天国へ誘う天使の手をつかみ損ねたら、我が儘な伯爵令嬢の体に魂が入ってしまいました。目を覚ますと、もっと腹黒な令嬢に王子の婚約者の地位を狙われていました。
いったい何が起こったの? 店を出てマチルド様を見送って、それから――。
すぐ目の前に、そのマチルド様が地面に横たわっている。お付きの方がお体にすがって泣き叫んでいる。え? その隣に転がっている体は――私?
ああ、お父さんが泣いている。……どうして?
「聞きなさい。サラ・ドヴェール。あなたは突っ込んできた荷馬車の下敷きになり亡くなったのです。あなたを天国へお連れするため私が遣わされました」
そう言って私に手を差し伸べているのは金髪の巻き毛が愛くるしい幼い男の子だった。
「すぐには飲み込めない事態かもしれませんが、ほら。あなたは空に浮いているではありませんか」
本当だ! 地上では近所の人たちも集まって大騒ぎになっている。そんな人たちを、私ははるか上から見下ろしている。
「さあ、あまり時間がありません。私の手を取ってください」
ぷにぷにとした小さな手を掴もうとしたその時だった。
「ちょっと! 私はっ?! 私は誰が迎えに来るの? 先に私を連れていきなさいよ!」
マチルド様が烈火の如く怒りながら私の足を引っ張った。
「きゃあ!」
幼な子がギョッとして叫んだ。
「あ! そんな! あなたの名前は天国行きのリストに載っていませんよ。大人しくしていなさい」
「お黙り! 私、本当に死んだみたいだから。それならば天国に行くしかないでしょう。さあ、私を連れておいき! あなたは後よ!」
マチルド様が私の肩に手をかけて上がろうともがく。私は押された反動で落下した。
最後に見たのは驚愕の表情を浮かべた幼な子だった。
◇◇ ◇◇ ◇◇
「マチルド様。お目覚めですか。ああよかった。一時はどうなることかと……。すぐに旦那様をお呼びいたしますね」
私の顔を覗き込んでいるのは、いつもマチルド様の侍女としてうちの店に来ている中年の女性だ。マチルド様はうちの上顧客だった。売上に占める額ではおそらくナンバーワンだ。
王都の目貫通りに構える店は、お父さんと二人で営んでいる高級ドレスサロンだ。主に私がデザインを、お父さんが仕立てを担当している。
あれ? ……待って。あの事故で私は死んだって言われなかった? それに何? 「マチルド様」って?
改めて見える範囲を確認する。見覚えのない高い天井。見たことのない豪華なドレッサーや飾り棚。
え? え? え?
「ごめんなさい。しばらく一人にしてくれませんか?」
女性は困った顔をしていたけれど、「かしこまりました」と言って部屋を出ていってくれた。
「いやあ、人払いをしてくれて助かったよ。ああ、驚かせてすまないね。ふつつかな部下のせいで迷惑をかけてしまい申し訳ない」
「あ、あのう……?」
突然現れたその男性は、ベッドに腰掛けているのに、そこにいる気配がまるで感じられない。長い金髪をはらりと垂らして微笑んでいる姿は、あまりに美し過ぎて人間離れして見えた。まあ、ポンッと姿を現すぐらいだから人間じゃあないでしょうけど。
「君を天国へ誘う役目を担った私の部下だが、君の手を掴み損ねたばかりか、君の魂が抜け殻に落ちるのを許してしまったらしい」
「抜け殻に?」
「そう。その体だ。元の持ち主はマチルド・カッサンドル。君もよく知る我が儘な伯爵令嬢だ」
「そんな……」
慌てて起き上がると恐る恐る姿見の前に立った。
そこには紛れもないマチルド様の姿が映っていた。頬に手をやると、鏡の中のマチルド様の頬に手が当たった。
「君に選ばせてあげよう。その姿のまま生きるのか、それとも今度こそ、私と一緒に天国へ行くのか」
この姿で生きる? そんなことよりもお父さん! ああ今頃どうしているかしら。会いたい。お父さんに会いたい!
