ミーアと新しいおうち
「ミーアちゃん!」
会いたかったと、ぎゅうぅぅっと痛いほどに抱きしめられたミーアは、甘い香りに包まれて、心臓が痛いほどに鳴った。
ママがミーアを抱きしめてくれた!
こうして抱きしめてもらうまでは、ママに会うのが怖かった。
怒られたら?
もっと嫌われたら?
不安で、不安でどうしようもなかった。
でも、今はそんな暗い考えも吹っ飛んだ。
幸せってこういうことをいうのだろうか。
「ずっと、会いたかったの」
ママは宝石みたいな綺麗な目から、宝石みたいに綺麗な涙を流した。
ミーアは、ぼぅっと見惚れた。
お姫様のように綺麗だったママが、更にキラキラと輝いていて、まるで女神様のような美しさだった。
「ママね、少し、混乱していて……。ミーアちゃんに、とっても酷いことを言ったでしょう? ママのこと、嫌いになってしまった?」
「ぅ、ぅうん!! ミーア、ママが大好き! 世界でいっとう好きよ」
リノおばさんみたいに、ぎゅっとしてくれた!
あったかくてふわふわしているリノおばさん。
ずっと、ママが抱きしめてくれたらどんな感じだろうと思っていたけど、ママもリノおばさんみたいに柔らかい。
でも、ママは細いから、折れてしまわないから、ちょっと心配になる。
「ミーアちゃん、ありがとう……っ」
「ぅ……っ」
ママは感動しているのだろう。
ぎゅっと更に力を込められたから、苦しくて痛い。
ママはきっと抱きしめるのに慣れていないんだ。
(声、でない……っ)
顔が豊かな胸に押し付けられて、窒息してしまいそうになる。
ママに気づいて欲しいのに、ママはミーアとの再会に感動していて、ミーアが苦しんでいるのに気づいてくれない。
顔が真っ赤になって、もう、駄目っと思った瞬間、後ろに引っ張られて、体がふわっと浮いた。
「公爵様……?」
腕をだらりと垂らしたママが、信じられないとばかりに目を見開いた。
「娘を殺す気か?」
パパの声はいつもより低くて、ピリッとした空気をまとっていた。
ケホケホと咳込んだミーアは、涙目でママを見た。パパを凝視しているママの綺麗な顔がどんどん青ざめていった。
倒れ込んでしまうのではないかという様子に、周囲の人たちもソワソワと落ち着かなさそうだった。
「パパ……」
ありがとう、ってお礼を言いたかったのに、またケホッと咳が出た。
顔色を変えたパパは、専属医を呼べと指示を出すと、お仕着せの服に身を包んだ使用人たちが大きな門を飛び出て行った。
お外にいる専属医という人を呼びにいったのだろう。
「ご主人様、お水を」
アザスさんが革袋に入った水をパパに差し出した。
だれも動けなかったのに、パパの側近だというアザスさんは、パパが口を開くよりも前に行動する。
『それが私の仕事ですから』
すごい、すごいと褒めたミーアに、アザスさんが気恥ずかしそうに、でも誇らしげに笑っていたのをミーアは思い出した。
頷いたパパは革袋を受け取ると、飲みやすいようミーアの口元に近づけてくれた。
零すなよ、と優しく言ってくれたパパに、なぜか周囲がざわめいたが、ミーアは水を飲むのに必死でちっとも気づかなかった。
「ぷはぁっ。パパ、アザスさん、ありがとう!」
「ふっ。そなたは母親と違って礼を言えて偉いな。――サシャ、ここへ」
「はい、ご主人様」
紺色の服に白いエプロンを付けたお姉さんがすっと前に出た。
ママと同じくらいの年齢だろうか。
お姉さんの横では、「公爵様、わざとでは!」とママが泣きながら訴えていたが、パパは無視をして、騎士さんに連れて行けと命令していた。
これが契約結婚というものなのだろうか?
