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沈黙の夜  作者: 志に異議アリ


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9/11

名前



会議室の空気が、やけに薄かった。


慎一は、誰かが何かを言っているのを聞いていたはずなのに、

言葉が頭に入ってこない。

資料の文字が、滲んで重なる。



——もう、無理だ。

そう思った瞬間、

不思議なくらい体が軽くなった。

トイレに立つふりをして、

会社から外に出ていた。


どれだけ歩いたのか分からずただ目に入ってきたビルのエレベーターに気づけば乗っていた。

押した階数は、覚えていない。

屋上の扉は、簡単に開いた。

風が強くて、

自分がまだ生きていることだけが、やけにリアルだった。

手すりの向こうを見て、

慎一は初めて、はっきりと思った。



——死にたい。

怖いとか、悲しいとかじゃない。


終わらせたいという感覚だけが、そこにあった。


スマホが震える。

着信じゃない。

ただ、握っていただけだ。



慎一は、屋上の手すりにもたれてスマホを見つめていた。

連絡先を開いて、迷わず名前を押す。


——直人。

『今どこ』

送信してから、後悔が遅れてくる。

でも、取り消す前に返事が来た。

『今どこ』

慎一は、場所を書かなかった。

『風が強い』


それだけ。

数秒、既読がつかない。

その沈黙のあいだに、

慎一は「やっぱり言うべきじゃなかった」と思いかけて——

既読。

直人からの返事は、短かった。

『動くな』

慎一の指が止まる。

——どうして。

場所なんて、言ってない。

その答えを考えるより先に、

直人の次のメッセージが届く。

『そこ、前も行っただろ』

慎一の喉が、ひくりと鳴る。

忘れていたつもりだった。

忘れたことにしていただけだった。

仕事で限界だった夜。

何も言えず、

ただ高いところに逃げた夜。

——迎えに来たのは、あの時も直人だった。

『いいから、動くな』

画面の文字が、滲む。


屋上の床は冷たくて、

慎一はその場に座り込む。

背中を丸めて、

子どもみたいに小さくなる。

涙が出る理由も、

止まらない理由も、わからなかった。



——来ないかもしれない。

そう思った瞬間、

屋上の扉が、乱暴に開いた。

息を切らした直人が立っている。

スーツのまま。

ネクタイも緩めないまま。

「……っ」

慎一の姿を見た瞬間、

直人の顔が、歪んだ。

走り寄る。

何も言わずに、しゃがみ込む。

「……ばか」

声が震えている。

直人は、考えなかった。

線も、理屈も、全部置いてきた。

慎一を、抱きしめる。

初めてだった。

慎一の体は、驚くほど軽くて、

それでいて、壊れそうなくらい硬かった。

「……直人」

名前を呼んだ瞬間、

慎一は堪えきれなくなって、

直人の胸に顔を埋める。

「……もう、無理……」

声にならない声。

慎一は、すがりつく。

子どもみたいに、必死に。

直人は、強くは抱き返さない。

逃げない程度に、

でも、離れない力で抱く。

「ここにいろ」

それだけ言う。

「今日は、俺が離さない」

慎一の肩が、大きく揺れる。

泣き声が、風に消えていく。

屋上には、二人だけ。

空は、まだ暗い。

でも、慎一は

もう、手すりを見ていなかった。

直人の腕だけが、

現実だった。



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