「あの。できることなら少しだけ時間をいただけないでしょうか。お父さんに会って話がしたいのです。このマチルド様の体をお借りして。お父さんなら、きっと私だって分かってくれるはずですから」
「ほう」
男性がベッドから立ち上がり、私の前に来た。
その人は「ふーん」と言って自分の顎を人差し指でさすりながら、じいっと私の目を見つめた。
「残念だが、その姿で生きるか、今すぐ天国へいくか、どちらかしか選べないのだ。父親に会いたいのならばその姿で生きる方を選ぶといい」
このままお父さんにお別れも言えないなんて嫌だ。それならばこの体を借りて生きる方がいい。
「分かりました。マチルド様のお体をお借りします」
「承知した。分かっていると思うが、これからはマチルド・カッサンドルとして生きるのだ。実はサラ・ドヴェールだなんて言っても信じてはもらえないだろうが。君の父親にだけ打ち明けるのを許そう。こちらの落ち度でもあるのだから。だがもし万が一、君が他人に本当のことを打ち明けようものなら、その瞬時に君の魂は体から離れるから、そのことを夢夢忘れぬように」
「はい」
事故から三日後。やっと外出を許可された私は、すぐさま実家へと向かった。
実家の店のドアには「クローズ」の表示がぶら下がっていた。それでも構わずドアを叩いた。
ここは勝ち気なマチルド様の声を借りて叫ぶとしよう。
「店主! いないの? 早く開けてちょうだい! 私をここで待たせるつもり?」
それほど待たされることなくドアが開いた。
やつれた顔のお父さんが「あっ」と驚きの声を上げた。私と一緒に倒れていたマチルド様が、こんなにも元気でいることに衝撃を受けているのだろう。
「あなたは外で待っていて」とベス――マチルド様の侍女はベスという名前だった――に言いつけて無理やり店内に入った。
なんと切り出したものかと迷っていると、お父さんの方から声をかけてくれた。
「マチルド様はご無事だったのですね。私の娘は――。娘は――」
「お父さん! 私よ。サラよ! あの事故で死んだんだけど、マチルド様の体で生きられることになったの!」
「え? はああ?!」
最初は信じてくれなかったお父さんも、私が店の奥の工房のミシンを使いこなし、あっという間にグローブを作ってみせると信じてくれた。
しばらく抱き合って泣いたあと、事情を説明し、今後は客として店を訪れる約束をして別れた。
外に出ると、私の泣き腫らした目を見て驚いたベスが「マチルド様――」と言いかけたが、「お悔やみを言えて気が済んだわ」と遮った。
あのマチルド様が泣くはずがなかった。今後は気を付けなければ。
自宅に戻ると、両親の悲痛な話し声が聞こえてきた。無言でドアを開けたため、娘が帰宅したことに気が付かなかったらしい。
「マチルドが弔問とは信じられんな。まさかもう新しいドレスを注文しに行ったのではあるまいな。そんなことが殿下に知られたらおしまいだ。確実に婚約は破棄されるだろう。肩代わりしていただいた借金がまた戻ってくる」
「重傷を負ったことに同情はされても、やはり婚約は破棄されるのかしら」
「ああ間違いなくそうなる。殿下はそれとなくマチルドに匂わせていたというのに。あの子は全く気付いていなかった。それどころか、婚約を機にお金の心配がなくなったと勘違いして、散財し放題だったからな」
マチルド様がマキシム王子の婚約者だったなんて! しかも婚約破棄の危機ですって?
どういうこと? とベスを見ると、顔を背けられてしまった。
まあ誰だって悪い報告はしたくないものね。おいおい分かることだろうと、私は婚約とそれが破棄されそうだという件については考えないことにした。
「実は殿下から茶会のお誘いがきているのだが」
事故から、はや一月が経っていた。
沈鬱な表情の父親が、金色の紋章が印刷されている白い封筒をテーブルの上に置いた。
すっかり寡黙になったマチルドと両親は、午後のティータイムを中庭の丸テーブルで過ごすのが日課になっていた。
マチルド様の両親には余計なことを言わない方がいいと思い、記憶がないとだけ伝えていた。
お医者様も、あの事故の状況では、そういうことが起きても不思議ではないと味方してくれた。
私は記憶を無くし、性格までも変わってしまったと周囲に認識されたため、友人たちにも合わせてもらえなかった。まあ私にとってはその方がありがたかったけれど。
だがマキシム王子主催の茶会となれば出席しない訳にはいかないだろう。何しろ私は婚約者なのだから。
