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声を出したのは教授ではない。足を折られた大学院生だった。彼は痛いだろうに床に這いつくばりながらも健気に夜凪へ声をかける。
院生の声は、妙に事務的だった。瞳が揺れ動いていることから緊張していることが伺える。
「正式名称は……ありません。通称は“僕たちの考えた最強の能力サークル”です」
誰かが小さく息を吸う。夜凪の反応を窺う癖がもう染みついている。
「活動内容は、アニメや漫画に登場する技術や能力の再現、原理の解析、魔術的・異能的な応用の検証とかです。」
淡々と続けながら、院生は無意識に指を組み替えている。関節が白くなるほど力が入っていた。
「人数は全体で百人ほど。奇人、変人、凡人が多いことで有名です。公式サークルにすると……問題が多すぎて」
苦笑のようなものが浮かび、すぐ消える。
「昔から人体実験とか施設を壊して捕まったり、違法魔術、毒物開発、賭博とかちょっと世間様に言えないことを色々。それで非公式サークル扱いです。主にこの棟一棟が、僕らの活動場所として解放されています。……それが、今回の原因でもありました。」
そこで、ようやく話が切り替わる。
院生は一度、深く息を吸った。吸いきれず、途中で止まる。
「ループは……今回で227回目です。一日経つと、必ず巻き戻ります。時刻は15時47分12秒。」
誰かの啜り泣く音が聞こえる。
「原因は、講義のない連中が集まってやってた研究のせいです」
夜凪はつまらなさそうに聞いている。
「ループもののアニメにハマって……時間の概念を研究していました。理論は、かなりいいところまで行ってたんです。でも、……その時上の階で爆炎魔術の研究をやってたヤツらが天井を破壊しました。」
乾いた笑いが漏れる。すぐに、嗚咽に変わる。
「時間魔術陣は壊れて、干渉して、再構成されて……」
結果だけが残る。
「教室にいた二十人弱が、巻き込まれました。夜凪さん!俺たちをこのループから助けてくださいっ!」
回数を重ねるごとに、逃げ道は消えた。死んでも戻る。壊れても戻る。研究してもわからない。正気だけが、少しずつ削れていった。
夜凪にとって、己がループしていると自覚がない。ループしているとも思っていない。なら、何も支障はないはずだ。ループしていない己にはループしていることなどどうだっていい。
夜凪はつまらなさそうな顔のままどうでもよさそうに言葉を返した。
「「なんで?自分でどうにかしたら?」」
夜凪は眉を顰める。院生に言葉を被せられたからだ。この院生には魔術の痕跡も強い異能の力も感じない。精神干渉された時の特有の不快感もなかった。では、己と初対面のこの院生が己の言葉を予想し被せることができるとは考えにくい。
院生は口元に僅かに笑みを浮かべている。
「それ、もう何回も聞きました。」
ループしているとは本当のことなのだろうか。
「「ループしてない私には関係ない。」」
「……」
夜凪はまたもや被せられた言葉に口を閉じる。足の折れた院生は床に這いつくばったまま夜凪を真っ直ぐ見ている。、
「それも、聞き飽きましたよ。夜凪さん。どうしたら協力してくれるんですか?次は何を言いますか?嫌?なら証明して?それとも、次のループした私に頼めば?…ですか?…もう、何度も何度も何度も何度もあんたの無茶ぶりに答えた。何回も死んだ。新月の名前も!説明も!あんたがこう言えって言ったんだろ!次は何をすればいい!早く言えよ!」
穏やかな声だった院生は次第に声を荒らげ、最後には夜凪に怒鳴る。随分ループ先の夜凪に無茶ぶりをさせられたのだろう。
夜凪は少し悩み、緩やかに口角を上げる。
「んー…じゃあさ。このループが終わったらお前たち、私の犬になるって誓える?」
その瞬間、室内が静まり返った。何度もループして夜凪の助けを求めた。だが、こんな反応は1度もなかった。
