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カンシは不意に倒れた男へと駆け寄る。声をかけるが意識は戻らない。足は太ももをベルトでキツく縛られている。カンシはすぐに脈拍を確認する。
「橈骨脈なし、頸動脈あり。治癒班、この方を優先してください。そこの脚の骨折は後回しで構いません」
凡人の論理と倫理。だが戦場で最も必要とされるまともさだった。マツガタがカンシの横顔をちらりと見る。
「……やっぱり、特つきの監視官ってだけありますね」
「私は弱いですよ。だから死なないように努力しました。そして、死んではいけない順番を弁えているだけです」
その瞬間だった。ロビー全体の空気が、ぎゅっと押し潰されるような圧迫感に覆われた。照明がバチッと明滅し、外と内を分けるガラスが一枚、音を立ててヒビ割れる。人々から悲鳴が上がる。マツガタが顔を上げる。
「っ!…何、この圧……?」
カンシは即座に理解した。
「遮那王だ」
宙を漂っていた埃や砂が重力に従い真っ直ぐに落ちる。重い。息がしづらい。怒りをまとった獣のような重圧が、建物全体を支配した。
北側搬入口の鉄扉が、音を立てて折り曲げられ開いた。そこから、美麗な男と偉丈夫が姿を現す。彼らのの一歩ごとに、床の塵がわずかに沈む。
最初に現れたのは偉丈夫の方だった。鋭く力強い体躯の男、遮那王。都市圧殺級の異能を持つ男は、その体から放たれる気圧と重力の影響で、空気そのものがわずかに沈む。踏み込むたびにコンクリートが微かに軋む音が混ざり、周囲の避難民やB級能力者たちは無意識に一歩退く。遮那王の厳格な性格が歩き方に現れているようだ。その一歩ごとに人々は緊張を滲ませる。顔に浮かぶ表情はほとんど動かないが、その目つきは鋭く一瞬で状況を掌握する。無駄のない動きと視線の鋭さはまるで戦場帰りそのものだ。
その隣に立つのは慈悲王。32歳とは思えない美麗な顔に柔和な表情を浮かべている。雰囲気にどこか達観した雰囲気を漂わせる。周囲の混乱や恐怖に微動だにせず、淡々と歩みを進める姿は、年齢以上の重みを感じさせる。だが、その瞳の奥には、倫理観のバグとも言える異常な人命軽視の閾値が潜んでいる。死者を見ても一瞬眉をひそめるどころかニコニコと笑みを深める。表面上はわからない倫理観のズレが、他者に違和感を与えるだろう。
避難所に到着した彼らをみてマツガタは言葉が出ない。カンシも背筋を伸ばす。
遮那王はロビーを一瞥した。避難民を見た。ここで死んだ者、間に合わなかった者、その全てを見た。怒気がふっと強まる。だが、夜凪の異能の余波が屋上から微かに届いた瞬間、その怒りがほんの一瞬だけ揺れた。夜凪に牽制されたのだ。怒気を抑えろと。
眉がわずかに寄る。肩がほんの少し緩む。怒りが弱まるというより、向き先が変わった。遮那王が次の一歩を踏み込んだ。後ろから、柔らかい声が響いた。
「──うわぁ……これは大変ですね」
声は柔らかく、優しく、どこにも棘がない安心感を与える声だ。慈悲王は血の色のついた白衣を脱ぎながら、離れたところにいる床に転がる死傷者を見下ろす。
「死んだ方、何人くらいです?」
マツガタが息を飲む。遠慮の欠けらも無い言葉にカンシが答えようとしたが、その前に慈悲王がさらに言葉を続けた。
「生きてる人は…まあ、大丈夫ですよ。壊れてても直せますし。死んでても、形が残ってればどうとでもしてあげます」
柔らかい声。やさしい微笑み。内容だけは無遠慮で。遮那王のこめかみが引き攣る。
「……お前はそれを励ましで言ってるつもりか?」
「はい。だって、皆さん希望を持った方がいいでしょう?死体でも生き返るって信じてるんでしょう?僕が形だけはきちんと直してあげますよ。それに運が良ければ意識も─」
「黙れ」
空気が重く沈む。慈悲王は困ったように笑う。
「怒りすぎると、血圧上がって死にますよ?でも安心して下さい。もし遮那さんが死んでも僕が特別価格で直してさしあげます」
「お前が俺を治すわけないだろうが」
「あはは、バレました?高ランクってなかなか手に入らないんですよねぇ。」
