お盆の晩酌
これ。サインして貰える?
妻から唐突に突きつけられた離婚届に、私は頭が真っ白になった。
この瞬間、私の人生の目的は終わったはずであった。
離婚して1年が経った。
住まいは変わらず、郊外のボロアパート。
築年数?少なくとも私よりは年上だろう。
朝起きて会社に行き、帰宅して晩酌しながらSNSを徘徊して寝る。
休日はリサイクルショップ巡りをして、掘り出し物を見て回る。
そんな生活もすっかり板についてきた。
ちなみに最近見つけた掘り出し物は、古い国産のウイスキーだ。
レトロな雰囲気のボトルとラベルに一目惚れだった。
いわゆるジャケ買いというやつだ。
それと、何故か心の奥にざわめきを感じたのだ。
盆休み前の夜。私はいつもより長い時間、
晩酌を楽しんでいた。
「そういえば、リサイクルショップで買った古酒があったよな。飲むか。」
そう心の中で呟き、例のウイスキーを酒棚から取り出し、栓を開けた。
(ポンッ)
一人暮らしの孤独な空間に響く、軽やかな開栓音。その場違いな明るさが、かえって私のテンションを押し上げた。
「あぁ。ピート臭がキツめで良いね。好きなタイプだわ。」
なんて、ほろ酔い気分でボトルをグラスに傾ける。
ストレートで3杯程飲んだ辺りで酔いが回ってきた。
……。気付けばソファーでうたた寝をしていた。
「うーん。トイレ……。」
尿意と酔いが混濁した嫌な気分で目覚めた私は、トイレに向かおうとして立ち上がった瞬間に寒気を感じ、戦慄した。
そこには霞ががった空気の中に佇む、一人の女性が立っていた。
黒髪のロングヘアで服装は可愛らしい、ゆるふわ系の花柄のワンピースを着ている。
うつ向いていて、かつ霧が掛かっており、表情をうかがい知ることはできない。
「うおっ!!マジか!誰だよ!?」
『ごめんなさい。つい寂しくて……ごめんなさい。』
うつむきながら、そして、詫びるような申し訳なさそうな声で、彼女はそう口にした。
「ゆ、幽霊?とかなの?」
可能な限り驚きを隠しながら、問いかける。
『はい。昔、このアパートに住んでいて。』
『悲しくて寂しいオーラを感じて。つい来てしまいました。驚かせてしまってごめんなさい
。あと、このウイスキー、格別に良い香りがしますね。』
「大丈夫ですよ。とりあえず、というか
お酒がお好きでしたら、一緒に飲みながら話しませんか?」
『え?いいんですか?あ、ありがとうございます。』
こうして人生で初めて、女性の幽霊との晩酌が始まった。
ロックグラスにウイスキーを注ぐ。
(トクトクトク)
二人分を注ぐのは約一年ぶりだ。
グラスが琥珀色の液体に満たされるのと比例するかのように、妙に嬉しい気持ちが溢れてきた。
この一年、誰かと杯を交わすことなど想像すらしていなかったからだ。
「乾杯は……出来ますか?グラス掴めますか?」
『はい。大丈夫です。お気遣いありがとうございます。』
随分と礼儀正しい幽霊だ。
視線を左右に揺らしながらグラスを手にする彼女は、さながら緊張しているように見えた。
「乾杯~」
『か、乾杯です』 (カンッ)
グラスを重ねた音は、風鈴の音のように涼しげで、且つお互いに[初めまして]と挨拶をしているかのようだ。
グラスが触れた瞬間に彼女を包んでいた靄がほんの少しだけ薄れた気がした。
その夜はお互いの事を色々と話した。
私は一年前に離婚をした事や、職場での不満。
最近の趣味の事。
彼女はというと、昔このアパートに住んでいたという事と、数年前に不慮の事故によりこの世を去った事など。
明るい話題は無いものの、お酒の力なのか、
不思議と暗い空気にはならなかった。
『このウイスキー、本当に美味しいですね。特にピート臭が効いていて。』
「あっ!分かりますか!良い味出してますよね!」
お酒好き同士、会話が弾んで楽しい。
もっと色々話していたい。
気が付けば二人でボトルを残り二口ほどになるまで空けていた。
「……グラスを持つ手、震えてません?」そう尋ねると、彼女はかすかに笑みを含んだ声で答えた。『ううん、違うの。嬉しくて震えてるの。』
(コトン…)グラスをそっと置いた瞬間、淡い金色の光がふわりと部屋を包み込む。その光は、街灯の明かりともロウソクの火とも違う――どこか懐かしい温もりがあった。
『一緒に飲んでくれて、ありがとう。』『私のウイスキーを見つけてくれて、本当にありがとう。』『……やっと、成仏できそうだよ。』
「え?ちょっと待って、どういう事……?私のウイスキーって?」
『言い出せなくてごめんなさい。このウイスキーね、実は私が生前にコレクションしていた、一番大切にしていたウイスキーなの。』
『私が死んだ後、家族がどこかに売ってしまったみたいで。飲む事を何よりも楽しみにしていたの。だからどうしても諦めきれなくて。
でもあなたが見つけてくれた。』
『それだけじゃなくて、一緒に飲んでくれた。
本当にありがとう。楽しかった。嬉しかった。』
彼女を覆っていた霧が、先ほどの光により完全に晴れた。
ここにきて、ようやく彼女の表情を見ることができた。
ニコニコと笑うその可愛らしい笑顔に、私は一瞬で心を奪われた。
「お願いだから、待って!」と声を掛けようとしたが、彼女の輪郭はもう光と共に溶け始めていた。下から順に、吊り下げ式スクリーンをゆっくり巻き上げるように消えていく。
最後にこちらを振り向き、わずかに口元を動かした。『……また同じウイスキーで、あなたと乾杯できたらいいな。』
光はすうっと消え、部屋には私と、ほとんど空になったボトルとグラスだけが残った。その夜から、私は彼女に会うためだけに、同じビンテージのウイスキーを探し歩くことになった――。
次会う時には、まずは君のウイスキーのボトルで乾杯して話の続きをしよう。
だってほら、ちょうど二口残っているから。
tomocha928