学生の中には初めての夜凪の反応に瞳を見開く者もいれば、突然泣き崩れる者もいた。笑い声に近い音を漏らす者さえいる。何度も繰り返すループ、何度も繰り返す会話に精神的に参っているのだろう。
命の話をされるのは初めてじゃない。でも犬と言われたのは、面白そうに値踏みされたのは初めてだった。
夜凪はいつも、興味無さそうに視線を逸らしていた。夜凪に協力させるため、ループを証明するために彼らは体を張った。夜凪に命令されるまま、仲間内でデスゲームをはじめたり、裸踊りをしたり、実験も服従も繰り返した。
だが、今回の夜凪の反応は初めてだ。
「……それ、もうなってますよ。」
やがて、院生が笑った。瞳からボロボロと大粒の涙を零していた
夜凪は声を出して笑った。今度こそ初めて院生の目を正面から見た。
「あはっ。良いね、面白いから今回は協力するよ。…だから教えてくれる?なんで、私に声をかけたの?」
院生は、すぐには答えなかった。
喉が動く。唇が震える。何度も同じ説明をしてきたはずなのに、この問いだけは、言い慣れない。
「……何度も、考えました」
声は低く、掠れている。
「最初は偶然だと思ったんです。綺麗な人だな、とか。その程度でした」
これはただの俗説である。陰謀論と何ら変わらない。
「でも、あまりにも整いすぎていた。…勝手ながら夜凪さんを測定しました。でも、測定したら魔力の数値は天才の域を出なかった。あんな数値、ここじゃ平凡ですらある。だけど、あんたと視線を合わせると無 無意識に従いたくなる。」
院生は、自嘲気味に笑う。喘ぐように、声を途切れさせる。
「馬鹿げた話ですよ。あまりにも美しいものは…人間じゃないかもしれない、なんて…。」
陰謀論。オカルト。このサークルが好んで掘り返してきた、胡散臭い仮説。
「優れている能力者は人間とは違う種族である。それは進化した人間か、魔人か。…そんな話を、冗談半分でしていました。」
だから、と院生は続ける。
「だから、夜凪さんは……目に留まり続けた。あまりにも綺麗で人間じゃないみたいだから。」
理由を並べ始めると、止まらなくなる。
「魔乱のときです。」
視線が、部屋の隅で蹲っている1人の生徒へと向けられる。サークル内の、梅型B級能力者。学生では珍しいB級だ。
「彼が見ていました。夜凪さんが、窓から飛び降り、飛んでいくところを。」
夜凪はそんなこともあったかと過去を思い出す。周りの反応なんてどうでもよくて、己がどんな行動をとったのか忘れていた。
「止めようと思わなかったそうです。……いや、正確には、止められなかった」
異能者特有の直感。魔力とは違い相対すればわかる感覚。理屈よりも早く理解する、力の差。異能者どうしは体から滲み出る異能の力で上下関係が無意識に作られる。
「その瞬間、こいつは夜凪さんが自分より強いと感じた。B級以上だと確信したそうです。その時に夜凪が飛べることが確定した。」
夜凪は、自身の中の熱が段々と冷めていくのを感じた。院生の説明が長いのだ。だが、院生はまだ言葉を続ける。
「さらに、欠席」
院生は指を折る。
「夜凪さんが一ヶ月、大学に来なかった期間と……魔乱の収束時期が、だいたい一致していました。飛べるなら距離はどうとでもなる。」
偶然だと切り捨てるには、重なりすぎていた。
「それに、テレビに映った空を飛ぶ能力者。」
別の院生が、小さく頷く。
「カメラとの距離から身長、骨格、を計算したメンバーがいました。一致率は──「もういい、長い。」
「187回目のループで!夜凪さん自身が認めたんです!」
院生は夜凪が興味を失くすことに焦ったのだろう。声を荒らげて絶対的な事実を伝える。
「…そうなんだ。」
夜凪は意外そうな声で呟いた。過去の自分がバラすとは思わなかったため、その目的を少し考える。院生から視線を逸らし下を向く。考える時に髪をクルクルと弄るのは夜凪の癖だ。
