39
夜凪の消失から、学生たちは呆然と立ち尽くした。蹲る者、顔を覆い声も出せずに涙をこぼす者。時間が止まったように、ただ絶望だけが空気に漂っていた。
その状態は約一時間ほど続いた。呆然、混乱、そして失敗。全てが頭の中で重くのしかかる。
やがて、時計の針が15時47分を指すと、世界が一瞬で巻き戻った。タイムループが始まり、夜凪が学園に現れる一日前に戻る。学生たちは部屋の中にいる。ループ直前の絶望は、なかったかのように時間は巻き戻る。
だが、ループしたものの精神状態までは戻らなかった。
誰も、すぐには動けなかった。立っている者はいない。椅子に崩れ落ちたままの者、床に座り込んだままの者。呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……やっぱり、ダメだったんだな」
誰かが、呟いた。それだけで空気が沈む。
「特A級が本気でやっても失敗して…それでも、終わらなかった」
別の学生が言葉を放つ。その声は震え、顔は死人のように色がない。体は震えている。
「俺たちが何やっても……意味、ないじゃん」
否定する声は出なかった。誰もが同じことを考えていたからだ。
「もうループ、したくない。」
静かな声だった。泣いてはいない。疲れたような声だった。
「次に戻っても、どうせ失敗だろ。」
その学生は、ふらりと壁際へ歩いた。
誰も最初は、何をするのか分からなかった。
鈍い音が響く。額が壁に当たった。
一度だけではない。もう一度、さらにもう一度。力加減を考えずに頭をただ壁にぶつける。額からは血が垂れている。
「やめろ!」
院生が叫ぶ。次の瞬間、別の学生が飛びついた。腕を掴み、後ろから抱き締める。必死に、逃げようとする身体を押さえつける。
「離せ!戻りたくない!もう戻りたくない!」
叫びは悲鳴ではなく、懇願だった。院生は妙に冷静な顔と言葉で言う。
「……やめろよ。死んでもどうせ戻るだけだ。おい、式をまとめろ。あの人に会うまでに計算し直すぞ」
院生の言葉は、優しさでも希望でもなくただの抗えない事実だった。50を超えるループに耐えきれず死んだ者は何人もいた。その人らはもれなく1日経つと死すらも否定され同じ日を繰り返すのだ。
院生は紙の束を取り出し床に先程の計算を覚えている限り付け足していく。
拘束締められていた学生は、数秒だけ抵抗しやがて脱力する。床に崩れ落ちる。肩が小さく上下するだけで、泣き声は出ない。額から垂れる血の音だけが、やけに鮮明に聞こえた。
「……戻るの、確定なんだよな」
誰かが呟く。院生は紙から顔を上げずに声をあげる。
「夜凪さんと計算してたやつらは集まれ。思い出せる限り書き出す。計算の時間を減らす。」
ゆっくりと、数人が机に集まる。手は震えている。ペン先が紙に触れない者もいる。
別の方向で、誰かが壁にもたれながら言った。
「……特異点。あれ、同じ場所じゃないんだったよな。」
その一言で、空気がわずかに変わった。
「じゃあ探索だ。敷地内全部。先に探す。少しでも早く戻るために。いいな、見つけたら触るな、近づきすぎるな。覚えて地図に落とせ。今回の夜凪さんに渡す。前と同じか確かめろ。」
絶望の淵にいた学生たちは、自然と院生を中心に団結した。立ち上がり、互いの表情を確かめながら、それぞれの役割を確認する。
夜凪と共に計算をしていた学生は、机に向かい、夜凪がほとんど進めていた膨大な計算を整理し、まとめる。名門校の生徒たちは、夜凪の残した流れを記憶の片隅から呼び出し、正確に再構築することができた。
一方、残りの学生たちは敷地内を走り回り、特異点を探す。前回とは微妙に異なる場所に現れた歪みを慎重に確認し、写真や観察で記録する。拳大ほどの空間の歪みは、今回も確かに存在していた。しかしその位置はループ前とは違っていた。
こうして、学生、院生、教授たちはすべての準備を整えた。
次の日、院生は朝一で夜凪に接触を試みた。
朝の学園は、静かだった。
風は吹いているはずなのに、木々は音を立てず、遠くの校舎もただ立っているだけに見える。いつも通り、平和な日常そのもののように見える。
院生は、ひとり正門で夜凪を待つ。夜凪が正門から来るのは今回の事件以前から知っていた。進化か魔族か、なんてくだらない陰謀論に影響されて夜凪を調べていたのだから。
院生は冷汗をかきながら夜凪が現れるのをひたすら待つ。何分経ったのだろうか。通路の向こうから、夜凪が現れた。
