後編
お読みいただきありがとうございます。
あとがきにマイヤー男爵の話を載せています。
「どうして誰も何も聞かないの?」
御者と共に屋敷に戻ってきたエレナは、無事を喜ばれたものの、リリスを見捨てた事を誰も咎めないことに不安を覚えていた。誘拐を見越していたかのように、ドレスを取り替えていたことすら言及されなかったのだ。
エレナは帰る道々言い訳を考えていて、全てリリスのせいにしよう、あの子が我儘を言ってわたしのドレスが着たいとゴネたから、仕方なく交換したのだと言おうと思っていたが、肩透かしだった。
(そんなつもりは無かったのよ、リリスがほんの少し怖い目に遭えば良いと思っただけなの。すぐに帰ってくる手筈になっていたのにまだ戻ってこないなんて、一体何があったというの?)
10日程経って、エレナは黙っている事に耐えかねて遂に父親に告白する事にした。この誘拐事件は、リリスに気がある婚約者と、その婚約者を誑かそうとするリリスを反省させるために自分が仕組んだのだと遂に白状した。
そもそも、幼い頃に再従姉妹同士だと紹介された時からリリスが気に入らなかった。まばゆい金髪に澄んだ緑の瞳は何故だか高貴に感じられて、たかが男爵家の娘の癖に生意気だと思っていたのだ。
それが両親を無くしデュバリ伯爵家へ引き取られ、自分のメイドになるのだと聞いて、エレナは勝ったと思った。彼女の不幸を望んでいたわけではないし、虐めたり折檻したりするような事はなかったが、チクチクと小さな嫌味を言ったり、リリスを困らせるような行動を取っては溜飲を下げていた。
結局のところそれは、リリスに対する劣等感と羨望から来る事に本人は気がついていなかった。
そんな折にスタイラス伯爵家の次男ウォレスとの婚約話が持ち上がった。
2人の見合いの席でエレナの後ろに控えてお茶を入れたり給仕をするリリスを見たウォレスが、はっとして息を呑む瞬間を偶然目にしてしまった。
生真面目で地味でつまらない男のウォレスが、ほんのりと耳を赤くしてリリスに見惚れた瞬間を見てしまったのだった。
交流のお茶会のたびにリリスの姿を目で追っているウォレスを、エレナは苦々しい思いで見ていた。
面白くない。一体どういうつもりなの。
エレナ自身はウォレスを特別好きなわけではないが、貴族の義務として婿取りをしなければならないと理解はしていた。自分が妥協してやっているのに、可愛い自分に夢中にならない婚約者の事が気に入らなかった。
ぱっとしない地味な男のくせにと、エレナはメイド達に悪口を言っていた。
「あんなに地味で話しもつまらない男に、わたしは勿体無いわよねぇ。まあ、その分浮気はしそうにないけどね」と、リリスに面と向かって言ってやるのだ。そうするとリリスは困ったような悲しいような顔をする。その顔を見ると、エレナは優越感に浸れるのだった。リリスもまたウォレスの事を意識しているのは明確だったから、ウォレスは自分のものだとアピールをし続けた。
ウォレスとのお茶会の後で必ず機嫌が悪くなるエレナに気を遣って、リリスはお茶会の手伝いに出るのを控えるようになった。わざとリリスを排除しているようにウォレスに思われやしないかと若干気になったが、ウォレスはそんなエレナの前でもいつも通り、全てを諦めたように、ただ穏やかな笑みを浮かべていた。
それが余計にエレナの癇に障ったのだった。
リリスは母の従姉妹の娘だ。だから自分にとっては再従姉妹だが、今は使用人だ。それなのに主人の婚約者にのぼせ上がっていることがそもそも許し難い。
ウォレス様もウォレス様よ、見かけが地味で野暮ったいのだから、わたしに釣り合う男になる努力をすべきだわと、筋違いの怒りを覚えた。
色々と拗らせてしまったエレナは、使用人は主人を庇ってならず者に攫われても当然なのだと、それをウォレスとリリスに思い知らせてやろうと考えた。そして引き起こしたのがあの誘拐事件なのだった。
「お前はリリスをどうするつもりだったのだ?お前が雇ったならず者どもがリリスに狼藉を働いたり、最悪は命を奪うと考える事はなかったのか?