実家の店の顧客の大半は貴族だった。身分の高い方々に接客するとあって、私は物心ついた頃からマナー講師に厳しく躾けられてきた。だから宮殿で開催される茶会に出席しても、恥をかくようなことはないと思う。
「承知いたしました。きっと記憶を無くした私を値踏みなさる会なのでしょうね。精一杯頑張ります」
茶会の会場となった広間には見知った顧客たちが大勢いた。名だたる家の令息や令嬢たち。
「死にかけたと聞いていたが、随分と元気そうではないか」
宮殿の使用人に案内され、指定の席に座ろうとしたところに背後から声をかけられた。
棘のある声を発したのは、誰よりも煌びやかな衣装を身に着けた美青年だった。
この国では、「専任服士」に任じられている三名の職人だけが、王族の仕立てを請け負うことが許され、宮殿に出入りできるのだ。残念ながら我が家はまだその栄誉に浴していない。
この方がマキシム王子に違いない。何だか厳しい表情をされているけれど。
私自身は初対面だが、王子の目にはよく知っているマチルド様が映っているのだ。
彼の瞳からは炎が吹き出しそうなほど力強い意志を感じられる。私に対して相当思うところがありそうだ。
「聞いているのか?」
「申し訳ございません。まだ、たまに興奮すると意識が薄れることがございまして。殿下にお会いできた嬉しさで胸が高鳴ってしまったようですの」
「は? いや……。それはすまない」
マキシム王子は驚いたような少し照れたような顔をされている。どうしてだろう? 元のマチルド様がどういう風に接していらっしゃったのかは知らないが、それはもう前世の彼女なのだと思ってもらわなければ。
一度死んで生まれ変わった私を知っていただくしかないのだ。
今、マキシム王子に婚約を破棄されると、カッサンドル家は窮地に立たされる。あの両親が気の毒だ。
それならば、なんとかして和解(?)の道を探らなければ。
喧嘩別れみたいに一方的に婚約破棄されるのではなく、きちんと話し合って――できれば援助いただいた金銭の返済は免除していただいて――婚約を解消していただく。
うん。それしかない。
「まあ! マチルド様! ご無事そうで何よりですわ。本当に心配しておりましたのよ」
うわっ! 我が店のブラックリストのぶっちぎりナンバーワンが、見たこともないにこやかな笑顔で現れた。ちなみにナンバーツーがマチルド様だったけれど。
ローラ・モーテンセンは、透き通るような白い肌にサラツヤの黒髪の持ち主だ。こうして微笑んでいる姿はまるで聖女のようだ。
納品したばかりのドレスの裾に、安物のまち針を刺して店に持ってきた時は吹き出しそうになったものだけれど。
平民が使うまち針を侍女に買ってこさせたのだろう。高級ドレスサロンである当店が使うはずもないのに。
ローラ様は、注文内容と仕上がりが違うだの、使用している布の質が悪いだの、何かとクレームをつけては、遠回しに返金やお詫びの品を要求してきた。
応対が面倒臭いので、できることなら他店を使ってほしかった。
マチルド様には、思いつきでデザインを変更させられたり、突然納期を早められたりと、散々振り回されたけれど、金払いだけはよかった。そのお金が借金だったとは知らなかったけれど。
そういえば、ローラ様については、私たち親子が受ける印象と、店内で他のお嬢様方が噂されている内容とが真逆で、不思議に思っていたのだ。
目の前のローラ様を見て、貴族社会では相当な猫をかぶっていらっしゃることが分かった。
店で私を睨め付けていた人だとは思えないほど、回復したマチルド様を見て嬉し涙を堪えている姿を演じている。
胸の前でぎゅうっと両手を組んで、潤んだ瞳をしばたたく様に、周囲の人々まで心を打たれている。
やれやれ。どう接したものか……。
マチルド様とローラ様はどういう関係性なのかしら。うーん、困ったわ。
私が対応を決めあぐねていると、ローラ様が私の手をとって、自分の手で包み込んだ。うぅ――。気持ち悪いんですけど。
「私、マチルド様がいらっしゃるとお聞きして、クッキーを焼いてきましたのよ。まだまだ人様にお出しできるレベルではございませんけれど、私の気持ちをお伝えしたくて頑張りましたの。殿下に無理を言って、こうして振る舞うお許しを得ましたの」
ローラ様が自分で焼いたというクッキー――おそらく料理人が焼いたのだろうが――を、宮殿の使用人が恭しく運んできた。
ローラ様やマキシム王子のお皿には素焼きのクッキーが重ねられているが、私のお皿には、チョコレートがコーティングされているものが一番上に乗っている。
