっている。言葉を探しているようだった。
「わたし、先輩なのにあんまり、気の利いたこととか言えなくて、何て言うか、その、頼んないなって思ったかもしれないんですけど」
また少し詰まりながらも、何とか思いや考えを取り出しているようだった。
「その、わたしも、闇の怖さは知ってつもりですから、て言うか闇の『ディストキーパー』ですから! あれかもしれないですけど、何でも言ってくれたら、協力しますんで……」
ね! と何とかまとめた。アキナは少し苦い笑いを浮かべ、頼らせてもらうと応じた。
「そうだ、トウコ」
視線を戻し、アキナは自分の「ホーキー」を取り出した。
「また今度、あたしの技の名前も付けてくれよ」
「あなたの技、ただのパンチやキックじゃない」
想像もつかないわ、とトウコは肩をすくめる。
「じゃあさ、さっきのデカいビームみたいなヤツ」
「『トータル・エクリプス』ね」
即座に技の名をトウコは挙げた。
「それ。あんな感じのを、あたしができるようになったらさ。その時に頼むよ」
「実際見てみないことには分からないけれど……まあ、考えておく」
期待してる、とアキナは笑った。腫れたような目だったが、どこか吹っ切れたように見えた。
「そろそろ帰るよ。もう結構遅いし」
既に時刻は午後十時を回っていた。「ディストキーパー」の戦いは、夜間が多いのである。
「また来ていいか?」
「もちろん」
うなずき合い、アキナはくるりと背を向けた。
「じゃあ、また」
軽く手を挙げて、アキナは帰って行った。
さようならー、とその背に手を振り続けるサヤにトウコは向き直る。
「三住、あなたはいつ帰るの?」
「あ」
手を振るのをやめて、サヤは口元を押さえた。
「じゃ、じゃあわたしもお暇しますね……」
サヤはどこか名残惜しそうにスカートのすそをいじった。
「あ、あの、最後に……」
怪訝な顔を向けると、サヤは咳払いをして真面目な口調でこう尋ねてきた。
「昔、引っ越してきたって言ってたじゃないですか。何があったんですか?」
トウコは片眉を上げる。無表情の彼女にとっては、これだけでも動揺が顔に表れてしまった、と言えよう。
「面白い話ではない。それに、よくあること」
言外の意味を察したのか、サヤはそれ以上追及することはなかった。ただ、一言だけつぶやいた。
「わたしも同じです。私立の中学校に進んだのは、そういうことなんですよ」
薄く笑って、サヤは「それじゃあまた」と部屋を出て行った。
残されたトウコは自分の体を投げ出すように、ベッドに寝転がる。
話し過ぎたな。まあ、アキナの気が少し楽になったならいいけれど。
ごろりと寝返りを打ち、今はどこにもいなくなった少女の名をつぶやく。それは最早他人のように響いて、誰にも聞かれないままに消えていった。