第10話 涙の理由
湿った土の匂い、腐敗したアンデッドの残り香、そして「天空の盾」の男が放った冷気の残滓。それら全てを置き去りにした場所で、俺たちは地上に出た。
そこは「死者の揺籠」から十分離れた、静かな森の奥。
ブラッドレイさんと二人の若者は、まるで喉の渇きを潤すように、何度も何度も深く空気を吸い込んだ。それは、単なる外の空気ではなく、「自由」という名の、切実に渇望されていた息吹だったのだろう。
「ここからどうするんですか?」
俺は漠然とした問いを投げかけた。ブラッドレイさんは、一瞬にして憔悴した顔から仮面を剥がし、毅然とした表情を取り戻した。
「東の都市国家を目指す。もはやこの王国内にとどまる選択肢はない」
その言葉には、迷いも未練もない。
「足はどうするんですか?」
「歩いていくさ。私もまだまだ、健在だからね」
ブラッドレイさんは強がるように笑ったが、その足取りがすぐに鈍ることは、俺には容易に想像できた。
彼の体力は、ダンジョン内での緊張と逃走によって、既に限界に近い。ここからは【商人】の【交渉術】が再度力を発揮する。
「近くに闇ギルドのメンバーが潜んでいるはずです。相談次第では、都市国家群の近くまで、安全に、そして迅速に運んでくれるかもしれませんよ?」
俺がそう投げかけると、ブラッドレイさんを始め、若者二人の顔が、パァと明るくなった。
「そうなれば、本当に有り難い。ウォルト君、すまないが交渉を任せられるか?」
「勿論、大丈夫です。こう見えて、交渉事は得意なんですよちょっと。ちょっと待っててください。メンバーに話してきます」
俺は依頼人たちに背を向け、「死者の揺籠」から離れた集合地点を目指して歩き始めた。
少し歩くと、待ち合わせ場所の岩陰に、手綱に繋がれた大人しそうな地竜の姿が見えてきた。その傍には、黒いマントを羽織ったサシャが、岩にもたれかかっている。
俺が近付くと、サシャはさっと顔を上げる。
「サシャ、話がある」
「ん……? まさか、依頼に失敗したの?」
「いや。手紙は無事に届けたし、荷物も受け取った」
「じゃあ、何?」
サシャは訝しがる。
「実は、ブラッドレイさんを地上まで連れてきたんだ」
「はぁ? 近衛兵には見つからなかったの?」
「大丈夫だ。上手いことやった」
心底呆れた、という表情でサシャは続ける。
「で、どうするつもり? 彼等をつれて王都には戻れないわよ?」
「それは流石に考えてないそうだ。ブラッドレイさん達は東の都市国家群へ向かうらしい。途中まで送るだけで、結構な報酬を貰えるが、どうする? ここで恩を売るのも手だと思うが……」
サシャは口に手を当てて思考を廻らせる。
「わかったわ。ウォルトがそこまで言うなら、ただの運送賃以上の価値があるんでしょう。引き受けるわ」
サシャが合図を出すと【テイマー】が地竜の手綱を引き、竜車を動かし始めた。
こうして、一つの依頼が大きな縁を繋げることになった。
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一方、王都へと続く街道の途中。
フィオーナとクライドは、疲労の色を隠せない近衛兵たちと共に、馬車で戻る途上だった。彼らの捜索は、十日に及んだが無駄に終わった。
「クライド、どう思う」
「諦めるべきだ。君だってダンジョンの様子を見ただろ、【狂戦士】ウォルトによって、『死者の揺篭』は破壊され尽くされていた。ブラッドレイ伯爵は殺されたか、生き埋めになったか、もしくは飢え死にしているかだ」
「そうね」
二人の表情は暗い。「ブラッドレイ伯爵の捕獲」という依頼は、未達成に終わったのだから。