マキシム王子も違いに気が付いたのか、私の前に置かれたクッキーに何度も視線をやっている。
……あら? もしかしてチョコレートがお好きなのかしら。
お客様が興味を示したものを素早く察知し、さりげなく手に取るように勧めることは、私の最も得意とするところだ。
「殿下。私、殿下に用意された素朴なクッキーを食べてみたいのですが。交換していただけませんこと?」
「ほ、本当か? よしっ。そこまで言うのならば交換してやろう。ローラも其方を喜ばせるために焼いてきたのだから、今日ばかりは我が儘を許す」
マキシム王子が使用人に目配せをして、皿を交換させた。
その様子にローラ様がビクンと反応して「お待ちください!」と大きな声を出した。傍目にも明らかに動揺している。
「驚くではないか。どうしたというのだ?」
そう言いながらもマキシム王子はチョコレートのクッキーに手を伸ばしている。
「だめです!」
あまりの剣幕にマキシム王子も手を止めた。
――なるほど。チョコは目印で、必ずそのお皿を私に運ぶようにと言いつけてあったのね。
どうせ姿はマチルド様なのだから、彼女が言いそうなセリフを言ってみよう。
「あら。私が食べる分には問題ないのに、殿下が召し上がるのは都合が悪いだなんて。まさか私が憎くて毒でも仕込んでいるのかしら?」
ローラ様は一瞬だけムッとしたが、すぐに弱い女性に戻り心外だと言わんばかりに涙目で訴えた。
「マチルド様、それはあんまりですわ。私がどうしてそのようなことを?」
「じゃあ殿下が召し上がっても問題ないはずよね」
「いい加減にしろマチルド。ローラがそんなことをするはずがない。この俺が証明してやる」
あらあら。まさか婚約破棄の原因はローラ様? マキシム王子は見る目がないのね。
マキシム王子がクッキーを取って口に運ぼうとしたところへ、わざとらしく使用人がぶつかり、チョコクッキーがポトンとお皿の上に落ちた。
「も、申し訳ございません。なんという無礼を」
取り乱す使用人は自分の不始末に怯えているように見えるが、ローラ様とグルなのは明白だ。
「別によい。下がれ」
マキシム王子はそれだけ言うと、再びクッキーに手を伸ばした。意外に食い意地が張っているのね。でも王子にもしものことがあってはいけない。
「殿下。ここは毒見役をお呼びになってはいかがでしょう」
「は? 茶会でか? そのような慣例はないぞ」
マキシム王子に睨まれてもここは引けない。私も真実が知りたい。
「ですがローラ様がこれほど心配されているのですから」
え? そうなのか? とローラ様の泣きそうな顔を見て、マキシム王子は毒見役を呼んでチョコクッキーを食べるよう命じた。
口に入れた途端にもがき苦しむようなことは起こらなかった。
私はローラ様が安堵して、こっそりクッキーを下げさせたのを見逃さなかった。逃してたまるか。下がろうとした毒見役を私の側に呼んで控えさせた。
今度はローラ様がしっかりと睨みつけてきた。そうそう。あなたはいつもそういうお顔をなさっていたはず。
テーブルの上が綺麗に片付けられ、ケーキやフルーツが運ばれてきた。
マキシム王子が仕切り直す。
「ほらみろ。気が済んだか? これに懲りて、ローラを目の敵にするのは止めるのだ。さあ――」
突然、毒見役が「ううう」と呻き声を上げた。
「なんだ。まだいたのか。どうしたというのだ」
「そ、それが。腹痛が。ああっ。申し訳ございません。失礼させていただきます」
毒見役はマキシム王子の許しが出る前に、よろよろと部屋を出て行った。
テーブルの周りにいた皆がローラ様を疑惑の目で見たが、彼女はまたしてもお得意の可憐な乙女を装い抗議した。
「お待ちください。毒見役の方の健康状態は私の関知するところではございませんわ。殿下。殿下は私を信じてくださいますわよね」
いやいや。毒見役の体調が変化するということは、そういうことでしょうが。
「悪いが、このテーブルにあるものは全て下げさせてもらう。ローラ。君を疑ってはいないが、何者かの悪意を感じる」
あら。マキシム王子は馬鹿じゃないようね。ローラ様のうるうるした瞳に言いくるめられるのかと思っていたのに。
ローラ様は悔しそうにはらりと涙を一雫流すと、席を立って歩き出した。マキシム王子が少し迷ってから追いかけても追いつけるくらいのスピードで。
さすがブラック顧客ナンバーワン。やるなあ。マキシム王子が追いかけてくる自信があるんだなあ。
王子を見ると、彼も私の顔をまじまじと見ていた。え? 追いかけないの?