ループ前と同じ姿。ループ前と同じ気怠げな歩き方。
重そうなコートを羽織りゆっくりとつまらなそうに前を見て歩いている。
夜凪に声をかけようとして院生は足を止めた。
夜凪が冷たい黄金の瞳で院生を一瞥した。喉が詰まり、言葉が喉から出てこない。夜凪からはなしかけてきた。
「…なに?」
敵意はない。警戒も薄い。ただ、面倒そうな声音。院生は、一歩だけ距離を詰める。確実に声が届く距離。
「Code7番」
それだけを告げた。左手で顎をかくのも忘れない。
夜凪は瞬きを一度する。ほんのわずかに間が空き、表情が変わる。気だるげな瞳はしっかりと開き院生を見つめた。頭のてっぺんからつま先まで一瞬で値踏みされた。その事に気づき何故か分からないが院生は身体中からブワッと汗が吹き出る。
夜凪は億劫そうに口を開いた。
「……分かった」
夜凪は理由を聞かない。確認もしない。これは夜凪とカンシだけの秘密の合図である。それを他人が知っているということはそれだけ重要なことが起こったのだろう。
「協力すればいいんでしょ」
ヨナは淡々とした声で答える。それは無条件の了承。
その声を聞いて院生の背中を冷たいものが流れ落ちた。
「……あり、がとう。」
院生の声は、ひどく乾いていた。
夜凪は、院生を再度観察するように見つめた。
青白い顔。不自然なほど落ち着いた目。誰が見ても訳アリそうな顔。明らかに面倒臭そうな案件にひとつため息をこぼしす。
「はぁ。どこに行けばい?」
その問いに、院生は研究棟の方を指す。
「あそこで、まずは計算してほしいんです。時間がないから。」
何も知らない初対面の院生について行った。
夜凪が研究棟に入ると、冷たい空気が迎えた。蛍光灯の白が、やけに眩しく目を刺すした。
夜凪は椅子に腰を下ろし、机を見る。
「……途中までやってあるね」
「説明は必要ですか?」
院生が無言で、紙束を差し出す。その指は震え、紙が擦れる音を鳴らした。夜凪は紙を受け取り目を通す。ザッと目を通すのすぐにペンを取った。
「いらない。計算すればいいんでしょ?」
そう言うとヨナは紙束に手を置き、さらさらと躊躇なく式を付け足していく。
研究棟の一室は、異様な静けさに包まれていた。
蛍光灯の白い光が机の上だけを照らし、影が不自然な角度で伸びている。外から聞こえるはずの学生の声や足音はなく、まるでこの部屋だけが世界から切り離されたようだった。
夜凪は無言でペンを走らせていた。
紙の上に並ぶ数式は複雑で、一種の言語のようだ。夜凪のペンには迷いがない。計算は滑らかに繋がり、途中で止まることがない。思考が流れる速度に、手が追いついている。
計算を続けているとふと、夜凪のペン先が止まった。
数式の端、書き癖、符号の省略の仕方、変数の置き方、補助式を挟むタイミング。どれも見覚えがある気がした。
夜凪は眉をひそめ、紙を少し引き寄せる。さらに別の紙にも目を走らせる。その全てはどこか、書き方に癖があった。計算の組み立て方が、妙に分かりやすい。自分と同じ思考の人間が書いているみたいだ。
「……」
ペンを置く音が、やけに大きく響いた。
夜凪は顔を上げ、院生を見る。その視線は鋭い。異能力がジワリと夜凪から漏れる。夜凪はわざと院生含めてそこにいる人間に威圧をかける。
「これ」
紙を指で叩く。
「私が解いたの?」
空気が凍りついた。院生の喉が、小さく鳴る。返事が出ない。夜凪にとって答えはそれだけで十分だった。
夜凪は視線を紙に戻し、今度は式全体を俯瞰するように見た。構造。狙い。終着点。全てを理解すると院生に問いかける。
「……これの目的って、ループを止めること?」
その一言で、周囲にいた学生たちの顔から血の気が引いた。誰かが無意識に一歩下がる。椅子が床を擦る音がして、すぐに止まる。夜凪からの圧が強くなったからだ。
夜凪はゆっくりと息を吐く。
「あー、お前たち」
声は低い。責める調子ではない。だが、硬い声で断定する。
「禁忌に手、出したんだ。」
室内を沈黙が包んだ。誰も否定しない。否定できない。事実であったから。時間に関する魔術の研究、再現が国内で禁忌として扱われているのはそこらの中学生でも知っていることだった。
院生の指先が、紙の端を強く握りしめる。白くなった指が、かすかに震えている。
「……ああ。」
かろうじて絞り出された声だった。