客室の窓は風景の移り変わりを届ける。しかし、フィオーナの胸にはあるモノは変わらない。ウォルトへの憎悪がはっきりと居座り続けていた。
#
王都に戻ると、フィオーナとクライドはすぐさまギルド本部へ向かい、副ギルド長への報告を余儀なくされた。
副ギルド長は、肉付きのいい中年の男で、机の上に広げた地図から二人へ視線を上げた。
「……結局、ブラッドレイ伯爵の身柄は確保できなかった、と?」
静かな声だったが、底に渦巻く苛立ちが、二人の皮膚を粟立たせる。
「申し訳ありません」
「詳しく聞こう」
副ギルド長は人差し指で机を叩き、フィオーナからの説明を催促した。フィオーナはポツリポツリと、顔を顰めながら経緯を報告する。
「あの底辺は【剣士】ではなく【狂戦士】だったと?」
「はい……。ウォルトは【狂乱の一撃】で破壊の限りを尽くしました」
副ギルド長は頭を抱える。
「ウチを逆恨みする【狂戦士】が存在する、と。大っぴらには出来ないが、メンバーには注意を促さねばならないな」
「はい……」
フィオーナとクライドは更に表情を険しくした。
「今回の依頼は王国からの極秘依頼だった。失敗を表立って咎められることはない。ただし、『天空の盾』の看板に泥を塗ったことは間違いない。そのことを肝に銘じて今後の活動に励んでくれ」
「はい……。心に深く刻みます」
副ギルド長室を出るフィオーナの顔は、ウォルトへの憎悪で醜く歪んでいた。
#
王都の裏通りに人目を避けるように存在するバー「青い目」。店内の奥、限られた者しか入れない部屋にサシャとフードの人物はいた。
小さな丸テーブルを挟み、二人は革張りのソファに腰を下ろしている。
「手紙と荷物を預かっています」
サシャが告げると、フードの人物は静かに頷いた。それを確認したサシャは、予め用意していたベルベットの包をテーブルに置く。ゆっくりと開いた。
手紙と丸い水晶がある。
「どうぞ」
「……はい……」
フードの人物は、水晶には目もくれず、我慢できない様子で手紙を開く。その手は、小刻みに震えていた。
紙の束を読み進めるにつれて、その震えは止まり、やがてフードの影から、光を反射する一雫の涙が、静かに頬を伝い落ちた。
手紙を読み終わると、フードの人物は、紙を強く握りしめ、顔を伏せた。
低い啜り泣きの声が、静かな部屋に響き渡る。その涙は、ブラッドレイ伯爵の覚悟と、彼が生きて帰れないことを受け入れた、深い悲しみと諦念の涙だった。
サシャは、静かに依頼主の心情を観察していたが、やがて口を開いた。
「依頼主様は一つ、勘違いされていらっしゃる」
フードの人物は、ハッと顔を上げ、濡れた目でサシャを見た。
「えっ?」
「ブラッドレイ伯爵はどうなったとお想いですか?」
サシャは、この瞬間を待っていた。物語の結末を、依頼主の予想とは全く違う、最良の形で伝える。
「えっ? 手紙には……近衛と戦って散ると……」
サシャは口元だけで笑った。その笑みは、闇ギルドの人間というよりも、一人の人間が持つ優しさに満ちていた。
「ブラッドレイ伯爵とそのお付きの方々は、生きて、都市国家群へ向かいました」
フードの人物は、その言葉を聞くと、再び顔を覆い、今度は堰を切ったように泣き出した。それは、先ほどの悲嘆の涙とは全く違う、魂の奥底から湧き上がるような、純粋な喜びの涙だった。
「なんとお礼を言えばよいか……」
「また、我々をご贔屓にして頂ければ」
「勿論です!」
泣き腫らした瞳に籠るのは希望の光。フードの人物は背筋を伸ばし、しっかりとした足取りで「青い目」を後にした。
ここで一区切り!!
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