「あの。追いかけなくてよろしいのですか? ここは殿下が追いかけてローラ様に優しい言葉をおかけするところでは?」
「……お前。まるで別人みたいなことを言うんだな。記憶をなくして性格が変わったとは聞いていたが。ここまでとは」
まあ確かに。元のマチルド様なら「いい気味よ」とか言いそう。
「ここで俺が席を立てば、ことが大きくなる。それに彼女を追いかければお前が笑われるのだぞ。その顔は――分かっていて言っているという顔だな」
「何というか。一度死んだ身ですから。笑われるくらい、なんてことはありません」
「ふっ。あっはっはっ。そうか。それは強いな」
マキシム王子の瞳に優しさが見えた。
「……それより。俺がチョコレートを好きなことは覚えていたんだな。さっきはわざと変えさせたんだろ。七歳でチョコレートに訣別宣言した時に、お前にだけは反対されたっけ。『好きなものを諦めるなんて馬鹿なの!』ってさ」
うわあ。王子にそんなこと言っちゃう? マチルド様って只者ではない。
それにしても。ローラ様ってマチルド様相手でもここまでするんだなあ。平民相手だから無茶なことができるって思っていたのに。今後も要注意ね。
ローラ様が部屋を出たのを見届けてマキシム王子の方を見ると、彼はまだ私を見続けていた。そんな風にまじまじと見つめられると恥ずかしくて目を合わせられないのですけど。
「あ、あの。今日は何か発表なさるご予定とお聞きしましたが。そのう――」
「ん? ああいや。別によいのだ。特に発表するようなことはない」
よかったー! 今日は婚約破棄されないみたい! 助かったー! 話し合いはまた今度でいいよね。
マキシム王子は使用人に命じて、レタスと卵のサンドイッチにピクルスを添えて持って来させた。
「好きだろ?」
好き? 私が? へえー。これがマチルド様の好物なのね。
「美味しい! とっても美味しいです」
ハッ! あまりの美味しさに夢中になって食べてしまった。
「申し訳ございません。私ばかりがいただいて。殿下はよろしいのですか?」
「お前の食べっぷりを見ていたら、なんだかもう、お腹が膨れた気がする」
「ええ? そ、そんなに食べていましたか? お、お恥ずかしい」
「あっはっはっ。お前、いつからそんなしおらしくなったんだ」
ケラケラ笑うマキシム王子って愉快な方だわ。
こうして意外にも楽しいひと時を過ごすことができたのだった。
両親は茶会で婚約破棄されなかったと聞き、ホッと胸を撫で下ろしたようだった。
だがまだ危機が去った訳ではない。マキシム王子の気分を害することのないよう、私はその後も屋敷にこもらされた。
それでも避けて通れないイベントがやってきた。国王主催の青の舞踏会だ。
青は独身の男女を象徴する色で、舞踏会には独身の男女のみが招待されるのだ。
欠席することは即、国王に対する不服従と受け止められる。
両親は婚約破棄発表のまたとない場になると戦々恐々としていたが、私はドレスの注文のために実家に通える嬉しさで舞い上がっていた。
久しぶりに実家の店を訪ねると、お父さんが目元を緩ませて私に駆け寄ってきたため、ベスがギョッとして叫んだ。
「な、何をなさるのです!」
しまったと我に返ったお父さんは平謝りだ。
「申し訳ございません。亡くなった娘の魂が、あの場にいらっしゃったマチルド様と共にあるような……。ああ、いいえ。世迷言でございます。お忘れください。どうぞ、なんでも仰せのままにいたします。何なりとお申し付けくださいませ」
私もお父さんに合わせなくては。
「それでは、その奥にあるという工房を見せてもらおうかしら。一度入ってみたかったのよ。嫌とは言わせないわよ」
言い慣れないマチルド節に舌を噛みそうになった。お父さんも必死に笑いを堪えているのが分かる。
「は、はい。それでは特別にご案内いたしますが、このことはどうかご内密に」
工房に入ると父と娘に戻って話が弾んだ。
互いの暮らしぶりを確認したところで、ずっと考えていた新作のドレスのデザインを書いて見せた。
「これは素晴らしい。お前のドレスが一番になること請け合いだ。他のお嬢様方には新作のデザインは無理だとお断りをしているからな。まあ色を変えたりヒダを倍にしたりするくらいの仕立てはしているが」
そうか。デザイナーの私は亡くなってしまったのだ。
まさか自分が着るドレスを自分でデザインすることになるとは。
工房には、私がいつも着ていた普段着が残されていた。手に取ると自然と涙がこぼれてくる。
「お前が帰ってくる気がして捨てられないんだ。その姿は、その、本当にもう元には戻らないのか?」
「うん。多分」
お父さんはぎこちなく笑うと、私の手をぎゅうっと握ってくれた。
「そうか。それならば仕方ない。こうして話ができるだけでも嬉しいよ。ドレスは舞踏会までには余裕をもって届けるからな」
「うん!」
私も、元の私の姿が恋しい。
普段着を一着だけ持って帰ることにした。山のようにあるドレスの中に入れてしまえば、誰も気付かないだろう。
お父さんのことだから、舞踏会の一週間前には届くと思っていたのに、前日になってもドレスは届かなかった。
おかしい。絶対に変だ。邪魔が入ったと考えるべきね。
気を揉んでいるところに、ドレスは当日の納品になると連絡が入った。宮殿の使用人口に預ける形になるという。
ベスは念の為に袖を通していないドレスを準備すると言っているが、私はやっぱり新作のドレスを着たい。
明日、必ずお父さんから受け取ってみせるわ。
一夜明けて舞踏会当日。
私は新作のドレスを自分で受け取ると決めていた。
ローラ様が何か仕掛けてきた場合、ベスでは太刀打ちできないだろうし。
何より、無理をしてくれたに違いないお父さんに会って、お礼を言いたい。
あれは虫の知らせだったのだ。私は、なんとなく持って帰っていた普段着を、こっそり支度品の中に入れて宮殿に持ち込んでいた。
私はマキシム王子の婚約者ということで、招待客たちの控室とは別に個室を用意されていた。
私が使用人のふりをして自分でドレスを受け取りにいきたいというと、ベスは息を吸ったまま失神しそうになった。
「いったいどうなさったのです。マチルド様は――本当にマチルド様なのですか?」
……す、鋭い。
いい加減、前世の私のことは忘れてほしい。
なんとかベスを言いくるめて、持参した普段着に着替えると元の自分に戻った気がした。
感傷に浸っている場合ではない。使用人口へ急ごう。
廊下で数人の顧客の令嬢とすれ違ったが、粗末なドレスといつものへりくだった身のこなしで、誰も私だと気が付かなかった。
結局、粗末なドレスを着ている身分の低い者など、目には入らないってことね。
廊下にはたくさんのドアが並んでいた。誰が出てきても驚いたりせず、使用人としての礼を尽くさなければならない。
――と思ったそばからドアが開き、宮殿の使用人が出てきた。
「それではローラ様。何かございましたらお呼びください」
ローラ様も個室をあてがわれていたんだ……。
随分な特別待遇。やっぱりマキシム王子はローラ様のことを?
