33
結界師は夜凪に神社の前まで連れていくように頼んだ。
神社は森の奥深くに位置している。徒歩でたどり着くには半日はかかるだろう。道という道は存在せず、獣道すら途中で消えている。枝と枝が絡み合って視界を塞ぎ、足元は湿りきって踏みしめるたびに形を変える。方向感覚は意味を失い、数歩進むだけで自分がどこにいるのか分からなくなる。ここは歩いて辿り着く場所ではない。だから、夜凪の異能が必要だった。
それに了承した夜凪は結界師一家を異能で包み重力も風も感じないまま、森の上空を滑るように移動した。枝葉も地形を無視し、神のいる場所へと一直線に運ばれていく。
四人は森の上空を抜け、一直線に神社の前へと降り立った。
鳥居の前に立った瞬間、空気が変わった。先程よりも内と外が、はっきりと分かれている。音が遠のき、風が吹かない。
牛の姿をした神は、社殿の奥に静かに在った。動かない。ただ、そこにいる。
夜凪はいつ、神が鳥居の目の前から社殿に移動したのか感知出来なかった。そのことにゾッとする。
結界師は一歩前に出て、深く頭を下げた。
「……お邪魔しますえ」
それだけだった。恐れも焦りもなく、ただ神に対する正しい距離で。子どもたちが続き、夜凪は鳥居の外で止まる。
結界師は神楽鈴を鳴らし、舞を踊る。鈴の音が小さく鳴る。双子が祝詞を唱える。長男は魔術の詠唱をしている。結界術と魔術が静かに組み合わさり、重苦しかった境内の空気が軽く清涼になっていく。
妖精たちは依然としてクスクスと笑っているが、龍脈の流れが穏やかになり山全体のざわめきが収まっていく。
神は、わずかに首を垂れた。
結界師も深く一礼し、その姿勢をしばらく崩さなかった。やがて、神の輪郭がゆっくりと曖昧になる。牛の毛皮は艶を失い、形を保っていた身体がまるで熱に溶かされた蝋のように崩れ始めた。音はなく、ドロドロと溶け、黒く濁ったものが社殿の床を伝い境内の土へと染み込んでいく。神は叫ばず、抗わず、ただ自然に還るように沈んでいった。
圧は完全に消えた。
張り詰めていた空気がほどけ、夜凪の肺にようやく普通の夜の空気が入る。
夜凪は鳥居の外で、それを黙って見届けていた。異能の制御を緩めることはない。視線を上げると、まだ残っているものが見えた。
妖精だ。
社殿の梁、石段の影、木の隙間。先程まで鈴のように笑っていた光の粒が、状況を理解できないまま漂っている。夜凪は一歩も動かず、異能だけを伸ばした。空間が軋む。次の瞬間、妖精たちは音も悲鳴もなく捻り潰すされ霧散する。
森が、完全に静かになる。龍脈は落ちついた。あとは残っている禍種を駆除すれば第3波は終了する。
結界師はゆっくりと顔を上げ、深く息を吐いた。
「……やれやれやわ。ほんま、心臓に悪い」
軽い口調だったが、額にはうっすら汗が滲んでいる。子どもたちもそれぞれ術を解き、ようやく肩の力を抜いた。
夜凪は境内を一瞥し、異能を完全に収束させる。
「もっと、死闘を繰り広げるかと思った。」
夜凪の言葉に結界師ではなく、長男が噛み付く。
「はあ?死闘繰り広げましたが!?失敗すればあんたも俺らもみんなあの世行きや!…なんなん、その面倒くさそうな顔!もっと母に感謝しろや!」
夜凪は自分が失言したのだと気づいた。が、1度口から出した言葉は戻せない。怒鳴られて面倒そうな表情を作ってしまい余計に怒らせてしまう。
「…さーせんしたー。ありがと結界師。」
夜凪の短い謝意に、長男はまだ言い足りなさそうに口を開きかけたが、その前に結界師が軽く手を上げた。
「はいはい、そこまで。うっさいわ、長男。今は勝った後や。説教は後回し」
「でも母さん――」
「でもも何もあらへん」
ぴしりと遮ってから、結界師は夜凪の方へ向き直る。表情は笑顔でしかし夜凪に説明するように視線をしっかりと合わせてくる。
「今回の神さんはな、祀れる範囲やった。だから、こうして静かに終われたんや。せやけど」
結界師は境内の跡をちらりと見て、肩をすくめた。
「禍神やったら話は別やで。怪獣大戦争みたいなもんや」
長男が思わず舌打ちし、双子は顔を引きつらせる。
「結界も時間稼ぎが精一杯。山は割れるし、社は吹き飛ぶし、前で殴り合うのは夜凪ちゃんや。私らは後ろで必死に封印の準備やな。」
そして結界師は、ふっと笑みを消し、長男へと向き直った。さっきまでの軽さはなく、空気が一段、冷える。
「……それにしてもなんや? お前の態度は。相手が年下やからって、口答えできると思ったん?」
長男が言葉を探す前に、結界師は畳みかける。
「特A級能力者様やで。お月ちゃんは。それに対して、お前はB級や。立場も力量もちゃんと分かっとるか?私の息子やからって、いつから特付きに噛みつけるほど偉くなったん?」
口元だけで笑う。
「すごいなぁ。尊敬するわ。母さん知らん間に、そんな大物に育っとったんや。良かったなぁ。お月ちゃんが優しくて」
声が少しだけ低くなる。
「他の特付きやったらな、今頃腕の一本や二本、飛んどるで。」
長男は何も言えず、唇を噛みしめた。結界師はそこでようやく息を吐き、声の温度を戻す。
「敬意はな、強い相手に媚びるためやない。生き残るためや。……覚えとき。」
短くそう言って、結界師は踵を返した。
夜凪の方をちらりと見て、ほんの一瞬だけ肩をすくめる。
「ごめんな。教育不足で」
夜凪は自分が良い教材にされられた気分がするも、結界師の豹変に驚き上手く言葉を返せなかった。
「…いいんやでぇ。」