母のアンナはリリスの身を案じて寝込んでいるというのに」
父親である伯爵の、静かだが怒りを隠しきれない言葉に、エレナはびくりと震えた。
「雇った男には、2、3日後には我が家の門の前にリリス置いておくようにと命じました。少しだけ怖い思いをすればウォレス様の事を諦めると思ったのです」
「ならず者達がその約束を守るとでも?
事情を知らないリリスは、お前の代わりに攫われて恐怖と不安に怯えていただろう。そんな事も想像出来ない程に、エレナは傲慢な娘に育ってしまったのだな。どうやら私もアンナもエレナを甘やかし過ぎたようだ。
こんな事になってしまっては、ウォレス殿との婚約は解消するしかあるまい」
「お父様っ!それではあの子を誘拐させた意味がありませんわ!ウォレス様にはわたくしを第一に思って貰わねばなりません。そもそもあの方が、わたくしよりも平民の使用人に目をかけるような態度をなさるのがいけないのです。それもこれも全てリリスのせいではありませんか。あの子がウォレス様に色目を使ったのがいけないのよ!」
婚約解消と言われて焦ったエレナは叫んだ。ただ、ほんの少し彼らが反省してくれれば良い、それだけのつもりだったのに、リリスが帰ってこないものだから大袈裟になってしまった。
自分のしでかした事を棚に上げて、逆にリリスが悪いと叫ぶ娘に、父親は言葉もなかった。
「何を勘違いしているのか知らんが、リリスはマイヤー男爵令嬢であって平民ではない。成人になるまで私が後見人を務めているだけだ。それにリリス本人の意思で、働かせて欲しいと望むものだから、メイドではなく侍女としてエレナの側に置いたのだ。リリスはいつも謙虚で弁えるような態度を取っていたから、お前はより一層傲慢な態度でリリスに接するようになったのだな。
家庭教師の授業も一緒に受けて、リリスがいかに優秀かわかっていた筈だ。それなのにエレナはリリスを見下していたようだ。
そしてこんな状況になって尚、お前はリリスの身を案じようとはしない。私はそれを残念に思うよ」
エレナは呆けた顔で、今更ながらに自分のした事の悍ましさに小さく震えた。リリスは貴族令嬢として致命的な貞操の危機だけではなく、その生死すら不明なのだ。その状態を作ったのが自分の我儘と嫉妬にあるのは確かだった。
「多少の我儘などかわいいものだと見過ごしてきたが、我が娘がひとりの令嬢の未来を奪おうとした事実は消せない」
「わ、わたくし、リリスに、あ、謝りたいけれどっ、あ、あの子は生死もふ、不明で……」
デュバリ伯爵は泣きじゃくる娘を憐れむように見ていたが、真実を教える事にした。
「リリスは生きている。彼女を助けて預かっている屋敷からその日のうちに知らせがあったのだよ。
町で人攫いの打ち合わせをしている輩を見かけたので、捕まえて話を聞き出したら、エレナ達の乗った馬車を襲うのだと吐いたらしい。しかもお前の身代わりとしてリリスを攫う手筈になっているのだと。
その屋敷の御仁は、警備隊に知らせる事なく、敢えてならず者の振りをしてリリスを保護してくれた」
「どうしてそんなややこしい事を?それなら馬車を襲ったり、リリスを連れて行く必要なんてなかったじゃない」
「何故だかわからないか?
ならず者を警備隊に突き出したらエレナの所業がばれて、お前も警備隊に連れていかれるだろう?