……なんだろう。今、胸の奥の方で何かモヤモヤとした気持ちが湧き上がってきた気がする。
ううん。そんなことより急がなければ。
使用人口は宮殿の裏門にある。出入りの商人たちの他に、招待客が乗ってきた馬車の御者など、宮殿に入れない関係者がたむろしていた。
お父さんを探していると、耳を疑うような会話が聞こえた。
「茶会で婚約破棄が発表されなかったからって随分だよな。あれ? お前、その傷……。はあ。ローラお嬢様の癇癪はまだ収まらないのか?」
ローラ様のところの使用人だわ!
「ああ? 違う違う。この額の傷は荷馬車で突っ込んだ時のものさ。それにしても俺たち、本当に大丈夫なんだろうな? マチルド様が地べたに這いつくばる姿を見たいって仰って、突っ込むように命令されたけどさ。まさか死人が出るとは――」
「しぃー! 馬鹿か、こんなところで。誰が聞いているか分からないんだぞ」
はい。しっかり聞いていましたとも! あなたたちの顔も覚えましたからね!
それにしてもひどい。そんな理由であんな事故を起こすなんて。
「サラ! こっちだ!」
今、私の元の名前を呼んだのは――。
ソワソワと落ち着きのないお父さんの姿を見つけると、涙が出そうになった。
「お父さん!」
「お前、そんな格好で何をしているんだ? バレたら大変だぞ」
「大丈夫。それより、相当嫌がらせをされたんでしょう? もしかして寝ていないんじゃないの?」
「心配いらないさ。まあ、ローラ様から何度もやり直しを依頼されてしまったがな。いやいや。そんなことより、ほら。早く持っていきなさい」
「ありがとう!」
いつもより一回り大きな厚みのある箱が、ふんだんに生地を使ったドレスが入っていることを示している。
ああ早く見たい! どんな仕上がりなのかしら!
周囲の目もあるため、形ばかりの挨拶でお父さんと別れた後、心を弾ませて部屋に戻った。
新作のドレスは、私の想像を遥かに超える華やかな出来だった。大好きな黄色の生地を三種類使用していて、マチルド様の透けるような薄い金髪にもよく似合う。
ベスも見惚れて言葉が出ないようだ。
そこへ宮殿の使用人がやってきた。
「マキシム王子が内々にお話をされたいとのことです。三階のテラスまでお越し願えませんか。そちらの侍女の方もご一緒に」
「え? 私もですか?」
「はい。そのように仰せです」
ベスは怪訝そうな顔をしているが、従わない訳にはいかない。
「承知しました」
早くドレスに袖を通してみたかったのに。残念。
「マチルド様。婚約の話題になったら気を失うふりをなさいませ。後は私が誤魔化しますので。旦那様からそれだけは念を押されております」
ああそうだった。その危険は常に付きまとうんだった。
三階のテラスで待つように言われてどれくらい経っただろう。
「マチルド様。さすがにおかしいですわ。そもそも内々のお話でしたらお部屋でなさればよろしいのに。私、様子を見て参ります」
「分かったわ。私は念の為ここでお待ちするわ」
しばらく一人で待っていると、ベスが息を切らせて戻ってきた。きっと誰もいないところでは廊下を走ったのだろう。
「マチルド様。お部屋にお戻りを。あの伝言は偽物でした」
やっぱりね。ものすごく嫌な予感がして足早に部屋に戻った。
意外にも、マキシム王子が部屋の外に立っていた。
「俺が呼び出したとかいう話が気になって来てみたのだ。お前は特に怪我などはないようだな」
心配してわざわざ来てくれるなんて……。私は言葉に詰まって、ただただマキシム王子の顔を、その青い瞳を見つめていた。
王子も目を逸らさず、私たちは随分長いこと黙ったまま見つめ合っていたらしい。
「お、おほん」
マキシム王子の従者の咳払いで、自分の無礼に気が付いた。すぐさま王子を部屋に通すと、ベスにお茶の準備を頼んだ。
「なんだこれは……」
先に部屋に入ったマキシム王子が凝視している先には、私の新作のドレスがあった。
それを見た途端、体中の力が抜けていくのが分かった。そんな……。
「お、おい! しっかりしろ!」
王子はよろめいた私の体を抱き抱えるようにして、ソファーに座らせた。
壁にかけられた新作のドレスは、見るも無残な状態に変わり果てていた。
