2 大丈夫ですか?
7
日曜日になると雨が降った。
僕は雨が降るといつも珈琲を飲む。
数年前はビールばかり飲んでいた。
体に悪いからやめたのだ。
僕が珈琲を飲んでいると、セキセインコの『ビートニク』が僕のそばにやってきて言った。
「へへへ、お譲ちゃん、いい体してるなぁ」
僕はこのインコに何も教えていないのだが、彼はどんどんと卑猥な言葉を覚えてくる。
セキセインコではなく、セキセインコウに名称を変えてほしいぐらいだ。
「あら、そうしたら、インコウに変えたらいいじゃない」
高梨ユリに相談すると、頬を赤らめながらもあっけらかんとそう言われた。
「あのね、ものの名前ってのは、簡単に変えられないんだ」
「そうかしら、名前って、全部勝手に決められちゃったものじゃないの?」
「そんなわけないでしょ。あと、頬を赤らめるぐらいなら、インコウとか言うのやめなよ」
「何よ、あなたが先に言ったんじゃない。とにかく、『ユビキタスさん』だって私が勝手につけたんだから。名前ってそういうものよ」
「それとこれとは話が別だよ」
僕はあわてて言った。
「僕のは、君が勝手につけたあだ名。インコは、定められた名称だよ」
「名称だって誰かが勝手に定めたものよ」
「そこには同意がある」
「私とユビキタスさんで同意すればいいじゃない」
「インコウを?」
「そう!」
言ってから、じとっと僕を見て、
「私とあなたの淫行を、って意味じゃないよ」
「わかってるよ」
そんなわけで、僕のセキセインコはセキセインコウになった。
僕たちは、「インコウのビートニクさん」と彼のことを呼ぶ。
そうすると不思議なことに、彼は卑猥な言葉を覚えるのをやめて、代わりにアレン・ギンスバーグやジャック・ケルアックの詩集をそらんじるようになった。
8
確かにこの世の中に、ケルアックやギンスバーグがひとつのエスタブリッシュメントを形成した時期があった。
その頃僕はうまれてもいなかった。
僕が生まれた年には、ちょうどロラン・バルトが死んだ。
ロラン・バルトは弟子の車にひき殺されたらしい。
本当かどうかは知らない。
僕はそれを「いしいひさいち」の漫画で読んだのだ。
バルトが道路を渡る。
弟子が車で突っ込んでくる。
グシャ!
「先生、大丈夫ですか」
「ううう、俺はもうだめだ」
それ以来、僕は時々、空を見つめてつぶやくようにしている。
「先生、大丈夫ですか」
誰も答えない。
誰に問いかけているのかもよくわからない。
ところで僕は、ケルアックもギンスバーグも、ちゃんと読んだことがない。
9
昨日、喫茶店でウィンナ・珈琲を飲んでいたら、ひとりの女子高生に声をかけられた。
「ちょっと、お兄ちゃん!こんなところで何をやっているのよ」
僕は驚いて、珈琲を噴出してしまった。
「あぁ、ちょっともう、汚い」
女子高生の制服にウィンナ珈琲のクリームが飛び散る。
僕は発情しそうになって、少しだけ前かがみになった.
「君が急に変な声をかけるからじゃないか。お兄ちゃんってなんだよ。俺には妹なんていないよ」
「そんなことわかってるわよ」
女子高生は腰に手を当てたままで言った。
「そんなことはわかってるの。でも、あなたのことをとりあえずお兄ちゃんって呼んでみたのよ」
「いったいどういうこと?」
「わからないかなぁ、ボクはね、お兄ちゃんを探してるの。いろんな人にこうやって声をかけて回っているのよ。そうしたら、その人がお兄ちゃんだったらちゃんと返事をしてくれるでしょ。あなたはそうじゃなかったみたいだけど」
僕は彼女のしゃべっている内容よりも、彼女の一人称が「ボク」であることに感動していた。
奥からウェイターがやってきて、ため息をつきながら、大きなトンカチで女子高生の顔を殴った。
彼女は顔から血を吹きその場に倒れた。
「お騒がせしました」
とウェイターが言った。
「こういうことって、よくあるんですよ」
「そうなんですか?」
「えぇ。こういう女子高生が、うちの店に来るから困るんです。ゴキブリと一緒ですよね、退治しなきゃらならない」
「ちょっとかわいそうだけど」
「そんなこと言ってたら、商売上がったりですよ」
「なるほど」
ウェイターは、顔から血を流して死んでしまった女子高生を引きずって奥へ戻っていく。
僕は彼の後ろからついて歩いた。
奥の厨房には大きな川が流れていた。
「きれいでしょう」
とウェイターは満足げに言った。
「うん。きれいだ。なんて名前の川?」
「スティーヴィー・クリークっていうんです」
「へぇ」
ウェイターは、よいしょっと、と掛け声を上げて、女子高生の死体を河に流した。
「こうやって処理するんです。彼女たちの体には、たくさん二酸化炭素がたまっているので、河の水質管理にはとても役に立つんです」
「この河には河の生物がたくさんいるの?」
「えぇ、山女とか、岩魚とか」
「へぇ」
「春になると、また見に来てください!きれいなタンポポが咲き乱れていますよ!」
僕は頷いた。
席に戻り、もう冷えてしまったウィンナー珈琲の残りをすすった。