だから襲撃犯はあちらで対処したそうだ。
自分のメイドを攫わせようとしたのは、未来のある令嬢のほんの気の迷いでしょうから、内々に済ませましょうと言ってくれたんだよ。
その上で、哀れにも拉致されようとした令嬢はしばらく預かりましょうと申し出てこられた。今回は失敗したが次回が無いとも限らないからと」
デュバリ伯爵は噛んで含めるようにゆっくりと説明をした。本当はその助けてくれたのが立場的に逆らえない相手で、馬鹿な娘を警備隊に突き出されたくなければ、しっかりと管理しておけと笑顔で言われた事は心の中に仕舞った。
エレナは真っ青だった。まさか、そんな大事になるとは思っていなかったのだ。ましてやそれが犯罪だと思い至らないほど、エレナは自分勝手な娘だった。
「本来ならば、お前は悍ましい事件の首謀者として取り調べを受けるべきところを、敢えて庇ってくださったんだ」
「ごめんなさい。わたし、そんなつもりではなかった…」
「私はお前がいつ真相を話してくれるか待っていたのだよ、エレナ本人の口から聞きたかったからね。
リリスが戻って来たら心から謝罪をしなさい。お前達は再従姉妹同士になるのだから、もう決して使用人のように見下してはいけない」
エレナは泣きながら父の許を離れ、その足で母の部屋へと向かった。
母は決してエレナを否定しない。寧ろエレナの心の葛藤を慮り、貴女の婚約者に色目を使うリリスが悪くて貴女は悪くないわと、慰めてくれるはずだ。
そして、リリスの母がいかにあばずれかを、嬉しそうにエレナに語るに違いない。
*
数日後、ダンスタブル公爵家からデュバリ伯爵家へ親書が届いた。郊外の公爵家の別邸で預かっているリリス・マイヤー男爵令嬢を養女にしたい、という申し出で、ついては伯爵夫妻に是非とも別邸までお越し願いたいという、半分強制のような内容だった。
リリスの後見人を務めてはいるが、リリスが望むなら反対する理由はない。寧ろ喜ばしい事だと思うのだが、何故か妻のアンナは反対した。
世間知らずの娘がいきなり公爵令嬢になったりしてもうまく世の中を渡りきれない。所作だって所詮下位貴族のものでしかない。あの娘をつけ上がらせてはいけない、あの娘は男爵家を継ぐべきであると強く主張したのだった。
従姉妹の娘のリリスの身を案じているとばかり思っていた伯爵は、妻が見せた悋気にただならぬものを感じて、これは直接ダンスタブル公爵にお会いせねばならないと思った。
公爵家へ連絡し訪ねる予定を決めたら、アンナはエレナも同行させると言い出した。
「何を言ってるんだ。リリスに対して酷い行いをしたエレナを連れて行くなど、公爵閣下がお許しにならない」
「エレナはリリスに直接謝りたいと泣くのですわ。あの子もまた酷く傷ついているのですよ。元々そこまでエレナを追い込んだのは、リリスの行動のせいではございませんか。
リリスがスタイラス伯爵家のウォレス様の気を引くような真似をしなければ、エレナがあのような事をせずに済んだのです。全てリリスのせいなのです。
それなのにエレナはリリスに謝罪したいと言うのですよ?なんと健気な娘でしょうか」
笑顔の妻にただならぬ狂気を感じたデュバリ伯爵は戸惑った。良妻賢母だと信じていた妻のアンナはこんな人間だっただろうか?伯爵は初めて、妻の本心を垣間見た気がした。
孤児になったリリスを我が家で引き取って面倒をみましょうと、誰よりもリリスを案じている様子だったのも、本当は手元に置いて監視したかったのではないか?という疑念が頭から離れなかった。
だとしたら一体何の為に?
デュバリ伯爵は迷ったが妻子を連れて参上いたしますと伝えた。予想に反して公爵家からは御息女も歓迎するとの返事が届いた。
*
ダンスタブル公爵家の別邸は王都の郊外にある。
デュバリ一家は応接室で緊張しながらこの屋敷の主人を待っていた。
そこへリリスを伴った公爵が現れた。ケティに世話をされ、肉付きも血色も良くなったリリスは使用人時代と別人のようだった。
後見人であるデュバリ伯爵に、養子縁組の許可を願う公爵に、リリスが幸せになるのなら異存はございませんが、願わくばその理由をお聞かせ願えませんでしょうかと伯爵は恐る恐る尋ねてみた。
「リリスは血の繋がった私の娘だからね。漸く親だと名乗れる喜びで一杯なのだよ」