胸元のレースとフリルは破り取られ、スカート部分はウエストからざっくりと縦に裂かれていた。
「ローラからは、お前が周囲の人間たちに嫌がらせをしていると、ずっと相談されていたのだが。どうやら事実は違っていたのだな。嫌がらせを受けていたのはお前の方だったのか。どうして言わなかった」
え? 知らなかったし。でも確かに、マチルド様は我が儘で強引なところはあったけれど、嫌がらせのような陰湿な行為はしない方だったと思う。
つまり、ローラ様が相当上手く立ち回って、マチルド様の評判を落としていったって訳ね。
「……すまぬ。言える訳がないか。俺は事実を調査することもせずにローラの言うことを信じて、お前が悪いと決めてかかっていたからな」
マキシム王子が勝手に反省して謝ってくれている。どうしよう。何て言えばいいの……?
「いや、そんなことよりも、ドレスがこれでは舞踏会は無理だな。陛下には俺からも口添えをするので一刻も早く――」
「いいえ! 欠席する訳には参りません」
それこそがローラ様の狙いだ。それに、どんな理由だろうと欠席すれば、その事実は消えない。今後何かある度に、そのことを持ち出されて、まずい立場に追いやられるかもしれない。
「殿下。そのお心だけいただきます。ありがとうございます。ですが、ご心配には及びません。まだ時間がございますわ」
「確かに舞踏会が始まるまでは、まだ時間があるが。俺の指示なら専任服士がドレスを直すことも出来るが、その専任服士を呼んでくる頃には舞踏会が始まってしまう」
マキシム王子はどうしたものかと、握った拳を顎の下に添えて考え込んでいる。考え事をする時の癖らしい。真剣な表情は、精悍で男らしい。
それにしても、何て優しい方なんだろう。この方といずれ婚約破棄について話し合わなければならないなんて……。
「殿下。それでは間に合いませんから、私が自分で直します」
「自分で? お前が? 裁縫なんてしたことあるのか?」
「え? ええと。ええまあ。刺繍の延長のようなものですから、縫うくらいは私にも出来ましてよ。あとは少しの工夫でドレスを蘇らせることが出来ると思いますわ」
「そうか。お前のことだ。やると言ったならきっとやるのだろう。他に俺に出来ることはないか?」
その励ましの言葉だけで十分です――あ!
「殿下。実は私、少しだけ事故の記憶が戻ったのです。荷馬車を突っ込ませた犯人を思い出したのです」
「なんだと! 誰だ? 誰がやったのだ?」
「名前までは分かりかねますが、ただ見たことのある男性でした。どこかの家の使用人だと思うのですけど。たしか額に三日月のような跡がありました。」
まあ、その傷は事故の時に出来たものらしいけど。これから探すなら手がかりは必要ですものね。
「額に三日月の跡だな。よし、すぐに探らせよう。それにしてもお前が見たことがあるのなら、上級貴族の家の可能性もあるな……。もしや今日の舞踏会に参加している者たちの中に……」
そうそう。その調子でどうかローラ様まで辿り着いてくださいませね。
「殿下。それでは犯人探しの方はお任せいたします。私はすぐにドレスの修理に取り掛かりますわ」
「ああそうだな。ひとまず俺も支度を急ぐとしよう。準備が出来次第、部屋の前でお前が出てくるのを待っているからな」
「はいっ!」
マキシム王子が部屋を出ていくのを見届けてから、床に落ちているフリルを拾い上げた。
お父さんが心を込めて縫ってくれたのに。針を持つお父さんの姿を思い浮かべると、涙が込み上げてきた。
「マチルド様。裂けたスカート部分は私が縫い合わせますので」
「いいえ。いいの。私、自分でやりたいの。それより、糸と針を用立ててほしいのだけど」
「それならばここにございます。応急措置程度はできるように、万が一に備えて持ってきておりますから。これでよろしいでしょうか」
ベスはそう言うと、ゴソゴソと木箱を取り出した。
「ええ! 十分よ」
私は裂けた部分を継ぎ目が分からないように器用に縫い合わせた。スカート部分は布をふんだんに使用しボリュームがあるため目立たない。
ベスが目をむいて驚いているが仕方がない。彼女が知る限り、マチルド様には裁縫の能力はないはずだ。
