距離
慎一がシャワーを浴びている間、
由紀はソファに座ったまま、テレビもつけずに待っていた。
水音が、やけに遠い。
「……ねえ」
ドア越しに声をかける。
「今日も遅かったの?」
「うん。ちょっと立て込んでて」
いつもと同じ答え。
嘘かどうかは、もうどうでもいい。
同じ言葉が、同じ距離を作ることのほうが、ずっと怖い。
慎一が出てきて、タオルで髪を拭きながら言う。
「先、寝てていいよ」
その一言で、由紀は確信してしまう。
——今日も、触れない。
「……いつからだと思う?」
慎一の手が止まる。
「私たち、こんな感じになったの」
責める声じゃない。
確認するみたいな声。
「疲れてるんだよ、今。仕事がさ」
慎一はそう言って、目を逸らす。
その言葉を、由紀は何度も飲み込んできた。
「疲れてるのは、わかってる」
少し間を置いてから、続ける。
「でもね。
疲れてるって理由、もう何ヶ月も聞いてる」
慎一は黙る。
反論しない。
「……女として見られてないのかなって」
言った瞬間、胸が痛む。
こんな言い方、したくなかった。
「違う」
即答だった。
「違うけど……余裕がない」
由紀は、笑ってしまいそうになる。
「余裕がないのは、
私を抱かない理由にはなるけど、
私が一人で疑う理由には、十分なの」
慎一の眉が、わずかに寄る。
「誰か、いるの?」
ついに出てしまった言葉。
慎一は首を振る。
「いない」
迷いはない。
だからこそ、由紀は別のところを見る。
「……そう」
でも、続けてしまう。
「じゃあ、
あなたの心は、どこに行ってるの?」
慎一は答えない。
その沈黙に、由紀はすべてを感じ取ってしまう。
——人じゃないかもしれない。
——でも、ここにはいない。
「ねえ慎一」
声が少しだけ震える。
「“友達”って言葉、最近よく使うよね」
慎一が、ぴくりと反応する。
「仕事の人。昔の知り合い。
全部“友達”」
由紀は自分の指先を見る。
「その言葉を使うたびに、
あなた、少し遠くを見るの。気づいてた?」
慎一は何も言えない。
「浮気してるって、決めつけたいわけじゃない」
由紀は立ち上がる。
「でもね。
触れない夜が続くと、
女は、想像するしかなくなるの」
慎一の喉が鳴る。
「……ごめん」
それは謝罪だった。
説明じゃなかった。
由紀は、その違いに気づいてしまう。
「私ね」
一歩、距離を詰める。
「あなたが壊れそうなの、わかってる」
だから余計に、苦しい。
「でも、
私の前から心がいなくなるなら……
ちゃんと、教えて」
慎一は、何も答えない。
由紀はそれ以上聞かず、寝室へ向かう。
ドアが閉まる前、
一度だけ振り返る。
そこにいるのは、
仕事に疲れた夫なのか、
どこか別の夜に立っている男なのか。
由紀には、もうわからなかった。




