名前
会議室の空気が、やけに薄かった。
慎一は、誰かが何かを言っているのを聞いていたはずなのに、
言葉が頭に入ってこない。
資料の文字が、滲んで重なる。
——もう、無理だ。
そう思った瞬間、
不思議なくらい体が軽くなった。
トイレに立つふりをして、
会社から外に出ていた。
どれだけ歩いたのか分からずただ目に入ってきたビルのエレベーターに気づけば乗っていた。
押した階数は、覚えていない。
屋上の扉は、簡単に開いた。
風が強くて、
自分がまだ生きていることだけが、やけにリアルだった。
手すりの向こうを見て、
慎一は初めて、はっきりと思った。
——死にたい。
怖いとか、悲しいとかじゃない。
終わらせたいという感覚だけが、そこにあった。
スマホが震える。
着信じゃない。
ただ、握っていただけだ。
慎一は、屋上の手すりにもたれてスマホを見つめていた。
連絡先を開いて、迷わず名前を押す。
——直人。
『今どこ』
送信してから、後悔が遅れてくる。
でも、取り消す前に返事が来た。
『今どこ』
慎一は、場所を書かなかった。
『風が強い』
それだけ。
数秒、既読がつかない。
その沈黙のあいだに、
慎一は「やっぱり言うべきじゃなかった」と思いかけて——
既読。
直人からの返事は、短かった。
『動くな』
慎一の指が止まる。
——どうして。
場所なんて、言ってない。
その答えを考えるより先に、
直人の次のメッセージが届く。
『そこ、前も行っただろ』
慎一の喉が、ひくりと鳴る。
忘れていたつもりだった。
忘れたことにしていただけだった。
仕事で限界だった夜。
何も言えず、
ただ高いところに逃げた夜。
——迎えに来たのは、あの時も直人だった。
『いいから、動くな』
画面の文字が、滲む。
屋上の床は冷たくて、
慎一はその場に座り込む。
背中を丸めて、
子どもみたいに小さくなる。
涙が出る理由も、
止まらない理由も、わからなかった。
——来ないかもしれない。
そう思った瞬間、
屋上の扉が、乱暴に開いた。
息を切らした直人が立っている。
スーツのまま。
ネクタイも緩めないまま。
「……っ」
慎一の姿を見た瞬間、
直人の顔が、歪んだ。
走り寄る。
何も言わずに、しゃがみ込む。
「……ばか」
声が震えている。
直人は、考えなかった。
線も、理屈も、全部置いてきた。
慎一を、抱きしめる。
初めてだった。
慎一の体は、驚くほど軽くて、
それでいて、壊れそうなくらい硬かった。
「……直人」
名前を呼んだ瞬間、
慎一は堪えきれなくなって、
直人の胸に顔を埋める。
「……もう、無理……」
声にならない声。
慎一は、すがりつく。
子どもみたいに、必死に。
直人は、強くは抱き返さない。
逃げない程度に、
でも、離れない力で抱く。
「ここにいろ」
それだけ言う。
「今日は、俺が離さない」
慎一の肩が、大きく揺れる。
泣き声が、風に消えていく。
屋上には、二人だけ。
空は、まだ暗い。
でも、慎一は
もう、手すりを見ていなかった。
直人の腕だけが、
現実だった。