ベスの視線は無視だ。とにかく手を動かさなくては。
胸元のレース部分の継ぎ目を何とか誤魔化さないと。
剥ぎ取られたフリルの布を三等分し、くるくると巻いてバラの花を模した飾りを作る。それを継ぎ目の上に並べて縫い付けると、我ながら贅沢な飾りが出来た。
「マチルド様。いつの間にそのようなお稽古を? それにしても素晴らしい出来栄えですわ」
これでやっと袖を通すことが出来る。お父さん。素敵なドレスをありがとう。
髪型を整えて廊下に出ると、マキシム王子が待っていてくれた。
ドレスが蘇ったことに驚いている。
「……な! あ、いや。き、綺麗だ。とても」
「本当ですか? よかった。とてもさっきまで破れていたドレスには見えないですよね」
「そ、そうではなくてだな。お前が……。ああもうよい。とにかく行くぞ」
マキシム王子は急に背中を向けるとスタスタと歩き出した。え? 怒ったの?
大広間に入ると、着飾った子女たちがあちこちで歓談していた。
「俺は陛下をお迎えに行く。また後でな」
マキシム王子は厳しい顔でそう言うと足早に立ち去った。
顧客として見知ってはいる人々とどう接すればいいのかと、話しかけるのを躊躇していると、ローラ様がやってきた。舌なめずりをしているような、格好の獲物を見つけた顔をしている。
誰にも見られていない時は、そういう素の悪い顔が出てしまうのね。
「あら? ……そのドレス。先ほどお見かけした時とはデザインが違うようですけど」
「変ですわね。控室から外には出しておりませんのに。いつご覧になられたのかしら」
「そ、それは――。たまたま。控室のドアが開いた時に見えたのですわ」
そんな訳がない。部屋の奥の壁にかけていたのだから。
ローラ様はフンと顎先を上げて、私を見下ろすような顔つきでネチネチと話し始めた。
「そんなことより。宮殿内でドレスを仕立て直されたと言うことは、まさか王族でもないのに専任服士をお召しになったの? でも専任服士の方が、あなたの要請に応じるとは思えませんわね。もしや、専任服士ではない職人を連れてこられたのかしら? それって――重罪ですわよ」
なるほど。舞踏会に欠席するかと思いきや、私がのこのこと現れたので、今度はそういう言いがかりをつける訳ね。
「専任服士も職人も来ていない。それは俺が保証する」
マキシム王子の声が広間に響き、話し声がピタリと止んだ。王子の後ろには宮廷騎士が二名控えている。
ローラ様は、王子が私の味方をされたことに驚いて立ち尽くしている。
「俺の愛する婚約者は、そのようなことはしておらぬと言った。それでも反論するならば証拠を出すがよい」
あ、愛する? それって。え? 私、じゃなくてマチルド様か。でもでも! マチルド様は婚約を破棄されるところだったじゃない。だとしたら今は――今は私が愛されているってことにならない? いやいやいやいや。もう頭が変になりそう!
「殿下? どうなさったのです? そのような怖いお顔で。私、胸が苦しくなりましてよ」
ローラ様は、悲しそうにツーと涙を流してみせる。役者だな。
でもマキシム王子はそんな安っぽい涙に騙されないはず。
「マチルドめがけて荷馬車を突っ込ませて逃げて行った犯人を捕まえた。其方の家の使用人だった」
さすがのローラ様も真っ青な顔でブルブルと震え始めた。
「お前の命令だと白状したぞ。陛下も『青の舞踏会を始める前に処置せよ』と仰せだ。この者を捕らえよ!」
「お待ちください」とか「誤解です」と泣き叫ぶローラ様はその場で捕縛され、連行されていった。
静まり返った大広間に国王入室のファンファーレが鳴る。皆が片膝をついて待つ中、王冠と赤いマントを身に纏ったモーモント王が部屋の中央まで進む。
「これより青の舞踏会を開催する!」
モーモント王が高らかに宣言すると拍手が沸き起こった。
すぐさまマキシム王子が私に手を差し伸べる。
「マチルド嬢。私と踊っていただけますか?」
「ええ。喜んで」
マキシム王子が私の手を取り、腰に手を添えると、オーケストラがワルツの演奏を始めた。
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