公爵の言葉に、ああやはりそうなのかと納得する伯爵と、驚きを隠せずポカンと口をあけたエレナ。そしてアンナは1人だけ渋い顔をしていた。
「夫人は何か言いたい事がありそうだ。自分の発言に嘘偽りなく責任が持てるというなら、話してみなさい」
「……この娘リリスは両親の婚姻後すぐに生まれました。それは母親のパトリシアが既に懐妊しており、マイヤー男爵を騙して結婚したからに他なりません。彼女のお腹の中にはどこの誰の子かしれない赤子がいた、という事ですわ。その赤子こそがその娘リリスなのです」
「そのどこの誰かが私なのだが?」
「いえ、閣下。閣下のお子であるわけがございません。パトリシアは男遊びが激しく、常に噂がございましたの。まあ、男好きのする容貌ですからね、すぐに引っかける事が出来たのでしょうね。
ですからそこのリリスが閣下の娘である証拠はございませんわ。
それにその娘は、我が娘エレナの婚約者にちょっかいを出すようなふしだらな女なのです。騙されてはいけませんわ、閣下」
その場にいる全員が、まるで化け物を見るかのようにアンナを見た。
「お、お前、何を言うのだ!閣下、申し訳ございません、妻は病み上がりで、その、心を病んでおりまして」
「イクセル、夫人にあれを見せてやれ」
後ろに控えていたイクセルは、デュバリ伯爵夫妻の前に一通の手紙を置いた。
「18年前、私の前から消えた最愛のパトリシアに届いた手紙だ。パトリシアの実家の子爵家が破産し爵位を返上するかもしれない。親を見捨てて平気なのか?それに平民になったら、パトリシアが公爵家の嫁として認められることはまず無いだろうから、諦めてマイヤー男爵に嫁げと。マイヤー男爵は全て承知で受け入れると約束している、と書いてあるな。最後の署名は夫人のものだろう?」
デュバリ伯爵が震える手で手紙を開こうとしたら、それをアンナが奪ってビリビリと破く。
「そんなものが残っているはずがないわ。わたくしがパトリシアを呼び出すために送った手紙なんて。
何故こんなものがあるのよ、おかしいじゃない。
リリス、あんたが生きているから悪いのよ!ならず者に甚振られて死ぬ予定だったのよ!
エレナを唆して襲う計画を立てさせて、その後でわたしはならず者達に更に金を積んで、リリスを殺せって命じたってのに。
パトリシアはわたしから公爵様を奪い、今度はリリスがエレナから婚約者を奪おうとする、あんた達母娘はとんだあばずれの疫病神よ」
口汚く罵って暴れ始めたアンナは、クリスティアンの命令ですぐに取り押さえられて外に連れ出された。残されたデュバリ伯爵は顔色を無くし、エレナはがくがくと震えていた。そして、涙を堪えきれずにいたリリスを父親の公爵は慰めた。
「閣下、この手紙は本物で?」
恐る恐るデュバリ伯爵が確認してきた。
「ああ、それは賭けだったのだ。パトリシアが手紙で呼び出された事はわかっていたのだが、それが誰からの物か、彼女は語らないまま消えてしまった。
既に貴殿の妻となっていたあの女が関わっているかもしれないと思っていたので、賭けに出た」
「閣下は妻を罠に嵌めたとおっしゃるのですか」
「罠だとしたら何だ?デュバリ卿もアンナ・デュバリの発言を聞いただろう。
あれは妄想の成れの果てだ。私があの女のものだった事は無いし今後もあり得ない。
あの女はパトリシアより自分を愛人にしろと私に迫ってきた。全く相手にしていなかったのだが、あの頃から彼女は妄執に囚われていたのだと思う。
デュバリ伯爵との婚姻が決まり、優越感をもって従姉妹のパトリシアを見下していたら、そのパトリシアが公爵家の私に見初められた事が余程気に入らなかったのだろう。夜会では度々パトリシアを貶める発言をするアンナが目撃されていたよ。
私は父からも、アンナからも、パトリシアを隠し守る必要があった。パトリシアのお腹に子が宿ってからは尚更だった」
そうやって守ってきた大切な妻、正式に藉こそ入れてはいなかったが、この世で一番愛する存在は、アンナの策略で誘き出され、実家を救うためにマイヤー男爵に嫁いだ。
声を出すものは誰もいない。母の真実を知った衝撃から、エレナは啜り泣いていた。
「幸いだったのは、マイヤー男爵が善人で、パトリシアとリリスを心から愛してくれた事だ。おかげでリリスは真っ直ぐな良い娘に育ってくれた。
それにデュバリ伯爵は後見人となって、つまらぬ親族のゴタゴタからリリスを守ってくれたのみならず、娘同様の教育を施してくれた。深く感謝する」