ここで周囲の避難民が完全に凍りついた。なぜなら慈悲王は本気で言っているからだ。優しい声で、優しい顔で、何ひとつ優しくない宣言をする。だがカンシは前にでる。2人の異常な会話に怯みながらも役目を果たすために前にでる。虚勢をまとい、震えを押し殺し2人の王へ声をかける。
「遮那王様、慈悲王様。お話中、申し訳ございません。危篤な民間人が多数います。まずは重圧を収め治療をしていただけませんか?」
遮那王の鋭い視線。慈悲王の微笑む視線。どちらも刺さる。だがカンシは一歩も引かない。
遮那王が低く問う。
「満月はどこだ。」
虚勢が剥がれたカンシは即答する。
「外です。すでに禍種の包囲を突破し半径5km圏内の禍種を駆除済みです。異能は安定、戦闘継続可能。生命反応も強く問題ありません。」
遮那王の怒りがスッと、別の感情へ流れる。焦燥と苛立ち。そして、微かな安堵。この男は過去起こったとある事件から夜凪を気にかけている。まあ、夜凪が忘れるほど夜凪にとってはどうでもいい事だったが。
カンシの言葉に慈悲王が楽しそうに手を叩く。
「良いですね!では会いに行きましょうか。満月ちゃん、久しぶりに身体検査でもしましょう!」
遮那王が振り返らずに吐き捨てる。
「余計なことはするな。」
「余計なことはしてませんよ。必要なことだけ。あなたも僕の患者ですからね。気になるところがあれば遠慮なく言ってくださいね?」
「だから黙れと言ってる。」
二人が階段から屋上へ向かう。その通過だけで周囲の空気が震える。誰も声を出せない。緊張が解け笑っていた子供すら、声を上げることができない。
いつの間にいたのか、遮那王と慈悲王を運んできたA級能力者とそれぞれの専属監視官が屋上へ向かう2人の後を追う。3人の専属監視官のうち、2の腕を掴み引き止める。そして遮那王と慈悲王を顎でしめし言葉を発する。
「どうにかしてください。」
その言葉には断りきれない圧がある。怪我人を治療してもらわなければ慈悲王が来た意味がない。遮那王には現状の説明と今後を伝えなければならない。だから自由行動は困るのだ。だが、3人の専属監視官も負けていない。
「僕に気安く触れるな。」
「慈悲王様の判断に逆らう気か?」
「離して下さい、セクハラで訴えますよ。」
1人目は腕を振り払い掴まれた場所を払っている。2人目は苛立ったようにカンシを睨む。3人目は不審者を見るような蔑んだ目で見あげてくる。こんなに可愛くない上目遣いを見たのは初めてだ。
カンシは思わず白目を向いた。この専属監視官にしてあの特A級能力者あり、と。
特A級能力者と専属監視官の関係性は特殊だ。時に親子のように兄弟のように上司と部下のように無関心に化け物のように神と信奉者のように、専属監視官と特A級能力者の数だけ関係性があるのだ。
特A級能力者のことを人間の上位交換だというものがいる。それは容姿、知力、体力、気力全てが他者より優れているからだ。そして、新種の禍種だというものもいる。コミュニケーション力、倫理観、正義感、共感力など何かしら人として大切なものが欠落しているからだ。
だから特A級能力者には必ず1人以上の専属監視官が配置される決まりになっている。専属監視官は強大な力を持つ能力者の抑止力でならなければならない。時に身体を、時に情を金、家族、未来、法律、立場、命、権力、使えるものは全てを使い脅し、媚びて人間と自国の味方であるように導かなければならないのだ。そして特A級能力者の行動を常に監視し、評価・記録・報告する。その結果、特A級能力者が人類にとって悪だと判断すれば処分するように国へ上申する。だから、国に認められる程の倫理観と忠誠心、人間性は持ち合わせているはずなのだが、その分癖の強い者しかいない。また、特A級能力者に魅了され国よりも特A級能力者を優先するものが出てくる。そのため専属監視官は特A級能力者だけでなく専属監視官同士でも監視しあっているのだ。余談だが専属監視官の移り変わりが最も激しいのは慈悲王である。
特A級能力者同士が仲悪いと専属監視官同士の相性も悪いものなのかカンシはくだらないことを考える。
そこへ夜凪が戻ってくる。いつの間に建物内に入ったのだろうか。異能の力も音も風も感じなかった。夜凪は気づけばカンシの真横に浮かんでいた。
「この状況は?慈悲が来て5分は立ってるのに治療がおわってない。」




