1 ロザリモンドの困惑
ウィリアムが竜騎士に叙される前の日に駆け落ちしたロザリモンドは、全く家事をしたことが無かった。
ウィリアムはマウリッツ公爵家から追っ手が来るだろうと考えて、一時的に国外へと逃げようと計画していた。
夜中にメーリングから船に乗り、プリウス半島の先の東南諸島へと脱出する予定だったが、生憎、マウリッツ公爵家の手が回っていて果たせなかった。
「竜だったら、マウリッツ公爵家の手が回る前に船に乗れたのに……」
竜ならひとっ飛びのメーリングも、馬で二人乗りだと思いがけず時間がかかり、乗船予定していた船へと渡る艀には殺気だった追っ手が見張っていた。
「フォン・アリストとフォン・フォレストには近づけないな……」
こうなったら手付け金は惜しいが、船はほとぼりが治まるまで諦めるしかない。
ウィリアムは駆け落ちの最初からつまづいてしまったが、メーリングの近くに部屋を借りてロザリモンドと暫くは隠れて暮らす事にする。
「ロザリモンドでは、直ぐにバレてしまうね。
ローラと呼んで良いかい?」
ロザリモンドは小さな部屋でも、ウィリアムと一緒に居られるだけで幸せで、ローラという新しい呼び名も二人だけの秘密のみたいで嬉しく思った。
「ええ、勿論ですわ。
私も貴方をウィリーと呼びますわ」
熱々の駆け落ちカップルは、見つめ合って幸せそうに微笑んだ。
「あれから一月も経つのに……」
お淑やかで慎み深いロザリモンドだが、駆け落ち生活に一つ悩みがある。
「私が奥様として何も出来ないからかしら?」
ウィリーが見習い竜騎士の生活に見切りを付けて、逞しく生活費を稼ぐのに比べて、ローラと呼ばれていてもお姫様そのもののロザリモンドは侍女のいない生活だけで、あっぷあっぷしていた。
「下宿の奥様に何か教えて頂こうかしら?
そうすれば……」
ポッと頬を染めて、私が奥方らしくなれば、一緒のベッドで寝てくれる筈だとロザリモンドは考える。
メーリング郊外の下宿屋の女将は、元は船乗りの旦那がいたが難破して死んでしまった。
老後の資金を貯める為に何人かの下宿人を置いていたが、二階の夫婦者は怪しいと思っていた。
旦那は奥さんに丁重にエスコートしたり、物腰も一般人には思えなかったが、まだメーリングに日銭を稼ぎに行ったりしていたから、まだそこまでは変に感じない。
だが、旦那がいない時は、一日中部屋に籠もっている奥さんはどう見ても姫君にしか思えなかった。
旦那は仕事から帰って来ると、奥さんの為にあれこれと世話を焼いて、お風呂も毎日お湯を運んで入らせたりと庶民の生活では考えられない贅沢をさせている。
「こんな盥でしかお風呂を入らせられないけど……」
ロザリモンドもすすぎのお湯を考えながらの湯浴みに困惑したが、ウィリアムが二階まで何回も往復してお湯を運んでくれているので、文句は言わなかった。
「ありがとう、ウィリー」
ロザリモンドがお湯を使っている間は廊下でウィリアムは待っているのだが、それも女将には怪しく思える。
「あのう、奥様……
少し時間を頂けるでしょうか?」
普段は朝晩の食事の時しか部屋から出てこないローラが、女将が座っている居間に顔を覗かせた。
金髪をゆるく後ろでリボンで結わえて、地味な絹のドレスを着ているローラはお淑やかな姫君そのもので、女将は思わず立ち上がってしまった。
「何か不都合でもありましたか?
アーニャが粗相をしましたか?」
膝を痛めてから、女将のヘレナは漁村の娘のアーニャを掃除やなんかの手伝いに日中は来させていた。
「いえ、ヘレナ夫人。
アーニャさんは、よくして下さいますわ。
今日は少しお願いがありますの。
私は母を幼くして亡くしましたので、家事を全く習わずに大人になってしまいました。
私に料理や、掃除や、針仕事を教えて頂けないでしょうか?」
女将はこれは駆け落ちだとピンときた。
何も知らない姫君と下級貴族の子息か、騎士階級の身分違いの恋人が駆け落ちしたのだと、真実に違い所を女将は見抜いた。
「そうだね、何時までも下宿暮らしとはいかないだろう。
小さな家でも奥さんとして切り盛りするのは大変ですよ」
旦那が死んでから暇にしているのと、遠い街に嫁に行ったきりの娘を思い出したのもあり、ヘレナはローラに遅ればせながらの花嫁修行をつける。
「ウィリーを驚かせたいの。
ヘレナ様、秘密にして頂けませんか?」
「そりゃ、良いけど、ヘレナ様は止めておくれ。
ヘレナと呼んでくれないか。
私もローラと呼ばせて貰いますよ」
ヘレナは家事を習うのに絹のドレスは勿体ないと、嫁に行った娘の古着を出してきた。
ローラは木綿の服を着るのは初めてだった。
「よく似合うと言いたいけど、ダボダボだね。
針仕事を教えるのに丁度良いよ、サイズを直してみようね」
ローラの花嫁修行は針に糸を通すところから始まった。