デュバリ伯爵はまだ震えていたが、しっかりとダンスタブル公爵の目を見て答えた。
「私はマイヤー男爵には随分世話になったのです。それゆえ残されたリリス嬢を守るのは当然の事だと考えていました。しかし何を勘違いしたのか、妻と娘がリリス嬢を使用人のように扱っている事に気がつき、何度も苦言を呈したのですが、リリス嬢から使用人として屋敷内の仕事を与えて欲しいと懇願されました。彼女の気が紛れ悲しみが癒せるのならと、私はそれを許してしまいました」
デュバリ伯爵は己のしでかした事を悔いていた。
「全ては私の慢心が起こした事であります。妻子の愚かな行動に気がついておりませんでした。
リリス嬢、いえリリス様には大変なご迷惑をおかけしてしまいました。妻の恐ろしい所業は夫の私の責任です。どのような罰も受けましょう。しかし、娘はエレナは、ただ考えなしの娘でございます。どうかエレナだけは……」
デュバリ伯爵は力無く肩を落とし、泣きじゃくるエレナの背をさすり、それでもテーブルに付くほど深く頭を下げた。
公爵はリリスに向かって、彼らに何を望むか尋ねた。
「伯爵様は良くしてくださいました。エレナ様は、わかりません。クリスティアンお父様にお任せいたします」
「リリス、ごめんなさいっ!許して貰えなくても仕方ないけど、本当にごめんなさい。わたし、貴女が羨ましかったの。ウォレス様はリリスしか見ていなかった、羨ましかったのよ」
エレナの声が扉の向こうに消えて静寂が訪れた。
黙ってエレナの叫びを聞いていたリリスは、なんだかとても疲れてしまった。
「クリスティアンお父様、わたしは幸せになっても良いのでしょうか?」
*
その後、デュバリ伯爵はアンナと離縁した。アンナは一生出る事の叶わぬ精神病院に入院した。
エレナはウォレスとの婚約解消後、修道院に送られて奉仕活動に従事し、反省の後で伯爵家へ戻って来られるよう温情が与えられた。
誘拐事件を公にすれば、リリスにも疵がつきかねないので、全ては無かった事にされた。デュバリ伯爵家の使用人たちにも緘口令が敷かれ、伯爵にはその監視をする役割が与えられた。
そしてリリスは正式に、ダンスタブル公爵家の娘となった。人々は余りに似ている公爵とリリスに、公爵の過去の恋愛スキャンダルを思い浮かべたが、誰も何も言わなかった。既に前公爵は亡く、マイヤー男爵夫妻もいないのだ。
存命の前公爵夫人は、パトリシアを守れなかった事をリリスに謝り、そして新たに出来た孫娘を溺愛するようになる。
*
「まるで物語の中の出来事のようだわ」
リリスは、この半年の間に起こった事を思い返していた。
「どうかしたの?」と、声を掛けてきたのは目の前に座る婚約者だ。
「いえ、まるで物語みたいだと思っていました。両親を亡くしたのに、本当のお父様がわかってこうやって一緒に暮らしているし、それに……」
「それに?」
「身分違いで叶わないと諦めていた方と向かい合ってお茶を飲んでいます」
リリスは頬を赤らめた。
「身分違いは僕の方だよ。一目見た時に運命の人だと思った女性が実は公爵令嬢で、僕はただの伯爵家の次男だからね」
「それは偶々そうなってしまっただけですよ」
ダンスタブル公爵は、メイドをしていた頃からリリスを想ってくれたウォレスを評価して、両思いならばとスタイラス伯爵家へ話をつけてリリスとの婚約を結んでしまった。やがて彼は公爵の後を継ぐことになるので、リリスとウォレスは次期公爵夫妻になる為の勉強を始めていた。今はその休憩中なのである。
「前の婚約者は僕を嫌っていたよ。地味で冴えない男だと面と向かって言われたこともあったけど、君への想いを封印して、婚約者を大切にしているつもりだったが、彼女は贈った髪飾りもドレスも身につけてはくれなかった」
「それは違います。エレナ様は本当はウォレス様の事が……」
ウォレスは人差し指を立てて、リリスの口元に近づけた。
「それ以上は不要だよ。今の僕らには関係のない事だ。僕たちはお互いに諦めていた好きな人と、こうして共に過ごしているんだからね」
ウォレスは照れくさそうに微笑んだ。
エレナ様はウォレス様に恋していたからあんな事をしたのと言いたい気持ちはこっそり胸の奥に仕舞う。その感情はエレナだけのものだから。
