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七角龍の遺物の反応は、間違いなく船の真下だった。
海は人魚の魔法で荒れていたのが嘘のように静まり返っている。波はほとんど立たず、水面は重たい鏡のように空を映していた。深海からは赤黒い色が滲み出て見るものに不安を与える。そんな海は完全に凪いでいる。
甲板の縁に並び、夜凪と大海は海を見下ろしていた。
夜凪は無意識に、指先を軽く握ったり開いたりしている。海の奥から伝わってくる、異様な存在感。七角龍の引き上げる瞬間を想像して、体が緊張しているのだ。
一方の大海は、余裕そのものだった。背筋はまっすぐ、肩の力も抜けている。視線は遠くの海を見つめていた。
…数秒経過。……数十秒経過する。誰も動かない。沈黙が、じわじわと気まずさを孕み始める。夜凪は耐えきれず、横目で大海を見る。
「…ドン?」
大海は、ようやく夜凪に視線を向けた。
穏やかな無表情。何を考えているのか分からない顔だ。
「どうしたんだい、満月さん」
夜凪は言葉を選ぶように、少し視線を泳がせる。
「…やらないの?」
その瞬間、大海の眉がほんのわずかに上がった。
「…やるのは君だろう?」
大海が首を傾げた。
「…なんで?」
夜凪は言葉を返す。眠たげな瞳がゆっくりと見開き大海を凝視する。そしては一歩引き、明らかに困惑した顔で大海を見る。
「なんで私?海の底でしょ。海だよ?」
「ああ」
「ドンの能力の、本領発揮ゾーンだよ?」
「そうだね」
それでも大海は涼しい顔だ。
「だが私は君が引き上げるのかと」
「なんでそうなるの」
夜凪の眉がきゅっと寄る。理解できないと表情で語っている。
「君の能力はサイコキネシスだろう?そして、サイコキネシスは物体を操作する。遺物の距離も大きさも把握できている。なら、君が引きあげればいい」
「七角龍の遺物だよ。普通の瓦礫とかじゃないんだけど」
「君も私も普通じゃないだろう。ならできるさ」
さらっと言われて、夜凪は言葉を失う。
「流石はマーメイドン」
「私に従った方がお得だよ」
大海は悪びれもせず微笑んだ。夜凪は顔を顰め腕を組む。
「私はさ、ドンが海ごと操作して、こう……ずるっと持ち上げるのかと思ってた」
「私は逆だよ」
大海は海を指差しながら言う。
「君が海中の抵抗ごと無視して、異物だけを引き抜くのだと思っていた」
二人の視線が、再び海へ戻る。
同時に沈黙する。その様子を見て、少し離れた場所にいたカンシが、恐る恐る近づく。
「……あの、お二人とも」
夜凪と大海が、ほぼ同時に振り向く。
「なに?」
「どうした?」
カンシは一瞬たじろぐ。
「……もしかしてですがどちらが回収するか、決めていなかったんですか?」
夜凪は視線を逸らし、大海は小さく咳払いをした。
「想定はしていた」
「相手がやると思ってた」
海鳥が後ろで吹き出した。
「はっはっは!他力本願すぎるだろ!」
夜凪は海鳥を睨む。
「笑い事じゃない」
「いやあ、楽しいね」
大海は楽しそうに肩を揺らしている。
「こうなるのはお互いを信用している証拠じゃないか」
「信用しすぎ」
夜凪は深く息を吐き、髪を耳にかける。絹のように艶やかな黒髪がサラリと揺れる。
「…どうする?」
「簡単だろう」
大海は夜凪を見る。その目はどこか悪戯っぽい。
「決めよう」
「どうやって」
夜凪が半眼になる。一拍置いて、大海は言った。
「ジャンケン」
夜凪の口が少し開く。
「…?」
「公平だろう?」
「ここ、海のど真ん中だよ」
「だからこそだ」
大海は胸を張る。
「君の名の通り満月の下、そして私の好きな大海の上で決めるんだ。運命を委ねるには最適だろう?」
夜凪は数秒黙り、やがて諦めたように肩を落とす。
「もういい」
二人は向かい合う。夜凪の表情はめんどくさげなのに対し、大海は終始楽しそうだ。
「最初はグー」
「ジャンケン――」
その背後で、カンシがぽつりと呟く。
「この人たちが日本の最高軍事力なんですよね」
海鳥は肩をすくめた。
「世も末だな」
海の底で、七角龍の遺物が静かに禍々しいエネルギーを放っている。その真上で、世界最強クラスの二人は、ジャンケンをしていた。
「……よし」
夜凪の手は、静かにパーを作っていた。対する大海の手は、見事にグー。一瞬の静寂。次の瞬間夜凪は小さく息を吐いた。声は控えめだが目の奥に確かな達成感が灯る。大海は緩く口角を上げ夜凪を見つめていた。
「負けたか。参ったな」
そう言いながらも、まったく悔しそうではない。むしろ、どこか満足そうだ。夜凪は胡乱な目で大海を見る。
「今わざと負けた?」
「さてね」
大海は肩をすくめ、海へと向き直る。
「だが、約束は約束だ。今回は私が引き上げよう」
その瞬間、甲板の空気が変わる。
今までの軽さが、すっと消える。冗談は終わり。特A級能力者・大海の仕事の時間だ。大海はゆっくりと両手を広げる。踏みしめた甲板と靴がぶつかり靴底から軽い金属女が響く。
大海の異能力が遺物とその周囲の海を把握しようと力を伸ばす。夜凪もまた、丁寧に感知能力を広げていく。深さは1500mほど。お昼すぎに船が出港し11時間ほどで遺物の真上に到着した。つまり現在は真夜中である。海底は深さもさることながら夜の暗闇で遺物の姿は確認できない。だが何かが蠢いているのは感知できる。
「満月さん、露払いは頼んだよ」
「YES、BOSS」
夜凪は無駄に発音よくふざけた返事をする。
大海は瞼を閉じる。視界ではなく感覚で海を掴む。水圧、塩分、流れ、温度差。それらすべてが一枚の層として重なり合い、巨大な質量となって大海の思考に触れる。
「…はじめようか」
七角龍の遺物を引き上げるための情報は理解した。遺物周辺の深海はもはや大海の思うがまま操れる。
大海は異能を発動し海を持ち上げる。深海から持ち上げられた遺物はようやく全貌を表す。