その瞬間、部屋の空気が一段重く沈んだ。禁術。時間への干渉。学園内では、口に出すことすら避けられる領域。
夜凪は、驚かなかった。ただ、少しだけ目を細める。どの時代、どの場所にでも一定数間違いを犯すものはいる。それに夜凪は巻き込まれただけだ。運がなかった。
「そっか」
淡々とした一言には怒りも拒絶もない。それが逆に、学生たちを追い詰めた。焦燥感が募る。
「……違う、俺たちはこんなことをやりたかったわけじゃ……」
誰かが言いかけて、言葉を失う。説明しようとして、何から話せばいいのか分からなくなったのだ。
「まぁ、理由はいいよ。」
夜凪は再びペンを取る。紙の上には新しい式が書き足されていく。
「やった事実は変わらないし。今さら戻れないのも、見れば分かる」
その言葉に、誰かが唇を噛んだ。戻れない。その現実を何度も繰り返し体験した。夜凪は、計算を進めながら続ける。
「ただこれ、かなり危ないんだよね。下手すれば私が死ぬし。」
その言葉に学生たちさ目を見開いたり、肩が跳ねたりと動揺を表した。その反応で夜凪は察した。だがそれに構わず計算を続ける。その表情は、相変わらず淡々としていた。
「…へえ、前の私は失敗したんだね。」
学生たちは何も答えられなかった。夜凪は小さくため息をつく。
「最悪。」
そう言いながら、紙を引き寄せ、さらに計算を進める。
「前、私はなんでお前たちに協力したの?なんで、code7を使たんだと思う?」
夜凪は学生たちをチラリと見やる。視線を逸らす者、唇を噛む者、手を組む者。彼女を一身に見つめる者がいる。だが、誰も答えない。過去、夜凪に協力を求めるために行った、または行わされた非道な経験を思い出し口が開けないのだろう。
「……黙秘?」
ふぅ、と小さく息を吐く。
「じゃあ推測する」
夜凪は顎に手を当て、紙に書かれた計算式とその答えを指でなぞった。
そこには、明らかにループとは関係ない数字が混ざっている。前の夜凪が今回の夜凪に向けて残したメッセージだろう。
数字が表している言葉はふくじゅう。ふくじゅうとは服従のことだろう。単語の意味がわかるがそこに至るまでの詳細はわからない。
では、誰が服従するのか。私には服従するメリットがない。なら、このループしている学生が服従するのだろう。code7を含めた意味での服従の定義とは対価とは何か。
夜凪はひとつずつ口に出していく。学生たちの反応を見ているのだ。
「命じゃない。未来でもない。金銭、家族、でもないか…。」
なら、服従とは何が当てはまるのだろうか。
「上下関係、は安直か…。」
院生の肩が、わずかに揺れた。院生の気配に夜凪は顔を上げる。
「あ、あたった?前の私は、条件を出した。自分の指示に従う存在を要求してる、ってことだね。」
院生の顔色が一瞬にして変わる。
「……んー、でも。私、こんな回りくどい契約しないんだよね。」
紙を一枚、指先で弾く。
「なら、なんだろ。……犬になれ、とか?」
空気が凍った。誰かが小さく喉を鳴らし、誰かが耐えきれず視線を落とす。その沈黙自体が、答えだった。
明らかに変わった空気感に夜凪は理解した。ほんの一瞬だけ目を細めた。
「…ビンゴ。だから code7番なんだ。」
顎に手を当てる。
「最優先で協力する合図。何も知らない状態の私でも、条件反射で協力するよう仕込んだ」
ペンを再び走らせる。
「前の私って合理的で最低だね。とってもめんどくさい。」
一行、計算を書き足す。
「確認するけど、前の私はなんで失敗したの?」
冷たい夜凪の声に院生は生唾を飲み込み答えた。
「…わからない。あんたが魔術を発動して、特異点が消えると思ったら…急に腕が吹き飛んだんだ。」
「そう。前は何分で式完成したの?」
「77分だ」
「これを一から1時間ちょいでか…。頑張ったんだね。」
「よし、計算終わった。行こ。ループを終わらしに。」
そう言うと夜凪はゆっくりと立ち上がり学生達が観測した特異点へと歩き出した。
特異点を消失させるために魔術陣を構築し発動する。
なんだろう。魔力の流れがおかしい。流れない。いや、詰まっている?
今回の結果も失敗だ。
「…まじか。次の私にもっと計算に時間かけろって言っといて。」
ゆっくりとした動作で後ろを振り返ったヨナは僅かに眉を下げ困った表情をしていた。
ジリジリと特異点へと引っ張られていく。
前回のループと同じように特異点に引き込まれて夜凪は死んだ。