何度考えても特A級能力者だと明かす理由がない。何もメリットがない。どころか自分自身で平穏な日常を壊している。では、なぜ己はこの人間に特A級能力者だと明かしたのだろうか。夜凪が沈黙のまま考え込もうとしたところ、震える声がポツリと聞こえた。
「——もう、いいです……」
声を出したのは、隅で膝を抱えていた学生だった。頬はこけ、目の下に濃い隈が沈んでいる。疲れきった顔をしていた。
「犬で、いいです」
学生は膝に埋めていた顔をゆっくりとあげギラついた目で夜凪を見る。夜凪はこのような目を何度も見てきた。何かを決めたものの目。覚悟をした者の目だ。こういう目をするやつは突拍子もない事をすると夜凪は経験則からわかっている。
「誓えます。命も、名前も、尊厳も」
この学生の声はもう震えていなかった。院生の喉が、ひくりと鳴る。
「このループが終わるなら……何でもいい」
そう言って、学生は夜凪の前まで四つん這いで来ると足元に土下座した。そして額を床に擦りつけた。床と額がぶつかる音がやけに大きく響く。
誰かが息を吸った。それを合図にしたみたいに、次が続く。
「……私も」
「俺もだ」
「条件が、それだけなら安いもんだ。」
笑うような声。言葉が重なり、被さり、早くなる。
宣言だったはずのものが、いつの間にか確認に変わっていく。学生たちは、犬が飼い主に大幅な信頼を寄せるように夜凪を妙に熱の篭った目で見つめている。
「指示は絶対ですか」
「待てって言われたら、待てばいい?」
「…殺せって言われたら殺せます。」
淡々とした声だった。
「もう、何度もやったから」
その一言で、空気が張りつめる。
夜凪は、首を傾げた。
「そこまでは言ってないよ」
夜凪は、わずかに瞬きをした。それは驚きというより、戸惑いに近かった。
眼前に広がる光景が、あまりにも現実感を欠いていたからだ。この学生たちは自ら言葉を重ね、条件を重くしている。命令の範囲を自ら狭めていく者たち。
頭がおかしい。
夜凪は、そう結論づけた。
これは交渉ではない。対等な取引でも、依頼でもない。もっと一方的で、もっと原始的なものだ。
救いのないものが神に救いを見出すときのような。
夜凪は自分の胸の内に、微かな嫌悪と、それ以上に強い違和感を覚えた。嫌悪は簡単に、盲目的に自分を信じようとする学生たちに。夜凪が犬が欲しいと言ったのは事実だ。だがそれは、命令を疑わずに動く駒が欲しい、という程度の意味だった。
名門大学の優秀な生徒。頭脳も魔術も才能も1級品。将来は重要な役職、または幅広い分野で活躍するだろう。もし、必要なときが協力や融通して欲しかっただけなのだが、何故か学生たちは夜凪に縋るような、依存するような瞳を向けている。
普通は犬になれと言われたらこんなふうに、目を輝かせるものじゃない。
夜凪が視線を巡らせると、学生たちは一斉に身体を強張らせた。夜凪の視線ひとつで空気が変わる。学生たちは呼吸が揃え、思考を停止し夜凪の言葉を待つ。
すでに、主従関係は成立していた。
「……待って」
夜凪は、思わず手を挙げた。
それだけで、全員がぴたりと動きを止める。
その反応速度に、夜凪の眉がわずかに寄った。
「犬、って言ったのは」
夜凪は言葉を選ぶ。
自分でも珍しいほど、慎重だと思った。
「そんな、人生全部投げる意味じゃない。必要な時に私の役に立てばいい。」
自分でも自分勝手で酷い言い草だと思う。夜凪は実際に己がこんな言葉を言われたら絶対に反発する自信があった。
だが、学生たちは誰も安堵しなかった。むしろ、困惑が広がる。
なぜ?
それでは足りないのでは?
そんな感情が、露骨に表情に現れる。院生が、床に這いつくばったまま、低い声で言った。
「……足りないなら、足します。なんでも従います。」
淡々とした声だった。声からは感情を窺い知ることができない。
「条件が重い方が、安心できる。あんたを信じられる。」




