19
夜凪は甲板を渡り、操舵席へ向かう。波を切る音とエンジンの低い振動。その中で、瀬呂里は前方を睨み続けていた。隣には色んな通信機械が散乱している。これでSABに情報を送っていたのだろう。
「セロリ」
名を呼ばれ、彼は肩越しに振り返る。
「はい、満月様」
夜凪は操舵盤の横に立ち、静かに息を整えた。異能ではなく、魔術を使う。
「船がズレないように、簡易の方位磁針を作る。何があっても七角龍の遺物の方角向くから間違えることない。」
「魔術、ですか」
「うん。異能より、こっちの方が船向き。私の感知とリンクしてるから常にリアルタイムだよ。」
夜凪は手袋を外し、素手を晒す。白く冷たい指先が、空中でゆっくり円を描いた。
今回は魔術師がよく使う方位を示す魔術だ。難易度は中級。魔力感知とリンクしているため、感知内にあれば目的のものだけを指し示す。
「北辰を基点とし天の赤道、黄道を重ねよ。失せし理を星に問い、今宵の奇跡を此処に示せ。北辰の導き。」
空気が、きしりと音を立てる。魔術陣が、夜凪の声に合わせて組み上がっていく。円、線、微細な刻印。予定調和のように美しく作り上がる。
夜凪は懐から、小さな骨を取り出した。先程のトビウオの骨だ。今回はこの骨が媒体になる。たまたま針っぽい形をしていたからちょうど良かった。
「——定着。」
指先で弾くように魔法陣の中に骨を入れる。瞬間、トビウオの骨が淡く発光し、1本の針へと形を変えた。
魔術によって作られた円盤とその中央に方位磁石の役割として骨だった針が浮いている。夜凪が先ほどまで海中に伸ばしていた感覚。七角龍の遺物と、この船との相対位置を基準に縫い止められる。
針は、ぴたりと一点を指したまま、微動だにしない。
「……おお」
瀬呂里が思わず声を漏らす。夜凪は円盤を手に取り、彼の前へ差し出した。
「魔術式方位磁針。星も磁場も関係ない。今この瞬間、七角龍の遺物の方向だけを示す」
「ズレたら?」
「ズレない。もしズレたら──」
夜凪は少し考えてから言った。
「その時は、私が悪い」
瀬呂里は一瞬きょとんとし、次の瞬間、苦笑した。
「それは、世界一信用できる保証ですね。異能で海を制し、魔術で道を示す。贅沢な船だ。ありがとうございます。」
両手で丁寧に受け取り、操舵盤の中央に据える。
「別に。道に迷ったらめんどくさいでしょ。」
夜凪は瀬呂里に方位磁石を渡すとまた甲板へと向かう。船尾近くの甲板で横になり瞳を閉じる。大海の能力のおかげで驚くほど穏やかに船は進んでいく。頬に当たるのは潮風のみだ。紳士な大海は水飛沫すらも操り夜凪から逸らしてくれている。
そこから約1時間半後。船が出発して約6時間半が経過した。
人魚の縄張りに入ったのか海の気配が変わる。夜凪の感知に、微細なざらつきが走った。無秩序に蠢いていた禍種の群れとは違う、明確な意図を持った動き。先ほどまで遠くにいた人魚の魔力が反応し明確にこちらに狙いを定めたのがわかった。
「気づかれた。カンシ、船内に避難。」
夜凪が最後まで言い切る前にカンシは船内に避難する。それを確認した夜凪は体を起こし大海の方へと向かう。
人魚たちが急速接近するのが感じ取れる。急激に荒れ始める海。風が不自然に巻き、湿った冷気が一気に甲板を舐めた。雲が低く垂れ込み、船を押し潰すように近づく。
大海に合流した夜凪は前方の海面が凹んだのを見た。否、凹んだのではない。船が引きずり込まれている。
巨大な渦潮が、船を飲み込んでいる。水が水を喰らい、波は壁のように立ち上がる。嵐が獣の咆哮のような音を立てた。
夜凪は大海をチラリと見上げる。大海は相変わらずパッと見険しい顔だが口元には余裕そうに笑みが浮かんでいる。
流石は大海。若年から高年層まで人気が幅広い人気No.1能力者。ピンチな場面でもダンディで大人の余裕は崩れない!なんて夜凪はくだらないことを考える。
大海が一歩前に出た。スーツの裾が風に煽られる。それだけで海が止まった。正確には、止められた。
大海が手を広げると、荒れ狂っていた水流が、まるで撫でられた獣のように沈静化していく。渦の縁が削られ、波の角が丸められ、船の周囲だけが異様なほど穏やかな水域になる。
「大人しくしなさい。今は遊んでいる暇はない」
温厚な声。だが、その響きは従わなければならないと思えるような命令だった。
それでも、空は荒れたままだ。雲が唸り、風が叫ぶ。雷の気配が近づき夜凪の髪がピリピリと逆立ち始める。大海は夜凪を見る。意図を察した夜凪は動く。
「わかった。上は私がやる」
今度は夜凪が一歩前へ出る。異能が空へと伸びる。
風の層、気圧の継ぎ目、嵐を構成する流れを掴む。力で押し潰すのではなく、方向性を変えるように掴んだはしから力を散らしていく。雷雲が押し流され、風が抜け、嵐はまるで溺れるように力を失っていく。船の上には不自然な静寂が落ちた。
その静寂を裂くように。歌声が響いた。水面下から幾重にも重なる旋律。甘く粘つき、耳の奥を撫でるような音。理性を溶かし方向感覚を奪う、海の誘惑。
「ふぅん。確かに綺麗な歌声だね。」
夜凪は即座に空気の流れを歪める。耳の前で空気を1度散らし振動を消して鼓膜に正しく届かないように調整する。歌は聞こえているはずなのに耳には響かない。
同時に、カンシたちは手慣れた動きでヘッドホンを装着した。
「遮音、問題なし!」
海鳥が叫ぶ。それを聞いた大海は指を鳴らし自身の耳に防音の魔術を重ねる。歌声は、彼にとってただの水音になりさがる。
タンッ!
大海が1度軽く足を踏み鳴らす。海面が盛り上がる。泡が弾け、水柱が崩れそこから、人魚たちが姿を現した。
美しい人の顔。魚の顔。人と魚が混じったような顔。
なるほど確かに美しいと思える顔が多い気がする。大海は夜凪に見せるためにわざわざ人魚を持ち上げてくれたのだろうか。
美しい人魚の顔に関心するも人魚たちは一様に顔が歪んでいる。
「へぇ、あれが人魚。すごーい。」
夜凪が呟いた、その瞬間。大海がもう一度足を鳴らす。必要もないのにわざわざ分かりやすく音をたて、態度で表してくれているのは夜凪のためだろう。
大海の動きに海が応じた。水面が跳ね上がり、最も美しい顔をした一体の人魚だけが、選別されるように甲板へと叩き上げられる。水と共に転がり、キュイキュイと喉を鳴らしている。
他の人魚たちは、距離を取ったまま歌い続けている。
「見ておきなさい、満月さん」
大海は穏やかに言った。
「これが人魚だ。知性はあるが、理性はない。美しさは武器で、歌は罠。中身は、ただの魚だ。」
甲板に打ち上げられた人魚は、こちらを見上げていた。濡れた髪、整った顔立ち。だが、その瞳の奥には、理性は感じられない。
夜凪は、ゆっくりと近づく。殺さず触れず。ただ、観察する。人魚の視線を、呼吸を、筋肉の動きを、魔力の流れを。
なるほど。
「綺麗なだけだね。」
夜凪は人魚をそう評した。