ただ婚約者とのお茶会の後に必ずエレナの機嫌は悪くなり、リリスに八つ当たりをしていたのは事実だ。
エレナの八つ当たりは小さなものだったが、伯爵夫人のアンナからの仕打ちは狡猾だった。
従姉妹の娘であるリリスを労るふりをして部屋に呼びつけ、2人きりになると、ネチネチと言葉で攻撃してきた。
「親のいない貴女を引き取ってやったのは誰?所詮男爵家の娘で、限りなく平民に近いお前をスタイラス伯爵家が認めるわけがないわよ。
お前がいくらウォレス様が好きでも叶わない恋なんだから、さっさと諦めた方が身の為よ」
などというのはまだ優しい方で、主家の令嬢の婚約者に懸想するふしだらな娘だの、恩知らずだの、母と同じで尻軽だのと、リリスの心を抉る言葉を投げつけていた。
「貴女の母パトリシアは、男にだらしなくてね。血は争えないわね」
使用人のリリスはただ黙って頭を下げて、そのうちにアンナが飽きて解放されるのを待つしかなかった。そしてアンナがリリスに対してそのような精神的な虐待を行っている事を、夫も娘も知らなかった。
「それにしても、ならず者に誘拐させようとしていたのを、公爵閣下はどうやって知ったのだろう?」
ウォレスの疑問にリリスが答える。
「あ、それはね」
あの日、エレナの護衛をしていた男は、公爵の片腕イクセルの意を汲んで、デュバリ伯爵家へ潜入した人間だった。
彼は、万が一の事があればリリスを守る役割を担っていたのだ。それゆえ、エレナから2人だけで街へ買い物へ出かける、護衛は1人で良い、なんなら御者も兼ねてくれるかしら?とお願いされて、すぐにイクセルに知らせた。
後はイクセルが先手を打って、エレナに雇われたならず者を捕まえ、元々のエレナの計画に加え、さらにはアンナによるリリスの殺害命令を阻止する事が出来たのだった。
「とにかくも君が無事で本当に良かった。愛しているよ、リリス」
「ええ、わたしも愛しているわ」
隣に座って手を握りそっと唇を寄せて来たウォレスに頬を差し出したリリスは、これは物語ではなく、現実なのだと実感した。
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パトリシアの事情を全て受け止めて結婚したマイヤー男爵の話を少しだけ。
『マイヤー男爵の物語』
困窮している子爵家に援助する代わりに融資をするという約束で、いわゆる契約結婚を持ちかけられた時、マイヤーは30代半ばも過ぎていた。両親は既に亡く兄弟もいない、男爵家は自分の代で潰えるだろうと思っていたところに齎された話だった。
しかしその契約が一向に話が進まないので、一旦白紙に戻そうかと考えたいた矢先に、ひとりの娘がやってきた。
マイヤーは驚いたがお腹の膨らんだパトリシアの弱々しい姿を見て保護すると決めた。元々自分に嫁いでくる予定の娘だったが、年齢は親子ほど離れている。形だけの妻で充分なのだが、どうしても嫌がるならいずれ解放してやるつもりでいた。
許されない恋で日陰の身として生きなければならないパトリシアが子どもを産んでも、私生児扱いになってしまうだろう。
マイヤーは自分がお腹の中の子の父親になると決めた。
援助の見返りの契約結婚ということで、ぎこちなく始まった結婚生活だったが、朴訥だが真面目なマイヤーに、パトリシアは父親に甘えるかのように、心を開いていった。
そもそも実家の子爵家では、パトリシアはお金の為の駒扱いだったし、囲われていたダンスタブル公爵家では、気を抜けなかったので、マイヤー家でようやくほっとする事ができたのだ。
マイヤーは、子どもが生まれたら子どもは自分の手元で育て、パトリシアは解放してやろうと思っていた。パトリシアの再婚相手も見つけてやるつもりだった。
しかし、共に暮らす内にパトリシアとリリスへ、愛情を抱くようになった。
パトリシアもまた、マイヤー男爵の朴訥で真面目な人柄や深い愛情に触れて、この人ならばと人生を共にし穏やかに生きていけるだろうと思った。
そうしてマイヤー夫妻は娘を愛して、お互いに慈しみあって過ごしていたが、馬車の転覆事故に遭ってその生涯を終えることとなった。
夫は最後まで、妻の気持ちが自分には向いていなくても良いと思っていたが、その命の灯が消える直前に耳にしたのは、
「世の中で一番愛してる貴方と一緒に死ねるなら、何も怖くないわ、愛しているわ、あなた」という妻の囁きだった。