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沈黙の夜  作者: 志に異議アリ


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8/11

距離



慎一がシャワーを浴びている間、

由紀はソファに座ったまま、テレビもつけずに待っていた。

水音が、やけに遠い。

「……ねえ」

ドア越しに声をかける。

「今日も遅かったの?」

「うん。ちょっと立て込んでて」

いつもと同じ答え。

嘘かどうかは、もうどうでもいい。

同じ言葉が、同じ距離を作ることのほうが、ずっと怖い。

慎一が出てきて、タオルで髪を拭きながら言う。

「先、寝てていいよ」

その一言で、由紀は確信してしまう。

——今日も、触れない。

「……いつからだと思う?」

慎一の手が止まる。

「私たち、こんな感じになったの」

責める声じゃない。

確認するみたいな声。

「疲れてるんだよ、今。仕事がさ」

慎一はそう言って、目を逸らす。

その言葉を、由紀は何度も飲み込んできた。

「疲れてるのは、わかってる」

少し間を置いてから、続ける。

「でもね。

 疲れてるって理由、もう何ヶ月も聞いてる」

慎一は黙る。

反論しない。

「……女として見られてないのかなって」

言った瞬間、胸が痛む。

こんな言い方、したくなかった。

「違う」

即答だった。

「違うけど……余裕がない」

由紀は、笑ってしまいそうになる。

「余裕がないのは、

 私を抱かない理由にはなるけど、

 私が一人で疑う理由には、十分なの」

慎一の眉が、わずかに寄る。

「誰か、いるの?」

ついに出てしまった言葉。

慎一は首を振る。

「いない」

迷いはない。

だからこそ、由紀は別のところを見る。

「……そう」

でも、続けてしまう。

「じゃあ、

 あなたの心は、どこに行ってるの?」

慎一は答えない。

その沈黙に、由紀はすべてを感じ取ってしまう。

——人じゃないかもしれない。

——でも、ここにはいない。

「ねえ慎一」

声が少しだけ震える。

「“友達”って言葉、最近よく使うよね」

慎一が、ぴくりと反応する。

「仕事の人。昔の知り合い。

 全部“友達”」

由紀は自分の指先を見る。

「その言葉を使うたびに、

 あなた、少し遠くを見るの。気づいてた?」

慎一は何も言えない。

「浮気してるって、決めつけたいわけじゃない」

由紀は立ち上がる。

「でもね。

 触れない夜が続くと、

 女は、想像するしかなくなるの」

慎一の喉が鳴る。

「……ごめん」

それは謝罪だった。

説明じゃなかった。

由紀は、その違いに気づいてしまう。

「私ね」

一歩、距離を詰める。

「あなたが壊れそうなの、わかってる」

だから余計に、苦しい。

「でも、

 私の前から心がいなくなるなら……

 ちゃんと、教えて」

慎一は、何も答えない。

由紀はそれ以上聞かず、寝室へ向かう。

ドアが閉まる前、

一度だけ振り返る。

そこにいるのは、

仕事に疲れた夫なのか、

どこか別の夜に立っている男なのか。

由紀には、もうわからなかった。


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