ミーアがママを大好きみたいな感情は、パパにはないみたいだ。それとも大人だから、隠しているかな。
騎士さんに引っ張られていくママが可哀そうで、ママとパパを交互に見るけど、ミーアは何も言えなかった。
「そなたの専属のメイドだ」
「せん、ぞく……?」
「ああ、そなただけの世話をする者だ。何かあれば、すぐにサシャに言うといい」
ミーアは頭を下げて畏まるお姉さんを見下ろした。
耳下で切りそろえられた黒い髪がサラサラと零れ落ちた。
「サシャと申します。お嬢様に誠心誠意お仕えいたします」
「サシャさん?」
「いえ、どうか、サシャ、とお呼びください」
ミーアは困ってしまった。
アザスさんたちにもそう言われたのだが、なかなか癖というのは抜けないのだ。
「使用人に敬語は不要。だが、そなたの環境がそうさせるのだろう。そのうち慣れればよい」
「! うんっ」
パパはやっぱり優しい。
にこっと笑みを浮かべると、パパが頭を撫でてくれた。
その瞬間、空気がざわめいたが、それも一瞬だった。
「みな、聞け。この娘は公爵家の一員となった。公女を軽んじる者は、私を軽んじると思え。私に仕えるのと同じように使えるように。――いいな?」
「「「畏まりました! 精一杯お仕えいたします」」」
居並んだ使用人たちが、一斉にお辞儀をした。
その光景は圧巻であった。
(パパはとってもすごい人なんだ!)
公爵という地位は、ミーアにはピンとこない。
ミーアにも高貴な血が流れているのだが、ママとは違って、平民として過ごしていたのだ。
貴族っていうだけで、雲の上の人に感じる。
「ミーア、もしそなたを悲しませる者がいるのなら、私に言え。葬ってやる。――だれであろうと、な」
パパの視線がなぜかママが連れて行かれた方向に向けられた。
ぞっとするほどの狂気がそこにはあった。
◇◇◇◇
自室に戻って来たオルフィーナは、ソファーの上にあったクッションを手に取ると、思い切り床に投げ捨てた。それだけでは飽き足らず、踏みつけ、中綿が見えるまでぐしゃぐしゃにした。
「はぁ……っ、ぁ…はあ」
振り乱した髪を払ったオルフィーナは、苛々と親指の爪を噛んだ。
(どうなってんのよ!)
途中までは良かったのに、どこで狂ってしまったのだろう。
オルフィーナとして目覚める前は、普通の女子大生だった。
ちょっとした言葉の行き違いによって、付き合っていた彼氏に刺されて死んだのだ。
そして気づいたときには、愛読していた『復讐の刃』という小説の中の人物に転生していた。
(もっと早く前世の記憶が蘇っていたら……っ)
神様はなんて意地悪なのだろう。
よりによって悪女のオルフィーナに転生させただけでなく、小説とは違って子持ちなんて!
まだオルフィーナは二十三歳。
前世だったら、遊んでいる年齢だろう。
(子供なんていらないのに!)
大きく溜息を吐いたオフィーリアは、呼び鈴を鳴らした。
失礼いたします、と若いメイドたちが入ってくる。
「片づけてちょうだい。それと、お茶の用意を。……今日は娘に会えた特別な日なんだから、特別な茶葉を用意してちょうだい」
「はい、奥様」
オフィーリアは、鏡台に近寄ると、ふふっと笑った。
子持ちとはいえ、目も覚めるような美貌は損なわれていない。
小説のように、王さえも堕落させるほどの美しさは健在だ。
まさに傾国の悪女と呼ばれるにふさわしい。
「公爵が、あんな子に夢中になるなんて……っ」
鏡の中の顔が歪む。
平民のようにパパと呼ばれていることにも驚きだが、血も涙もない男が、子供を抱くなどだれが予想できただろう。
ぎりっと奥歯を噛んだ。
公爵の弱みに付け込み契約結婚を持ちかけたとはいえ、彼から溺愛される自信はあった。なのに、なぜか煙たがられているのだ。
(あの小娘のせいよっ)
公爵家になくてはならない存在になる予定だったのに、娘の存在が明るみに出てから、公爵の態度が一層硬化したのだ。
「どうにかしないと……」
メイドがぴくりと反応したのにも気づかず、オフィーリアは自分の命を守るためにどうするのか考えを巡らせるのであった。