聖なる、聖なる、聖なるかな Holy, holy, holy! Lord God Almighty! イザヤ6章
Reginald Heber
レジナルド・ヒーバー (1826)
上に英語原文、下に日本語。
イザヤ6章
1 ウジヤ王のしにたる年
われ高くあがれる御座にヤハウェの坐し給ふを見しに
その衣裾は殿にみちたり
2 セラピムその上にたつ おのおの六つの翼あり
その二つをもて面をおほひ その二つをもて足をおほひ
其の二つをもて飛翔かけり
3 たがひに呼びいひけるは
聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな
萬軍のヤハウェ
その榮光は全地にみつ
1 Holy, holy, holy! Lord God Almighty!
Early in the morning our song shall rise to Thee:
Holy, holy, holy! merciful and mighty!
God in Three Persons, blessed Trinity.
2 Holy, holy, holy! All the saints adore Thee,
Casting down their golden crowns around the glassy sea;
Cherubim and seraphim falling down before Thee,
Who wert, and art, and evermore shalt be.
3 Holy, holy, holy! though the darkness hide Thee,
Though the eye of sinful man Thy glory may not see,
Only Thou art holy; there is none beside Thee,
Perfect in power, in love, and purity.
4 Holy, holy, holy! Lord God Almighty!
All Thy works shall praise Thy Name,
in earth and sky and sea;
Holy, holy, holy! merciful and mighty!
God in Three Persons, blessed Trinity.
聖なる、聖なる、聖なるかな!
全能の主なる神ヤハウェよ!
私どもは朝早くから、主へ讃美の歌を捧げます。
聖なる、聖なる、聖なるかな!
いつくしみ深く力ある!
唯一の神にして三位格なる、
祝福された三位一体の神。
聖なる、聖なる、聖なるかな!
人の内すべての聖徒が主を礼拝して
金の冠を鏡のような海に投げ入れ、
天の御使いのケルビムとセラフィムも主の御前にひれ伏し礼拝します。
主のみ、過去、現在、未来にわたり神であられるお方です。
聖なる、聖なる、聖なるかな!
たとえ暗闇が主を隠そうとしても、
罪深い人間の目が主の栄光を見ることができなくても、
主のみが聖なるお方です。主に比較できる存在はありません。
完全な、力、愛、きよさの主なる神。
聖なる、聖なる、聖なるかな!
全能の主なる神ヤハウェよ!
主が創造されたすべての被造物が、
地と天と海において主の御名をほめたたえます。
聖なる、聖なる、聖なるかな!
いつくしみ深く力ある!
唯一の神にして三位格なる、
祝福された三位一体の神。
1イザヤ6:3、黙示録4:8
2 イザヤ6:2-3、黙示録4:6-10
3 イザヤ6:3-4、黙示録4:11、黙示録15:4
4 黙示録4:8、黙示録5:13
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ウジヤ王の没年に預言者イザヤは神の栄光を見た。
不信仰のリベラルはイザヤ書の史実性を否定するが、
聖書自身これがウジヤ王の没年とわざわざ書き、
歴史の中で実際に起こった事であると示している。
神の栄光を見たイザヤは言った。
「ああ。私は、もうだめだ。
私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
イザヤ6:5 新改訳
こう告白したイザヤをきよめ、
神の臨在の栄光の御前に立てるように、
御使いが炭火で唇に触れた。
神の栄光を垣間見たときモーセは岩と御手により保護されたが、
これもイエス・キリストの十字架の救いと守りを教えている。
十字架の救いと守りなしに、神の栄光の臨在の前に立てる者はいない。
ヨハネによるイエス・キリストの福音書1:5
καὶ τὸ φῶς ἐν τῇ σκοτίᾳ φαίνει, καὶ ἡ σκοτία αὐτὸ οὐ κατέλαβεν.
「キリストの命は、光として闇の世界に輝いており、
闇の世界は、決してこれに打ち勝つことはできない。」現代訳
ラテン語ウルガタ、英KJV、新共同訳等は、
κατέλαβεν を暗闇は光を理解できなかった。
と訳しており、
新改訳、現代訳は、暗闇は光に打ち勝てなかった。
と訳している。
これは、どちらの訳でも間違いではない。
このギリシャ語には両方の意味があるからである。
いずれにしても、暗闇の力が、
光であるキリストに打ち勝つことは出来ないし、
このお方を理解することもできない。
現在、日本人たちの99パーセントが暗闇と罪を愛し、
光であるキリストの御許に来ようとしない。
しかし、神の民はそうではない。
「真理を行う者は、光のほうに来る。」ヨハネ3:21 新改訳
ジョナサン・エドワーズ牧師は健康のためと祈りのため、
馬で森の中に入っていく習慣があった。
そこでエドワーズ牧師は、
「神と人との仲介者としてのイエス・キリストの栄光を見た。」
「キリストの位格がことばに現せないほど卓越して見えた。」
「私は私の魂が空になり、無になり、灰になり、」
「天国の純正によって純とされるのを感じた。」
『リバイバル』p331 ロイドジョンズ 原題Revival Sermon: The Glory of God
エドワーズ師は高い知性を与えられた人物であったが、
神の栄光を垣間見た間、涙の洪水の中にあり、泣き叫んでいた。
これが罪ある人が神の御前に立った時の正常な反応である。
神の栄光の御前にひれ伏すのである。
1954年 共通讃美歌の訳
聖なる、聖なる、聖なるかな、
三つにいまして 一つなる
神の御名をば あさまだき
おきいでてこそ ほめまつれ。
聖なる、聖なる、聖なるかな、
神のみまえに 聖徒らも、
かむりをすてて ふしおがみ、
みつかいたちも み名をほむ。
聖なる、聖なる、聖なるかな、
罪ある目には 見えねども、
みいつくしみの 満ちたれる
神のさかえぞ たぐいなき。
聖なる、聖なる、聖なるかな、
み手のわざなる ものみなは、
三つにいまして 一つなる
神の大御名 ほめ奉らん
これより新しい讃美では、
東京基督教大学の献身者たちが神学生時代に結成したリラに、
「わたしたちのこの口はけがれているけど」という曲がある。
youtubeにも動画がある。